坂本龍馬の盟友「近藤長次郎」、海援隊メンバーの一人でありながら、切腹して果てた人物です。
彼は「どうして切腹しなくてはならなかったのか」?
好奇心と向学心が強かった秀才「近藤長次郎」は、イギリスへひそかに留学しようと考えていたらしく、それが「切腹の原因」だったです。
近藤長次郎の生涯と最期について、わかりやすく簡単に解説いたします。
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この記事を短く言うと
・近藤長次郎とは、坂本龍馬の盟友で「海援隊」のメンバー
・長次郎は「海援隊」が長州藩と取り交わした「兵器取引」と、「イギリスへ秘密で留学しようとしていたことが仲間にバレたこと」が原因で切腹した
・坂本龍馬がそばにいたなら、長次郎は切腹しなくてすんだかもしれない
「近藤長次郎」とは何者かを、かんたんに解説
「近藤長次郎」と聞いて、何をした人物か説明できる人は歴史にかなり詳しい人でしょう。
長次郎は坂本龍馬の海援隊(亀山社中)の隊士のひとりです。
高知城下の饅頭商人の息子として生まれ、長次郎自身も饅頭を売り歩いていたため、はじめは苗字がなく「饅頭屋長次郎」と呼ばれました。
幼少期から聡明で漢学、蘭学、英語を学び、その才能を藩に認められ、「名字帯刀」を許された上で郷士(下級武士)の身分を与えられました。
人一倍向上心が強く、弁才があり、性根もすわっており、龍馬からその才を愛され、海援隊で重要な存在となり、他藩との外交を任されます。
長州藩から派遣されてきた兵器購入係の井上聞多、伊藤俊輔を英国商人グラバーにひきあわせ、短期間に的確な事務処理で、ユニオン号や新式銃を買い付けて長州に送りました。
この功により、山口に招待され長州藩主毛利敬親に拝謁を許され、感謝のお言葉を賜るという破格の栄誉をかざりました。
「長次郎」は、なぜ「切腹」したのか?その悲劇的な最期とは
長州の買い付けを成功させた長次郎は、海援隊の中で存在が浮き上がってしまいます。
長州買い付けの成功は、海援隊士全員が粉骨砕身して頑張ったためなのですが、長州藩主にお目見えをしたせいで、ひとりでやった様な高慢な振る舞いがあったそうです。
隊士から存在が浮いてしまった長次郎は、密かに脱隊し長州藩の費用でイギリスに留学をしようと考えました。
しかし、海援隊には隊則がありました。
「凡そ事の大小となく、社中に相議してこれを行うべし。
もし、一己の利のためにこの盟約に背く者あらば、割腹して罪を謝すべし」
というものです。
つまり
「何事も海援隊の仲間に相談し、自分の利益を優先した場合は、切腹して謝罪しなくてはならない」
間もなくこの密航の件が隊に漏れます。
他の隊士より追及を受け、隊則に基づき検断されます。
この騒動が起きた時、龍馬は長崎を留守にしていました。
隊士たちとしては、龍馬が留守中にこの様な一己の利のために脱退密航するものが出ると隊則が緩んでいると思われ、長州や薩摩への聞こえが悪くなると思い、龍馬がいないまま、速やかに隊則を厳に運用する様動いたのです。
長次郎は腹を十文字に斬り、立派に切腹して果てました。
切腹で、「十文字」に腹を斬るというのは、相当な精神力がなくては出来ないこと。
坂本龍馬の遠縁である「武市半平太」は、切腹に際して誰も成し遂げたことのない作法である「三文字」に腹を斬って亡くなり、その偉業を歴史に刻み付けました。
長次郎は、元々商家の出であるにも関わらず、十字に切腹したのです。武士の魂がいかに根付いていたかを感じさせます。
「坂本龍馬」は、なぜ「長次郎」を助けられなかったのか?
龍馬は「自分がいたら、死なせなかった」と、長次郎の死を悔やみ続けました。
龍馬はその時期「薩長同盟」締結のため京都にいました。
長次郎の死後に隊士から報告を受けた龍馬は、「仕方がなかった」と考えたようです。
隊は団結することが重要です。
長次郎を隊則によって処罰しなければ、次々と同類の者が出て、隊は崩れ去るという事が頭では分かっていたのです。
しかし、龍馬は長次郎の才を惜しみました。
自分がいれば、当然長次郎は龍馬に事前に相談したであろうし、命を奪うようなことにはならなかった、と考えたのでしょう。
「近藤長次郎」について「ひとこと」いいたい
近藤長次郎がもしも生きていたとしたら、どのような活躍をしていたのでしょうか?
長次郎は「英語」を熱心に学んでおり、外国に強い関心を持っていました。さらに「商才」もあったため、岩崎弥太郎のように一旗あげていたかもしれません。
三菱・・・・岩崎弥太郎が現在も残る大財閥を、「三井」や「住友」のような老舗の大商人と並ぶほどの財閥をつくれたのは、「後藤象二郎」のような「政府との太いパイプ」を持っていたためです。
近藤長次郎も、明治維新後に商売を行っていたら、同じく海援隊メンバーで後の外務大臣「陸奥宗光」とのパイプを使って、情報や利権を仕入れていたかもしれません。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・近藤長次郎は高知城下の饅頭屋の息子として生まれ、勉学によって頭角を現し、郷士の身分を得ます。その後海援隊士として長州藩の武器などの買い付けに活躍します。
・長州藩の買い付けの成功は海援隊の中から長次郎を浮き上がらせてしまい、長次郎は密かにイギリスへの密航を計画しますが、隊に漏れてしまい、切腹することになります。
・その時龍馬は薩長同盟締結で長崎を留守にしていました。龍馬は自分が居れば長次郎が死ぬことはなかったと思い嘆きます。
近藤長次郎は陸奥陽之助(後の外務大臣陸奥宗光)と並び坂本龍馬にその才を期待された海援隊士でした。
明治31年贈正五位。生きていれば、明治を代表する政治家か事業家になったに違いありません。
以上となります。
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