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【坂本龍馬について】その生涯を簡単にわかりやすくまとめてみた!

「坂本龍馬」の「生涯」を簡単にまとめて、わかりやすく解説いたします。

「黒船来航」「土佐勤王党」「脱藩」「薩長同盟」などなど。

これを読めば「坂本龍馬」が何をした人なのか、簡単に理解できます。

「龍馬」は、なぜ「幕末の英雄」と呼ばれるようになったのでしょうか?


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

・坂本龍馬は小さい頃は、弱虫だったが成長すると共に剣豪となっていった

・黒船をみた龍馬は、奔走し、薩長同盟大政奉還を実現していく

・近江屋で襲撃され、盟友「中岡慎太郎」と共に命を落とす


坂本龍馬!幼いころは弱虫だった?

坂本龍馬は土佐藩(現在の高知県)の郷士(下級武士)の家に生まれました。

龍馬は日本史に誇る偉人ですが、幼いころから神童だったのでしょうか?

いえ、そんな事はありませんでした。

12歳まで寝小便をし、はなを垂らし、友達にからかわれるとすぐ泣いたそうです。

塾に通うと毎日のように泣いて帰り、文字を教えても容易に覚えられず、先生からは見放されたそうです。

ところが、近所の剣術道場に通うと人がわりしたようになります。

剣術が非常に強く、19歳で目録をもらう腕前になります。(19歳での目録は異例)背丈も大きく、顔も引き締まり、「あれが坂本の鼻垂れか」と人々は目を見張ったとの事です。



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龍馬の生涯!江戸へ剣術修行へ

地元の剣術道場で目録の腕前となった龍馬は藩に許可をもらい、江戸へ剣術修行に行くこととなります。

修行先は北辰一刀流の桶町千葉道場。当時江戸では桃井道場、斎藤道場と並ぶ三大道場でした。

この千葉道場で龍馬は腕をみがき、道場主の千葉定吉の息子の千葉重太郎と並ぶ腕前となります。

その頃、浦賀に黒船が来航します。

これに幕府は狼狽し、各藩の海岸を警備するようおふれを出し、龍馬も品川土佐藩下屋敷守備をすることとなりました。



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龍馬はこの頃から、船が大好きでした。

黒船をどうしても見たくなり、とうとう品川を抜け出し浦賀に向かいます。

浦賀で黒船を見た龍馬はその想像以上に巨大なボディと、大砲の放つ爆音に衝撃を受けました。

「こんなん、刀でどうにかなる相手じゃない」と痛感し、その想いは恐怖心よりも、好奇心や野心の方向に向きました。

黒船にカルチャーショックを受けた坂本龍馬さんは、そこから世界を意識するようになります。



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土佐勤王党!そして土佐脱藩へ

龍馬の朋友に武市半平太という人がいます。

武市は土佐で剣術道場を開いていましたが、龍馬同様江戸へ剣術修行に行き、江戸三大道場の1つ・桃井道場で塾頭まで登りつめます。

武市は「土佐勤王党」を結成し、土佐に戻って192人の同志を募り、龍馬は9番目、土佐では筆頭として加盟します。

武市が勤王党を結成した目的は、これを藩内勢力となして、藩の政策に影響を与えて、尊王攘夷(天皇をたてまつり、外国勢力を武力で打ち払う)の方向へ導くことにありました。

土佐勤王党の結成以来、武市は藩内に薩長二藩の情勢について説明をするのみならず、土佐もこれに続いて尊王運動の助力となるべきと主張ますが、参政(藩行政の最高責任者)吉田東洋をはじめとした当時の藩政府は「公武合体朝廷と幕府、諸藩が一致団結して諸外国に対処するという思想)」が藩論の主要な方針であり、勤王党の尊王攘夷の主張は藩内の支持を得ることができませんでした。

そして、武市は吉田東洋を暗殺し、自らが藩政の中心となります。(その後、武市は藩主・山内容堂に捕縛され切腹となります。)

龍馬は武市の過激路線についていけず、意見の相違から袂を分かってしまいます。

武市はあくまでも、土佐藩の中にあって土佐藩全体を尊皇攘夷に導こうとしていました。

しかし土佐藩主「山内容堂」は佐幕派であり簡単ではありません。

そこで、龍馬がとった行動は「脱藩」。つまり土佐からの無許可での脱走

脱藩は重罪でした。今で言うところの「国外逃亡」のようなもの。

しかし、龍馬は土佐藩にいては改革は不可能と見切りをつけ、いち早く土佐藩を脱藩して薩摩(現在の鹿児島県)や長州(現在の山口県)に近づいていきます。



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勝海舟との出会い

脱藩後の龍馬ははかつて修行していた江戸桶町・千葉道場に住みながら、薩摩藩、長州藩のひとびとや幕府政事総裁職にあった前福井藩主・松平春嶽に拝謁しています。

その中で龍馬と千葉重太郎は、開国論者の幕府軍艦奉行並「勝海舟」を斬るために訪れます。

しかし、勝から世界情勢と海軍の必要性を説かれた龍馬が大いに感服し、自分が古い習慣や考えに固執している事を恥じて、その場で勝の弟子になってしまいます。

龍馬が勝海舟に心服していたことは、姉・乙女への手紙で海舟を「日本第一の人物」と称賛していることに、よく現れています。

勝は山内容堂に取り成して、龍馬の脱藩の罪は赦免され、さらに土佐藩士が勝の私塾に入門することを認められます。

龍馬は勝が進めていた海軍操練所設立のために奔走し、神戸海軍塾塾頭に任ぜられます。



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亀山社中設立!薩長同盟斡旋へ(海援隊結成)

