坂本龍馬の妻として知られるおりょうは、龍馬が暗殺された後、どのような人生を送ったのでしょうか。
おりょうと龍馬の間に子供はいたのか、再婚相手は誰なのか、美人だったという噂やスパイ説の真相など、気になる疑問がたくさんあります。
龍馬の死後、波乱万丈の人生を歩んだおりょうの真実に迫ります。
彼女は龍馬を心から愛し続け、晩年まで龍馬の妻であることを誇りにしていました。
寺田屋事件で龍馬を救った勇敢なエピソードから、貧困と孤独に苦しんだ晩年まで、おりょうの生涯を詳しく解説していきます。
- 坂本龍馬とおりょうの年齢差や馴れ初めから結婚までのエピソード
- 寺田屋事件でおりょうが見せた武勇伝と日本初の新婚旅行の真実
- 龍馬との間に子供がいたのかという疑問と再婚相手西村松兵衛との生活
- 美人スパイ説の真相やおりょうの写真が別人とされる理由と晩年の暮らし
坂本龍馬の妻おりょう(楢崎龍)とはどんな女性?性格や生い立ち

| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 本名 | 楢崎龍(ならさきりょう) |
| 通称 | お龍・おりょう |
| 生年 | 天保12年6月6日(1841年7月23日) |
| 没年 | 明治39年(1906年)1月15日 |
| 享年 | 66歳 |
| 出身 | 京都 |
| 父 | 楢崎将作(医師・勤王家) |
裕福な医師の娘から転落…父の死と家族を支えた少女時代
おりょうは天保12年(1841年)、京都で医師である楢崎将作の長女として誕生しました。父の楢崎将作は青蓮院宮に仕える医師であり、勤王派の志士としても活動していた人物です。おりょうは裕福な家庭で何不自由なく育ち、教養のある女性へと成長しました。
しかし安政の大獄により、父の将作は勤王派として幕府に目をつけられ、捕縛されてしまいます。過酷な取り調べと牢獄生活により、将作は獄中で病死してしまったのです。この事件により、楢崎家は一転して困窮の底に突き落とされます。おりょうはまだ18歳という若さでしたが、母と幼い妹たちを養うため、必死に働き始めました。
父を失った悲しみと貧困の中で、おりょうは持ち前の気丈な性格を発揮します。彼女は京都の扇岩という料亭で働くようになり、そこで志士たちと知り合う機会を得ることになるのです。父が勤王派だったこともあり、おりょうは幕末の動乱の渦中に身を置くことになります。この時期の経験が、後に坂本龍馬と出会う運命の伏線となっていきました。
「あだ名は稲荷のコンコン」気性が激しく物怖じしない性格のエピソード
おりょうの性格を一言で表すなら気性が激しく、物怖じしないという言葉がぴったりです。彼女のあだ名は「稲荷のコンコン」と呼ばれており、これはキツネのように鋭く、誰に対しても臆することなく意見を言う性格を表しています。武家社会の礼儀作法にとらわれず、自分の思ったことをはっきりと口にする彼女の態度は、周囲の人々を驚かせました。
龍馬の姉である乙女に宛てた手紙の中で、龍馬自身がおりょうのことを「まことにおもしろき女」と評しています。これは単に面白いという意味だけでなく、型にはまらない自由な精神と、勇敢で頼もしい性格を称賛する言葉でした。龍馬はおりょうの奔放さを愛し、彼女の真っ直ぐな生き方に惹かれていたのです。
また、おりょうは酒豪としても知られており、男性にも負けないほどの酒量を誇っていました。当時の女性としては異例の豪快さで、宴席では龍馬や海援隊の仲間たちと対等に杯を交わしていたといいます。こうした破天荒な性格が、後に坂本家や周囲の人々との軋轢を生む原因にもなりますが、龍馬にとっては何物にも代えがたい魅力だったのです。
坂本龍馬とおりょうの年齢差は?意外と知らない二人の年の差
坂本龍馬とおりょうが結婚したのは、慶応2年(1866年)3月のことです。この時、龍馬は29歳、おりょうは23歳で、二人の年齢差は6歳でした。当時の結婚年齢としては、龍馬はやや晩婚、おりょうは適齢期という状況だったといえます。

引用元「Wikipediaコモンズ」より
龍馬は天保6年(1835年)11月15日生まれ、おりょうは天保12年(1841年)7月23日生まれです。幕末という激動の時代において、龍馬は全国を駆け回る多忙な日々を送っており、結婚する暇もありませんでした。そんな龍馬が29歳という年齢でおりょうと結ばれたことは、彼女が龍馬にとって特別な存在だったことを物語っています。
興味深いのは、おりょうが再婚する際、新しい夫である西村松兵衛に対して年齢を10歳ほど若く偽っていたという逸話です。これにより戸籍上、おりょうは嘉永3年(1850年)生まれと記録されてしまいました。龍馬の妻という過去を隠したかったのか、それとも若く見せたかったのか、真意は定かではありませんが、おりょうらしい大胆さが垣間見えるエピソードです。
おりょうに囁かれる「スパイ説」と「美人説」の真相!写真は別人?
