MENU

【陸奥宗光とは】その生涯と最期!坂本龍馬の盟友で、暗殺犯に復讐した

外務大臣「陸奥宗光(むつ むねみつ)」について、その「生涯」と「最期」、「子孫と家系図」について、わかりやすく解説いたします。

「海援隊メンバーで、坂本龍馬の盟友。カミソリ大臣と呼ばれ、不平等条約の撤廃に力を尽くした」

実は「龍馬暗殺」の犯人に対して、復讐していた!


スポンサーリンク


歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

・「陸奥宗光(むつ むねみつ)」とは、明治政府の外務大臣。「不平等条約改正」に尽力した

・陸奥宗光は、坂本龍馬の盟友で「海援隊」で共に活動した

・「天満屋事件」で坂本龍馬暗殺の犯人と思われる「紀州藩士」に報復している


陸奥宗光とは?その功績をわかりやすく解説

「陸奥宗光(むつ むねみつ)」

明治政府の外務大臣。

とてつもなく頭が切れる人物であったため「カミソリ大臣」と呼ばれた人物。

明治以前は「陽之助(ようのすけ)」と名乗っていました

《陸奥宗光》
『引用元ウィキペディアより』

坂本龍馬とともに「海援隊」で活動していた人物で、龍馬の弟分のようなお方。



スポンサーリンク


陸奥宗光の功績

陸奥宗光の功績を短く解説いたします

・坂本龍馬とともに「海援隊」で活躍

版籍奉還廃藩置県・徴兵令・地租改正などの明治政府による改革に尽力

・西欧列強との「不平等条約改正」を成功させた

・後の名外務大臣「小村寿太郎」の才能を見抜き、育て上げた

陸奥宗光・・・坂本龍馬とともに活躍し、日米和親条約日米修好通商条約で始まった「不平等条約」の改正を、小村寿太郎とともに実現した外務大臣ですね。



スポンサーリンク


子孫

陸奥宗光の子孫は、どこで何をしているのでしょうか?

陸奥宗光の孫「陸奥イアン陽之助」さんは2002年に他界。

妻で元アナウンサー本多寿賀さんとの間に、おそらく子供がいるだろうとは思うのですが、はっきりとはわかりませんでした。

美女・陸奥宗光夫人

陸奥宗光・・・彼自身も有名な人ですが、その妻「亮子」夫人もまた、とても有名な方です。

亮子夫人は、その美しさと賢さから「ワシントン社交界の花」と呼ばれていました。

《陸奥亮子》
『引用元ウィキペディアより』

元々は芸者さん。

男嫌いで有名だったようですが、妻「蓮子」を亡くした陸奥宗光の後妻として迎えられています。

板垣退助の妻「小清(こせい)」と並び、「新橋の双美人」と讃えられたのです。



スポンサーリンク


陸奥宗光の生涯と最期

陸奥宗光の生涯と最期を解説いたします

生い立ち

1844年、紀伊国和歌山にて、紀州藩士「伊達宗広」と政子の六男として誕生。

伊達政宗」の子孫を自称していましたが、実際には、「織田信長」に敗北した武将「今川義元」の家来「駿河伊達家」が先祖であり、伊達政宗とは同族というだけで子孫ではありません。

