【横井小楠とは】子孫と家系図を調べてみた!坂本龍馬との関係とは?

西郷・大久保・木戸と並ぶ「維新十傑」の一人にして、名君「松平春嶽」のブレーンだった「横井小楠(よこい しょうなん)」について

「子孫と家系図」「坂本龍馬との関係」を、わかりやすく解説いたします。

「横井小楠の子孫はピアニスト!」

「小楠は、あの坂本龍馬と大喧嘩していた」


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この記事を短く言うと

・横井小楠とは、熊本藩士にして、福井藩主「松平春嶽」のブレーン

・横井小楠の子孫は、「京都市立芸術大学」教授にしてピアニスト「横井和子」さん

坂本龍馬と横井小楠は、何度か顔をあわせて、政治について激しく討論している


横井小楠とは何をした人なの?その功績を解説

幕末の偉人にして「維新十傑」の一人に数えられる「横井小楠」

「横井小楠」とは、いったい何をした人なのか?

≪横井小楠≫
『引用元ウィキペディアより』

歴史に名前を残したその功績とは、どんなものなのでしょうか?


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横井小楠の功績

横井小楠の功績を短く解説いたします。

・福井藩主「松平春嶽」の政治顧問として「幕府の政治改革」や「公武合体」などの改革事業を進める

・明治新政府では、「参与」として活動する

吉田松陰藤田東湖坂本龍馬勝海舟徳川慶喜たちと交流し、その思想に影響を与えた

横井小楠が、西郷隆盛や坂本龍馬のように、具体的になにかの功績を残したのか?というと、そういうわけでもないのですが・・・。その思想が多方面に多大な影響を与えたのは確かです。


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先祖・・・「小楠」という名前の由来

ちなみに「横井小楠」の「小楠(しょうなん)」というのは、鎌倉時代末期に活躍した武将「楠木正成」の息子「楠木正行(まさつら)」の別名「小楠公」からとったものです。

父「楠木正成」は「大楠公」と呼ばれ、「後醍醐天皇」に従い「鎌倉幕府」を滅ぼした名将。後に「湊川の戦い」で「足利尊氏」に敗ぶれ戦死しています。

おそらく「楠木正成」を尊敬していた「横井小楠」が、「大楠」と称することを恐れ多いことと考えて息子の別名である「小楠」を名乗ったのでしょう。

とはいえ、横井小楠の先祖は「後醍醐天皇」や「楠木正成」「新田義貞」「足利尊氏」に滅ぼされた鎌倉幕府執権「北条得宗家」の最期の当主「北条高時」の遺児「北条時行」と言われています。

つまり「横井小楠」は、元寇で活躍した「北条時宗」の末裔ということ。「北条時行」は一時期「後醍醐天皇」の「南朝」の側について「楠木正行」とともに、足利尊氏と戦っていたこともあるのですが・・・・わざわざ先祖の敵であった「楠木」のあだ名を名乗るとは・・・。なにか思うところが会ったのでしょうかね?