なぜ「幕府のスパイ」と言われたのか?龍馬の周囲で起きた疑惑
おりょうに関する都市伝説の中で最も有名なのが「おりょうは幕府のスパイだった」という説です。近年、テレビ番組などでこの説が取り上げられ、一部で話題になりましたが、結論から言えば、この説には史実的な根拠がまったくありません。
そもそも、おりょうの父・楢崎将作は勤王派の医師であり、安政の大獄で捕縛されて獄死しています。幕府によって父を殺されたおりょうが、その幕府のスパイになるというのは動機的にも矛盾しています。また、龍馬が暗殺された近江屋事件において、おりょうが情報を漏らしたという証拠も一切存在しません。
この説が広まった背景には、おりょうの奔放な性格と、龍馬の死後に各地を転々とした放浪生活が影響していると考えられます。彼女の行動が当時の常識から外れていたため、後世の人々が想像を膨らませて「スパイだったのではないか」という憶測を生んだのでしょう。しかし歴史学的には、おりょうがスパイだったとする一次史料は存在せず、完全にフィクションの域を出ない話だといえます。
【画像検証】おりょうは本当に美人だったのか?残された写真と証言
おりょうが美人だったかどうかについては、諸説あります。龍馬自身の手紙には「器量よし」という記述があり、龍馬はおりょうの容姿を気に入っていたことがわかります。また、海援隊士たちの証言にも「色白で目鼻立ちがはっきりした美しい女性だった」という記録が残されています。
しかし、現在インターネット上で「若き日のおりょう」として広まっている座り姿の女性の写真については、本人ではなく別人である可能性が高いとされています。2008年に科学警察研究所が鑑定を行い、「別人であることを本質的に示す根拠はない」という結論を出しましたが、これは「本人である」という断定ではありません。専門家の間では、撮影時期や場所の矛盾から、芸妓など別の女性ではないかとする説が根強く残っています。
一方、明治37年(1904年)頃に撮影された晩年のおりょうの写真は、新聞などに掲載されたことから本物であることが確認されています。この写真を見ると、やつれた様子の老婆が写っており、若い頃の面影を想像するのは難しい状態です。貧困と酒に苦しんだ晩年の過酷さが、写真からもうかがい知ることができます。

引用元「Wikipediaコモンズ」より
「晩年のおりょう写真」は別人?古写真に秘められたミステリー
若い頃のおりょうとされる写真が別人である可能性について、もう少し詳しく見ていきましょう。問題の写真は、着物姿で座っている若い女性の写真で、長年「おりょうの若い頃」として紹介されてきました。しかし近年の研究で、この写真には不自然な点が多数指摘されています。
まず、写真が撮影されたとされる時期と、おりょうが京都にいた時期に矛盾があります。また、写真の女性が着ている着物の柄や髪型が、当時の一般的な女性のものではなく、芸妓や花街の女性のスタイルに近いという指摘もあります。さらに、顔立ちが龍馬の手紙に記されたおりょうの特徴と一致しないという専門家の意見もあるのです。
この写真の真贋論争は現在も続いており、決定的な結論は出ていません。ただし、歴史研究者の間では「少なくとも『本人である』と断定するのは危険」というのが一般的な見解です。おりょうに関する資料は少なく、確実に本人と特定できる若い頃の写真は存在しないというのが現状なのです。
坂本龍馬とおりょうの馴れ初めから結婚まで!有名な「寺田屋事件」の活躍
運命の出会いは「扇岩」?龍馬が母親代わりに頼った日
坂本龍馬とおりょうの出会いには諸説ありますが、最も有力なのは京都の扇岩という料亭で出会ったという説です。文久2年(1862年)頃、龍馬が京都で活動していた際、扇岩で働いていたおりょうと知り合ったとされています。当時、おりょうは父を亡くして困窮しており、母親代わりとして家族を支えるために働いていました。