父親からの教育による影響で、尊王思想・・つまり天皇に対して忠誠心が強い性格に。

1852年、父が藩内で失脚したため、困窮に苦しむこととなるのです

幕末・・・坂本龍馬との出会い

1858年、江戸へ留学。

江戸で「坂本龍馬」や、長州藩の「桂小五郎」「伊藤博文」と出会う。

1863年、勝海舟や坂本龍馬の「神戸海軍操練所」に入所。

1867年、坂本龍馬の「海援隊」に加わり、坂本龍馬とともに活動するようになります。

坂本龍馬が「陸奥宗光」のことを評価して、こんなことを言っています。

「刀を二本も差さずとも、食っていけるは、俺と陸奥」

後に「カミソリ大臣」と呼ばれる片鱗を、すでに見せていたようです。

1867年、坂本龍馬は近江屋事件で暗殺されてしまい、陸奥宗光は犯人と思われる人物に復讐しています。



スポンサーリンク


明治維新の後

1868年(明治元年)、岩倉具視から推薦を受けて、「外国事務局御用係」となります。

その後は、兵庫県・神奈川県の知事や元老院議官などを歴任

禁固刑

1877年西郷隆盛による西南戦争が勃発した際に、陸奥宗光が「政府転覆」を狙った人物と連絡を取っていた疑惑が浮上。

1878年、禁錮5年の実刑判決を受け、山形や宮城の監獄へ幽閉。

1883年、特赦により釈放。

ヨーロッパへ留学

釈放直後、「伊藤博文」から留学をすすめられて翌年にはイギリス・ロンドンに到着

ウィーンで、明治憲法制定のきっかけとなった人物「シュタイン」から、国家学を学んだ



スポンサーリンク


政治家として復帰

1886年、帰国

同年、外務省へ

1888年、駐米公使に任命された

同年、メキシコとの間で、日本最初の対等条約「日墨修好通商条約」の締結に成功

農商務大臣に就任。

1890年、和歌山県1区で出馬し、衆議院議員に初当選。

1891年、薩摩藩閥との政争により政務部長を辞任。

1892年、辞職して「枢密顧問官」へ

外務大臣・不平等条約改正と小村寿太郎

第二次伊藤博文内閣で「外務大臣」に就任

1894年、英国との間で「日英通商航海条約」を締結。治外法権の撤廃に成功

同年、日清戦争が勃発しているが、日英間の不平等条約撤廃のために、陸奥宗光はこの「日清戦争」を最大限利用しています。

陸奥は、日本にいる「英国人居留民」を盾に利用するという離れ技をやってのけています。

陸奥は英国代表に、こんな言葉で脅しをかけています。

「日清戦争が勃発したら、当然日本は国際法を守って、英国居留民の生命と権益を、最大限守るつもりです。

ですので、どうか条約改正をお願いしたい。

もしも我々を文明国として認めずに、条約改正を拒むというのなら、文明国でない我々日本は、そもそも国際法を守る義務がないということになる。

となると、英国居留民を守る義務すらもないということになってしまいます。」

つまり「英国居留民」を守ってほしいなら、条約改正をしろ、と脅しているわけです。

この後、アメリカ・ドイツ・イタリア・フランスとも同じ様に、「治外法権撤廃」の条約改正を成し遂げています。

そしてこの後、陸奥宗光により見出された後の外務大臣「小村寿太郎」によって1911年「日米通商航海条約」が締結され、「関税自主権」を回復。日本は完全に不平等条約撤廃に成功するのです。

 

同年、日清戦争が勃発。

1895年、下関条約で、日清戦争に事実上勝利して講和

ただ、戦勝で得た「遼東半島」を、「ロシア」「フランス」「ドイツ」による「三国干渉」で手放す。

陸奥は「遼東半島」を手に入れたら、当然「ロシア」が干渉してくるとわかっていたので、清国から多目に賠償を受け取っていた・・・と回顧録に書かれています。

(余談ですが、三国干渉の黒幕はロシアではなく、ドイツです。鉄血宰相ビスマルクを罷免したおかげで露仏同盟により挟み撃ちとなり、危機に陥ったドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が、三国干渉における真の黒幕。ヴィルヘルム2世がロシアからの攻撃を恐れ、日本を挑発しロシアとの関係を悪化させたのです・・・。)

1896年、肺結核のため、外務大臣を辞任。

最期

1897年(明治30年)、肺結核のため、東京都北区西ヶ原の自邸で亡くなります。

享年54歳

墓所は鎌倉市の「寿福寺」にあります。



スポンサーリンク


坂本龍馬の盟友!龍馬暗殺の黒幕に復讐していた

坂本龍馬は、陸奥宗光のことを非常に評価しており、陸奥もまた龍馬を非常に尊敬していたと言われています。

近江屋事件で龍馬が殺害されると、陸奥は即座に復讐を開始

龍馬は生前、紀州藩と揉め事を起こしていました。(いろは丸沈没事件)

この「いろは丸」事件で、龍馬は紀州藩から大金を賠償金として引き出しているのですが、陸奥は「龍馬暗殺」の犯人を「紀州藩士・三浦休太郎」だと思い込んだらしく、海援隊の仲間15人とともに、三浦休太郎がいた宿「天満屋」を襲撃しています(天満屋事件)

この時「三浦休太郎」を新選組・三番組隊長「斎藤一」たち「新選組」が警護していた為、陸奥は新選組と交戦。

この戦いで、斎藤一は危うく落命するところでしたが、援軍がくると察知した陸奥は即座に撤退。

新選組隊士2名が亡くなっています。

天満屋事件が起こった「京都市下京区油小路」には、天満屋事件を記録する石碑が存在しています。



スポンサーリンク


龍馬暗殺の黒幕は誰?

しかし、最近の定説では「龍馬暗殺」の実行犯と黒幕は、「三浦休太郎」ではありません。

実行犯は「京都市中見廻組」の「佐々木只三郎」

佐々木に命じた黒幕は、会津藩主「松平容保」と言われています。

黒幕は幕府「若年寄」である「永井尚志」とも噂されていますが、大政奉還に賛成していた「永井」が、龍馬を殺す理由がありません。


龍馬暗殺」について、詳しくは以下のリンク記事をお役立てくださいませ



スポンサーリンク


まとめ

本日の記事をまとめますと

・陸奥宗光・・・不平等条約「治外法権の撤廃」を実現した外務大臣

・陸奥宗光は、日清戦争後の交渉で活躍。ロシアが干渉してくることを見越していた

・龍馬と陸奥は盟友であり、龍馬暗殺後、陸奥宗光は紀州藩士・三浦休太郎に復讐している

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

「坂本龍馬」関連記事

よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

これらの記事でも「坂本龍馬」の「逸話」や「功績」を簡単に理解できるように、極めてわかりやすく解説させていただいております。

「坂本龍馬」の記事一覧

 

「坂本龍馬」の関係者 記事一覧


スポンサーリンク
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (2件)

  • ①かなりの数の記事を読んで思ったのですが、歴史専門サイト「レキシル」にようこそから、拙者があるパターンと無いものがあるのですね。個人的な見解ですが、プロフィールの最後に書かれているように、拙者で始まると、最後も武士言葉の方がと思います。拙者、、、、お過ごしくださいませに抵抗があります。
    ごゆるりとお過ごしあれは、採用されないと思うが。

    ②生い立ちの5行目、尊皇思想でなく、尊王思想の方がと思います。

    ③明治維新の後の3行目、その後は、兵庫県知事・神奈川県令ですが、県知事・県令に違和感を感じました。
    ウィキペディアにも兵庫県知事、神奈川県令と書いてある。しかし、年号を見ると兵庫県知事(1869年)、神奈川県令(1871年)と書いてある。書かれている知事は、知県事ではないのかと思った。確かに、知府事・知県事をまとめて知事といい、任地に赴く場合は、兵庫県知事と表記するようで、間違いではないということを学んだ。

    ④政治家として復帰の6行目、1890年、和歌山県1区で出馬歳は、出馬しでしょうか。

    • 貴重なご指摘をありがとうございます。
      早速確認・検討して、修正をします。
      いつもありがとうございます。

コメントする

目次