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思想

横井小楠の思想は、簡単に言えば「政治は民衆のためにある」というものでした。小楠はこんな言葉を残しています。

「政治は、万民のためを判断基準とする王道を歩むべきで、権謀術数による覇道を排すべきだ」

「王道」とは、「武力に頼らず、人徳・人格者であることで民衆からの支持を集めて、平和を実現すること」という意味。

対して「覇道」とは、「力づくで民衆を屈服させ、無理やり平和を実現すること」を言います。

つまりこの小楠の思想を要約すると

「政治は民衆のために行われるべきであり、人徳・人格者であるよう心がけ、誠実に行われるべきだ。

決して罠を仕掛けたり騙しあいをしたりと、権謀術数を使って力づくで相手を従わせるような真似をしてはならない」

一言で言えば「政治は誠実に民衆のために行え」ということです。

幕末の世を生きていた横井小楠ですが、現代の「民主主義」の根本を、すでに思想していたのです。

そんな小楠ですが、「酒乱」であったことがわかっています。酒に酔ったケンカが原因で江戸留学を中断させられ、70日間謹慎処分を受けています。

親族から酒をやめるよう言われても、まるでやめる気はなかったみたいですね。


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評価

幕臣「勝海舟」と、最後の将軍「徳川慶喜」が、横井小楠をこんなふうに評価していました。

勝海舟は

「私はこれまで、天下で恐ろしい人物を二人見た。

横井小楠と西郷隆盛だ。

横井の思想を西郷の手で行われたら、誰もかなわないだろう」

「横井小楠は他人には悟られない傑人だ。

その臨機応変さはただものでなく、どんなときも凝滞がない。つまり活理というものがあった。」

と言っています。

徳川慶喜はというと

「とてつもない傑物で、感心した。

難しいだろうと思う質問したが、滞ることなく返答があり、私が思っているよりもはるかに優れた意見だった。」

勝と慶喜にここまで言わせるとは、横井小楠はかなりの偉人だったのでしょうね。


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名言

書簡何ぞ須く句解の為にある

この言葉の意味は

「本というものは、一字一句を理解するために存在しているのではないよ。

何よりも大切なことは、その書籍を書いた人間と、心を一つにしなくてはならないということだ」

本の意味を理解するよりも、その本を記した人間が何を思い、何を願っていたのかを知ることが大切だ、という意味でしょう。

「人必死の地に入れば、心必ず決す」

「人間というものは、絶体絶命のがけっぷちに追いつめられれば、どんなことでも決断できる。死ぬ気になれば、なんでもできるのだ」

いつでも死ぬ気の気概が必要だ・・・ということかもしれません。


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簡単な年表

1809年8月13日、熊本城下で「横井時南」の次男として誕生

1816年、藩校・時習館に入学

1833年、居寮生になる

1837年、時習館の塾長に就任

1839年、江戸へ留学し、水戸藩士にして当時一流の学者「藤田東湖」と交流する

同年末、藤田東湖による忘年会の帰りに、泥酔して喧嘩

1840年、喧嘩が原因で帰国命令を下され、70日間の逼塞(自宅謹慎)を命じられる。

1841年、仲間と研究会を結成し「実学党」へと進化。「実学党」は後に解散

1843年、自宅で私塾を開催(後の「小楠堂」)

1849年、福井藩主「松平春嶽」の家臣「三寺三作」が小楠堂で学ぶ。

1853年、吉田松陰が「小楠堂」を訪問し3日間、小楠と対話

1854年、兄が亡くなり「横井家」の家督を相続。

1855年、「四時軒」へ転居

1857年、福井藩に招聘される

1858年、招聘に応じて福井へ。弟が亡くなったために12月に熊本へ帰郷

1859年、再び福井へ。同年12月、今度は母が危篤になり帰郷

1860年、三度福井へ。右派と左派が対立していたため、「国是三論」を書いて「居半一致体制」の必要性を説いた

1861年、江戸へ趣き、福井藩主「松平春嶽」と初めて対面する。この頃、「勝海舟」と交流。同年熊本へ帰郷するが、熊本で罪を犯して謹慎処分を受ける

1862年、4度目の福井藩へ。同年、江戸を訪れ「文久の改革」によって「政治総裁職」に就任していた「松平春嶽」のブレーンとして「幕政改革」に着手。kの頃、「一橋慶喜」や「坂本龍馬」と交流。

同年12月、熊本藩士にして友人「吉田平之助」の家を訪れていた際に3人の刺客に襲撃される。小楠は、友人宅の床の間に置いた「刀」を取ることが出来ず、やむを得ず、福井藩邸へ走って刀を入手して、再び吉田宅を訪れたが、刺客はすでに逃亡。友人「吉田」は負傷しており、後に死亡。「友人を見捨てて一人逃げた」と勘違いされ、熊本藩から知行を没収されて「浪人(無職の武士)」となってしまった。

1864年、坂本龍馬が熊本の横井小楠を尋ねる。

1865年、坂本龍馬がまた横井小楠を尋ねる。この時二人は「第二次長州征伐(四境戦争)」について口論している。

1868年、戊辰戦争勃発。「江戸城無血開城」が実現し、江戸幕府が滅亡

同年、横井小楠が明治新政府の「参与」に就任。

1869年(明治2年)1月5日、京都寺町通丸太町(京都府京都市中京区)で6人の刺客による襲撃を受けて死去。享年61歳

暗殺の理由は

「横井小楠が日本をキリスト教国にしようとしている」

というわけのわからないもの。(横井小楠はキリスト教の不況に反対していた)

実行犯は1名が襲撃の負傷で死去。4名が処刑。1名が消息不明。


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横井小楠の子孫と家系図

横井小楠の子孫は今どこで何をしているのでしょうか?