龍馬はおりょうの境遇に同情し、彼女の面倒を見るようになります。最初は単なる支援者と被支援者の関係でしたが、次第に二人は惹かれ合っていきました。おりょうの気丈な性格と率直な物言いが、龍馬の心を掴んだのです。龍馬にとって、おりょうは型にはまらない自由な精神の持ち主であり、幕末の動乱を共に生きるパートナーとして理想的な存在でした。
また、おりょうの父が勤王派の医師だったことも、二人の絆を深める要因になりました。龍馬自身も尊王攘夷の志士として活動しており、同じ志を持つ者同士として共感し合えたのです。こうして二人は、京都の動乱の中で運命的な出会いを果たし、やがて夫婦となる道を歩み始めることになります。
裸で階段を駆け上がり龍馬を救出!「寺田屋事件」の全貌と武勇伝

引用元「Wikipediaコモンズ」より
おりょうの名を歴史に刻んだ最も有名なエピソードが、慶応2年(1866年)1月23日深夜に起きた寺田屋事件です。この夜、伏見奉行の捕り方約30人が寺田屋を包囲し、龍馬を捕縛しようとしました。龍馬は2階の部屋で三吉慎蔵と話をしていましたが、この異変にいち早く気づいたのがおりょうでした。
おりょうは当時、寺田屋で仲居として働いており、その日はちょうど風呂に入っていました。異変を察知したおりょうは、湯文字一枚の裸同然の姿で階段を駆け上がり、龍馬に危険を知らせたのです。龍馬自身が姉の乙女に宛てた手紙の中で「赤裸(あかはだか)」と表現していることから、おりょうがいかに羞恥心を捨てて夫の危機を救おうとしたかがわかります。
おりょうの機転により、龍馬と三吉慎蔵は応戦する時間を得ることができました。龍馬はピストルで、三吉は槍で捕り方と戦い、その間におりょうは裏木戸を隠していた漬物樽をどかして退路を確保します。二人は何とか寺田屋から脱出し、近くの材木屋に隠れることに成功しました。龍馬は手に重傷を負いましたが、おりょうの勇気ある行動により命を救われたのです。坂本龍馬を襲った寺田屋事件について、さらに詳しい経緯を知りたい方はこちらの記事で解説しています。
傷を癒やすために鹿児島へ…「日本初の新婚旅行」での仲睦まじい様子
寺田屋事件で負傷した龍馬は、薩摩藩の西郷隆盛の勧めにより、鹿児島で療養することになりました。この時、おりょうも同行し、二人は慶応2年(1866年)3月頃、霧島の温泉地で約1ヶ月を過ごします。これが後に「日本初の新婚旅行」と称されるようになりました。
龍馬は姉の乙女に宛てた手紙の中で、この旅行の様子を詳しく綴っています。「おりょうは大層喜んでおり、毎日温泉に入っては傷の手当てをしてくれる」「霧島の山々を一緒に登り、絶景を楽しんだ」など、二人の仲睦まじい様子が記されています。龍馬は手の傷が癒えるまで、おりょうと共に穏やかな時間を過ごすことができたのです。
この鹿児島での滞在が、二人にとって結婚生活の始まりでした。正式な婚礼の儀式は行われませんでしたが、龍馬は坂本家にお りょうとの結婚を報告し、夫婦として認めてもらいました。しかしこの幸せな時間は長くは続かず、わずか1年8ヶ月後、龍馬は近江屋で暗殺されてしまいます。おりょうにとって、この鹿児島での日々が、龍馬と過ごした最も幸福な思い出となったのです。
坂本龍馬とおりょうの間に「子供」はいたのか?隠し子説の真偽
公式記録に見る「子供」の存在と、妊娠に関する記述
坂本龍馬とおりょうの間に子供がいたのかという疑問は、多くの歴史ファンが抱く関心事です。結論から言えば、二人の間に実子はいなかったというのが定説です。龍馬とおりょうが正式に夫婦となったのは慶応2年(1866年)3月頃で、龍馬が暗殺されたのは慶応3年(1867年)11月15日ですから、夫婦としての期間はわずか1年8ヶ月ほどでした。