政治的な問題から、神戸海軍操練所は廃止となります。

龍馬ら塾生の後事を心配した勝は、江戸へ出立する前に薩摩藩城代家老・小松帯刀に彼らを託して、薩摩藩の庇護を依頼します。

龍馬は薩摩藩の出資で長崎に「亀山社中」(後の海援隊)をつくります。

海援隊は貿易,海運などから得る利益をもって、国事に奔走した政治集団です。

近代的な株式会社に類似した組織、商社活動としても評価されています。

海援隊は西国諸藩、特に薩長両藩のために物資の輸送や西洋の武器・船舶の輸入などを行い、薩長の討幕準備に大きな役割を果たします。

一方、幕末において薩摩と長州は天下の雄藩(経済力や政治力があり、勢力の強い有力藩のこと)でした。

しかし、両藩は非常に仲が悪く、京都で起こった合戦(禁門の変)で敵同士として戦うほど。

世間では討幕の機運が高まってきたのですが、まだまだ幕府の軍事力は強大。

そんな中、誰もが薩長が手を組めば、討幕が出来るのではないかと思っていました。

しかし、薩長は犬猿の仲。

誰もが、そんなことができるとは思っていなかったのです。

そこで、坂本龍馬が薩摩の西郷隆盛、長州の桂小五郎を説得します。

その根拠は感情ではなく、利害を一致させることでした。つまり、長州は討幕の為の銃器が欲しかった。

薩摩は長州を隠れ蓑にして、討幕の準備を進めたかった。

それをうまく使って龍馬が薩長同盟を締結させたのです。

薩長同盟の締結により、討幕派は薩長を中心として勢いを得て、討幕の動きが加速していくのです。



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船中八策と大政奉還

龍馬は上京する途中の船中にて、同乗した土佐藩参政・後藤象二郎に8カ条の新しい国家構想を示します。

それは政権を幕府から朝廷に奉還し、朝廷(天皇)のもとに大名および新たに登用された人材(議員)によって様々な事を公の議論により決め、開国、法律制定、軍事力設置、貨幣統一などによって国家の体制を整えようとしたものでした。

そして、政権を幕府から朝廷に奉還する大政奉還案は、龍馬に大いに感銘を受けた後藤象二郎から、将軍・徳川慶喜(よしのぶ)に建白(政府や上役などに自分の意見を申し立てること)されます。

徳川慶喜は大政奉還を受け入れ、これによって江戸幕府はなくなり、鎌倉以来、約700年続いてきた武家政治は終了しました。

朝廷による新しい政治が始まったのです。

その後大政奉還により政権が朝廷に移ったとはいえ、実際にどの様に政治を運営すればよいのか、どんな国家にすればよいのか、明確な考えがある人は誰もいませんでした。

そんな状況の中で、龍馬の船中八策は新国家体制の基本方針とされ、明治維新政府に受け継がれて五箇条の御誓文へとつながってゆくのです。



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不世出の英雄・坂本龍馬の最期

大政奉還からわずか1か月後に龍馬は暗殺されます。

龍馬暗殺の舞台は、京都の由緒ある醤油屋である近江屋

その日、龍馬は盟友である陸援隊中岡慎太郎と一緒でした。

そこに6名の刺客団が訪れます。

十津川郷士と名乗り、龍馬に取次ぎを頼みます。

取次に出た山田藤吉を背中から切り、大きな物音に龍馬は「ほたえなや!(騒ぐな!)」と叫んでしまったために、刺客団に居場所が知れてしまいます。

刺客団は疾風の様に走り、龍馬の居る部屋に飛び込むなり、龍馬の額を斬撃し、中岡の後頭部を斬撃します。

突然の事であり、龍馬、中岡とも十分に応戦もできず、龍馬は後頭部から背中、再度額を深く斬られます。

刺客団が去った後、気絶していた龍馬と中岡は息を吹き返します。

龍馬は自分の頭から脳漿が流れ出ているのを自ら確認し、中岡を見て澄んだ明るい笑顔を向け

「慎太郎、おれは脳をやられている。もう、いかぬ。」

といい、絶命します。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・坂本龍馬は幼いころ泣き虫で、勉強もいまひとつだった様です。しかし、剣術道場に入門すると見違えるような立派な青年となりました。

・地元の道場で目録の腕前となった龍馬は江戸の北辰一刀流桶町千葉道場に剣術修行に行き、剣術の腕前に磨きをかけます。その頃黒船に出会い、カルチャーショックを受けます。

・土佐の朋友武市半平太に誘われ、土佐勤王党に入党しますが、武市と考えの違いから袂を分かち、土佐藩に見切りをつけて脱藩してしまいます。

・勝海舟と出会い、その開明的な考え方に刺激を受けて勝の弟子となります。そして勝の導きで神戸官軍塾の塾頭となります。

・神戸海軍塾廃止後、薩摩藩の出資で長崎に「亀山社中」(後の海援隊)をつくります。海援隊は貿易,海運などから得る利益をもって、国事に奔走した政治集団です。

・龍馬の仲介により薩長同盟が締結されます。薩長同盟の締結により、討幕派は薩長を中心として勢いを得て、討幕の動きが加速していきます。

・龍馬が上京する途中の船中にて書いた「船中八策」に基づき、大政奉還が行われ、新国家体制の基本方針とされるのです。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました



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