調査してみました。横井小楠の長男「横井時雄」は、後に「衆議院議員」となり、新島襄が造った「同志社大学」の3代目総長を務めています。

すると、ひ孫に当たられる「横井和子」さんがピアニストとして「京都市立芸術大学」の教授をしておられることが判明しました。

横井小楠の息子は、大河ドラマ「八重の桜」の主人公「新島八重」の姪を妻としています。

新島八重の兄「山本覚馬」の娘「山本みね」・・・・大河ドラマにも登場していました。

「家系図の引用などはご遠慮くださいませ」

ちなみに・・・余談ではありますが「新島八重」といえば、会津戦争で「会津若松城」に籠城し、鉄砲を手にして戦った女性。

この時、城攻めを行っていたのが「西郷隆盛」の従弟で、後の日露戦争で活躍する名将「大山巌

「大山巌」はこの戦いで足を狙撃されて負傷しているのですが、狙撃したのが「新島八重」だと言われているようです。


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『坂本龍馬』や『吉田松陰』との関係

坂本龍馬との関係

横井小楠と坂本龍馬・・・そして吉田松陰はどういう関係だったのでしょうか?

坂本龍馬は、勝海舟の使いとして横井小楠を度々尋ねています。合計で6回、龍馬は小楠を尋ねているのです。

1862年8月、「江戸」

1863年5月、「福井」

同年7月、「福井」

1864年2月、同年4月、同年5月「熊本」

特に最期の会談で、龍馬と小楠は口論をしています。「第二次長州征伐」について、龍馬はそれまで共に戦っていた「高杉晋作」たちを養護する主張をするのですが、小楠は「長州藩に非がある」と主張しているのです。

これによって二人は喧嘩別れしているのですが、龍馬は最期まで「小楠」のことを尊敬し続け、暗殺される直前につくっていた「新政府人事構想」において「横井小楠」を「参議」にするよう強く推薦しています。

どうやら龍馬は「横井小楠」を、大久保利通や西郷隆盛の指南役・・つまりアドバイザーに起用すべきだと考えていたみたいです。

龍馬が新国家構想として作成した「船中八策」と、その後につくられた「新政府綱領八策」は、横井小楠が作成した「国是七条」の思想が多数取り入れられています。

結局、坂本龍馬は明治維新を見ること無く、小楠よりも先に「近江屋事件」で亡くなりました。小楠は龍馬の死を、どう思っていたのでしょうか?

小楠は龍馬に対して、こんな言葉を残しています。

「坂本君・・・・君は考えが一つ違えば『乱臣賊子』になってしまう恐れがある・・・・ご注意あれ」

小楠は龍馬の自由奔放さを危惧していたのかもしれませんね。


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吉田松陰との関係

吉田松陰とは、どういう関係だったのか?

二人は一度だけ会っています。

1850年、横井小楠のほうが、吉田松陰のいる「長州藩・萩」を尋ねています。

しかしこの時、松陰は江戸へ出かけていたため、会うことが出来ませんでした。

3年後の1853年、今度は吉田松陰が長崎のロシア船に乗り込んで出国をしようとしていた途中、熊本へ出向いて横井小楠を尋ねています。

この時、小楠と松陰は、3度に渡って議論をし、互いの思想をぶつけ合っているのです。

小楠の偉大さに感銘を受けた松陰は、のちに小楠へ手紙を書き送っています。その内容は、小楠に「長州藩士の指導」を頼むものでした。

松陰は、後進育成のために、小楠を長州藩へ招聘すべきと考えていました。

1854年、、松陰は浦賀に来航したペリー率いる「黒船」に乗り込もうとして失敗。長州藩の「野山獄」へ投獄され、後に自宅で軟禁されます。

ここで「松下村塾」を主宰して後進育成に注力。「高杉晋作」「久坂玄瑞」「吉田稔麿」「伊藤博文」など、数々の偉人を育て上げることとなるのです。

その教育には横井小楠から得た知識も利用されていたかもしれません。


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本日のまとめ

本日の記事をまとめますと

・横井小楠とは、幕末の熊本藩士にして、福井藩主「松平春嶽」のブレーンを務めた人物

・子孫には、「京都市立芸術大学」教授・ピアニスト「横井和子」さんがいる

・坂本龍馬と吉田松陰も、横井小楠と議論し、影響を受けている

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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