この短い期間に子供が生まれた記録は一切なく、おりょう自身も晩年に「龍馬との間に子供はいなかった」と語っています。また、龍馬の手紙や海援隊の記録にも、おりょうが妊娠したという記述は見当たりません。二人は確かに愛し合っていましたが、激動の幕末という時代背景もあり、子宝には恵まれなかったようです。
一部には「おりょうが妊娠していたが流産した」という説もありますが、これを裏付ける確実な史料は存在しません。龍馬は全国を駆け回る多忙な生活を送っており、おりょうと一緒に過ごす時間は限られていました。こうした環境も、子供ができなかった理由の一つと考えられます。
龍馬の死後、太郎(甥)を養子にした経緯
龍馬との間に実子がいなかったおりょうですが、龍馬の死後、坂本家の血を引く子供を養子に迎えようという話がありました。それが龍馬の兄・権平の息子である坂本直(太郎)です。龍馬の遺志を継ぐという名目で、太郎をおりょうの養子とする案が浮上しましたが、実際にはこの縁組は成立しませんでした。
おりょうと坂本家、特に権平夫婦との関係が非常に悪かったため、養子縁組の話は立ち消えになってしまったのです。おりょうは龍馬の死後、わずか3ヶ月ほどで坂本家を出ており、その後は坂本家との交流もほとんどなくなりました。太郎は結局、坂本家で育てられ、後に高知で活躍することになります。
興味深いことに、おりょうは再婚後、妹の光枝の息子である松之助を養子に迎えています。明治8年(1875年)に西村松兵衛と再婚したおりょうは、母親の貞と養子の松之助を引き取り、横須賀で新しい家族生活を始めました。しかし悲劇的なことに、明治24年(1891年)、母と養子を相次いで失ってしまいます。おりょうは実子にも恵まれず、養子も早くに亡くすという不運に見舞われたのです。
「龍馬の隠し子」を名乗る人物が現れた?北海道に伝わる噂
龍馬とおりょうに子供がいなかったという定説がある一方で、興味深い伝承も存在します。それが北海道に伝わる「龍馬の隠し子」説です。明治時代、北海道のある地域に、自分は坂本龍馬の子供だと名乗る人物が現れたという記録が残っています。
この人物は、龍馬がある女性との間にもうけた子供で、龍馬の死後、北海道に渡って開拓事業に携わったと主張していました。しかし、この話を裏付ける確実な証拠は一切なく、単なる伝承の域を出ません。龍馬の人気に便乗した創作、あるいは本人が龍馬に憧れるあまり思い込んだ可能性が高いと考えられています。
また、龍馬には婚約者だった千葉さな子や、京都で世話になった女性など、おりょう以外にも関係があったとされる女性が何人かいます。こうした女性との間に子供がいた可能性を指摘する研究者もいますが、いずれも確証はありません。現在のところ、龍馬の確実な子孫は存在しないというのが歴史学的な結論です。
龍馬暗殺!その時おりょうはどこにいた?夫の死を知った瞬間

下関で待っていたおりょうの元に届いた「凶報」と三吉慎蔵の言葉
慶応3年(1867年)11月15日、坂本龍馬は京都の近江屋で中岡慎太郎と共に刺客に襲われ、33歳の若さでこの世を去りました。その時、おりょうは京都にはおらず、下関(長州藩)で龍馬の帰りを待っていたのです。龍馬は大政奉還後の政局を見守るために京都に滞在しており、落ち着いたらおりょうを迎えに行くと約束していました。
龍馬暗殺の知らせは、数日後におりょうの元に届きました。知らせを持ってきたのは、寺田屋事件で龍馬と共に戦った三吉慎蔵だったとされています。三吉は涙ながらにおりょうに龍馬の死を告げ、「龍馬は最期まであなたのことを気にかけていた」と伝えたといいます。おりょうは最初、その知らせを信じることができず、呆然と立ち尽くしたと伝えられています。坂本龍馬の最期と暗殺の真相についてはこちらの記事で詳しく解説しています。
