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坂本龍馬とおりょうは新婚旅行第一号じゃない?第一号はあの人だった

日本で初めて「新婚旅行」をしたのは「坂本龍馬」と「おりょう」ではなかった!

その真相をわかりやすく解説いたします。

「寺田屋事件」で手を負傷した「坂本龍馬」は、妻「おりょう」さんを連れて、薩摩の温泉地へ旅行!

実は薩摩藩の家老「小松帯刀」のほうが、先に新婚旅行をしていた!


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この記事を短く言うと

坂本龍馬の新婚旅行よりも、小松帯刀のほうが10年も先だった

・そもそも龍馬とおりょうの旅行は、新婚旅行じゃなかった

・でも、記録に残っていないだけで、小松帯刀より先に新婚旅行した人がいたかもしれない


坂本龍馬とおりょうの新婚旅行!小松帯刀のほうが先だった

坂本龍馬

『引用元ウィキペディアより』

おりょう

『引用元ウィキペディアより』

1866年、寺田屋事件の後、坂本龍馬とその妻おりょうが、新婚旅行で薩摩を訪れたというのは有名で、それが日本で初めての新婚旅行であったと言われています。

しかし、実は愛妻家で知られる小松帯刀は1856年、霧島の栄之尾温泉に、妻の千賀や、千賀の父と共に滞在したという記録があります。

小松帯刀

『引用元ウィキペディアより』

そして小松帯刀が結婚したのもこの1856年です。

おそらくこれは新婚旅行であったのではないかと思われ、もしこれが新婚旅行であるならば、坂本龍馬とおりょうが薩摩に新婚旅行に出かけたのよりも「10年」も前に、小松帯刀が妻の千賀と新婚旅行に行っていたということになります。

そのため日本で新婚旅行第一号は坂本龍馬ではなく、実は薩摩藩の小松帯刀であった、ということになります。



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そもそも龍馬とおりょうの旅は、新婚旅行じゃなかった

薩長同盟の盟約成立から間もない1866年の寺田屋事件の際、坂本龍馬は伏見奉行に襲われ、傷を深く負いました。

その際、坂本龍馬は西郷隆盛の勧めにより傷を癒すため、また京都にいては伏見奉行など幕府側に狙われるかもしれないので、傷に効くという薩摩の霧島温泉での療養を勧めました。龍馬はこの寺田屋事件で両手指を斬られていたため、京都から遠く離れた薩摩への避難の意味合いも強くあったと思われます。

その薩摩への旅行に、妻であるおりょうが一緒についてきただけで、婚姻を祝しての旅行ではなかったという説があります。

小松帯刀の新婚旅行も、第一号かどうか怪しい?

当時の日本は幕藩体制が敷かれていて、なかなか他藩など他所へ自由に旅行に行くというのは、容易なことではなかったです。

しかし、伊勢参りなどが流行したこともあり、旅行に出かけるという文化が全くなかったわけではありません。

また、幕末になってくると幕府の権威も落ち、江戸や京都などに参勤交代で赴くことも多くなってきました。

小松帯刀が新婚旅行第一号といわれるのは、あくまでも小松帯刀より前に「婚姻を祝するための旅行」として旅行をした人の記録が残っていないということです。

他の記録がないため、小松帯刀が新婚旅行第一号であると言われていますが、実際のところは、記録が見つかっていないだけで、どこかの誰かが新婚旅行へ行くということを考え実行していた可能性は捨てきれません。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・坂本龍馬が新婚旅行に行くより10年も前に、小松帯刀が新婚旅行に行っていた

・坂本龍馬の新婚旅行と言われる薩摩への旅行は、実は避難と療養のためのものであった、という説もある

・小松帯刀が新婚旅行第一号と言われているが、それより前に行ったという記録がないだけかもしれない

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました



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