やがて現実を受け入れたおりょうは、激しく泣き崩れました。わずか1年8ヶ月という短い結婚生活でしたが、龍馬はおりょうにとってかけがえのない存在でした。寺田屋事件で命を救い、共に鹿児島を旅した思い出は、彼女の人生で最も輝いていた時間だったのです。その龍馬が突然、理不尽な暴力によって奪われてしまったことは、おりょうにとって耐え難い苦痛でした。
髪を切り仏門に入ろうとした?絶望の淵に立たされた未亡人
龍馬の死を知ったおりょうは、一時は仏門に入ることを考えたとも伝えられています。髪を切り、尼僧として余生を送ろうとしたというのです。当時26歳という若さで未亡人となったおりょうにとって、龍馬以外の男性と生きることなど考えられませんでした。龍馬の菩提を弔いながら、ひっそりと生きていこうと決意したのです。
しかし、この計画は実現しませんでした。海援隊の仲間たちや、龍馬の恩師である勝海舟が、おりょうを心配して引き止めたのです。「龍馬は君が幸せになることを望んでいる」「仏門に入るのは龍馬の本意ではない」と説得され、おりょうは思いとどまりました。それでも、おりょうの心の中では龍馬だけが夫であり続け、その思いは生涯変わることがありませんでした。
おりょうは龍馬の死後、しばらく下関に留まりましたが、やがて土佐の坂本家に身を寄せることになります。龍馬の家族が未亡人となったおりょうを引き取ったのですが、この決断が後におりょうにとって新たな苦難の始まりとなるのです。おりょうの性格と坂本家の価値観が合わず、激しい対立が生じることになります。
龍馬の死後、おりょうの転落人生が始まる…坂本家からの追放と流浪の日々
坂本家の姉「乙女」との不仲説!なぜ土佐を追い出されたのか
慶応3年(1867年)12月、おりょうは土佐の坂本家に身を寄せました。龍馬の兄・権平とその妻、そして龍馬の姉である乙女が暮らす家に未亡人として迎え入れられたのです。しかし、おりょうは坂本家でわずか3ヶ月ほどしか過ごすことができず、明治元年(1868年)3月には家を出ることになります。
おりょうと坂本家、特に義兄の権平夫婦との関係が極めて悪かったことがその理由です。おりょう自身が後年語ったところによれば、「権平夫婦は龍馬に下る褒賞金や年金が欲しくて、私を利用しようとした。そして金が手に入ると邪魔者扱いし始めた」とのことです。坂本家側からすれば、おりょうの奔放な性格や京都育ちの都会的な振る舞いが、土佐の武家社会の規範に合わなかったという事情もあったでしょう。
特に龍馬の姉・乙女との関係は複雑でした。乙女は龍馬を深く愛しており、おりょうに対しても当初は好意的だったとされています。しかし実際に一緒に暮らしてみると、おりょうの生活態度や物言いが気に入らず、次第に対立するようになったようです。おりょうは酒を飲み、遠慮なく意見を述べる性格でしたから、伝統的な武家の女性像とはかけ離れていたのでしょう。こうした相互の不理解が、おりょうを坂本家から遠ざける結果となったのです。
頼れる人を求めて…勝海舟や西郷隆盛を頼るも長続きしなかった理由
坂本家を出たおりょうは、妹の起美が嫁いでいた千屋家(菅野覚兵衛)を頼りました。しかし覚兵衛がアメリカ留学に行ってしまうと、そこにも居づらくなります。この時、おりょうは龍馬からもらった手紙をすべて燃やすよう頼んだといいます。「これは二人だけのものだから」という言葉には、おりょうの龍馬への深い愛情が表れています。
その後、おりょうは龍馬の恩師である勝海舟を頼って江戸に向かいました。勝海舟はおりょうを温かく迎え入れ、しばらく世話をしました。しかしおりょうの気性の激しさは相変わらずで、勝家でも長続きしませんでした。また、西郷隆盛にも援助を求めたことがありますが、西郷が西南戦争で亡くなった後は頼る先を失ってしまいます。

引用元「Wikipediaコモンズ」より
明治7年(1874年)、勝海舟の紹介で神奈川宿の料亭・田中家に仲居として勤めることになりました。しかし、ここでもおりょうの頑固な性格が災いし、板前たちとうまくいかなかったようです。当時の記録には「使いづらい女中だった」という証言が残っています。おりょうは「龍馬の妻」という誇りを持ち続けていましたが、それゆえに周囲の人々と折り合いをつけることが難しかったのかもしれません。
「龍馬の妻」というプライドが邪魔をした?各地を転々とする放浪生活
おりょうが各地を転々とする放浪生活を送った背景には、彼女の「坂本龍馬の妻である」というプライドが大きく影響していました。おりょうは龍馬を心から愛しており、龍馬以外の男性と再婚することなど考えられませんでした。また、自分は幕末の英雄の妻なのだという自負があり、それが周囲との摩擦を生んでいたのです。
しかし、明治という新しい時代において、「龍馬の妻」という肩書きはあまり役に立ちませんでした。龍馬は確かに薩長同盟や大政奉還に貢献した人物ですが、明治政府の中枢にいたわけではありません。西郷隆盛や木戸孝允のように明治の元勲となった人物の遺族には手厚い援助がありましたが、龍馬の遺族に対する処遇は決して良いものではなかったのです。
おりょうは各地を転々としながらも、龍馬への愛情と誇りだけは失いませんでした。酒を飲むたびに「私は坂本龍馬の妻だ」と語り、龍馬との思い出話を繰り返したといいます。しかし、時代は着実に変化しており、幕末の記憶は徐々に風化していきました。おりょうは過去の栄光にすがりながら、孤独な日々を送っていたのです。そんなおりょうの波乱に満ちた人生について、より詳しくはこちらの記事でも紹介しています。
おりょうの再婚相手「西村松兵衛」とは?晩年の暮らしとアルコール依存
横須賀で出会った大道商人の「西村松兵衛」との同棲と再婚
明治8年(1875年)、おりょうは横須賀で西村松兵衛という男性と出会い、再婚することになります。この時、おりょうは34〜35歳、龍馬の死から約8年が経過していました。松兵衛は大道商人あるいはテキ屋のような商売をしていた人物で、裕福ではありませんでしたが、孤独だったおりょうを支える存在となりました。
おりょうは再婚に際して「西村ツル」と名を改め、横須賀で新しい生活を始めます。興味深いことに、おりょうは松兵衛に対して自分の年齢を10歳ほど若く偽っていたため、戸籍上はおりょうは嘉永3年(1850年)生まれと記録されてしまいました。龍馬の妻だった過去を隠したかったのか、それとも若く見せたかったのか、真意は定かではありません。
再婚後、おりょうは母の貞を引き取り、妹・光枝の息子である松之助も養子に迎えます。松兵衛の家業は決して順調ではなく、おりょう自身も水兵や子供相手に物を売る商売を手伝って生計を立てていました。裕福だった医師の娘時代、そして龍馬の妻として海援隊の仲間たちに囲まれていた華やかな日々からは、想像もつかないような貧しい暮らしでした。
貧困と孤独を紛らわすための酒…「龍馬の妻」を語り続けた晩年
おりょうの晩年は、貧困と孤独、そして酒に彩られたものでした。明治24年(1891年)、50歳の時に母の貞と養子の松之助を相次いで失います。この二重の喪失は、おりょうに深い悲しみをもたらしました。夫の松兵衛はいたものの、経済的には苦しく、精神的な支えを失ったおりょうは酒に溺れるようになっていきます。
近隣住民の証言によれば、おりょうは晩年、ほとんど毎日のように酒を飲んでいたといいます。酔うと必ず龍馬の話を始め、「私は坂本龍馬の妻だ」「龍馬は日本を救った英雄だ」と繰り返し語っていました。寺田屋事件の武勇伝や、鹿児島での新婚旅行の思い出を何度も話すおりょうの姿を、人々は哀れに思いながらも、時には煙たがったともいいます。
おりょうを看取った人々や、晩年のおりょうを知る安岡秀夫や川田雪山といった人物の記録には、彼女のアルコール依存の様子が詳しく記されています。貧困の中で龍馬との思い出だけを心の支えに生きたおりょうにとって、酒は現実の辛さから逃れる唯一の手段だったのかもしれません。華やかだった過去と貧しい現在のギャップは、おりょうの心を深く蝕んでいたのです。
泥酔して語った本音「今の男はどうしようもない」という愚痴の真意
おりょうが泥酔した際によく口にしていたのが、「今の男はどうしようもない」という愚痴でした。これは明らかに再婚相手の西村松兵衛と、亡き夫・坂本龍馬を比較しての言葉です。おりょうは松兵衛に不満を持っていたわけではなかったでしょうが、龍馬という偉大すぎる存在と比べてしまうのは仕方のないことでした。
龍馬は幕末という激動の時代を駆け抜けた英雄であり、薩長同盟を仲介し、大政奉還に貢献した人物です。一方、松兵衛は普通の商人であり、特別な才能や野心があったわけではありません。おりょうにとって、龍馬との短くも濃密な1年8ヶ月は、人生で最も輝いていた時間でした。その後の長い年月は、どれほど努力しても龍馬との日々を超えることはできなかったのです。
しかし、松兵衛はおりょうを見捨てることなく、最期まで寄り添い続けました。貧しくとも、酒に溺れるおりょうを支え続けた松兵衛の献身は、決して小さなものではありません。おりょうの「今の男はどうしようもない」という愚痴の裏には、龍馬への変わらぬ愛情と、現実の生活を支えてくれる松兵衛への複雑な感情が入り混じっていたのでしょう。
おりょうの最期と遺言!「龍馬の墓に入りたい」という願いは叶ったのか
66歳での死去と、看取った人々の証言
明治39年(1906年)1月15日、おりょうは横須賀の自宅で66歳の生涯を閉じました。興味深いことに、この日は坂本龍馬の命日でもある11月15日ではありませんが、1月15日という日付は龍馬とおりょうの運命的な繋がりを感じさせます。死因は老衰とされていますが、長年のアルコール依存による肝臓の疾患や栄養失調も影響していたと考えられます。
おりょうを看取ったのは、夫の西村松兵衛と近隣の人々でした。晩年のおりょうを知る人々の証言によれば、彼女は最期まで「龍馬さん」と呼びかけながら息を引き取ったといいます。40年近い歳月が流れても、おりょうの心の中では龍馬だけが夫であり続けたのです。貧困と孤独の中で迎えた最期でしたが、おりょうは龍馬との思い出を胸に、この世を去ることができました。
おりょうの死後、彼女の波乱に満ちた人生が少しずつ世間に知られるようになります。新聞などで「坂本龍馬の妻が横須賀で亡くなった」と報じられ、明治の人々はようやくおりょうの存在を思い出したのです。寺田屋事件での勇敢な行動や、龍馬との愛の物語は、後世の人々に語り継がれることになります。
「龍馬の横に埋めて」という遺言はなぜ無視されたのか?
おりょうは生前、「死んだら龍馬の横に埋めてほしい」と願っていたと伝えられています。京都の霊山護国神社には坂本龍馬の墓があり、おりょうは自分もそこに葬られることを夢見ていました。しかし、この遺言が実現することはありませんでした。おりょうは横須賀の信楽寺に葬られ、龍馬とは別々の場所で永眠することになったのです。
遺言が叶わなかった理由はいくつか考えられます。まず、おりょうと坂本家の関係が疎遠だったことです。龍馬の死後、わずか3ヶ月で坂本家を出たおりょうは、その後ほとんど坂本家と交流がありませんでした。坂本家としても、再婚して西村姓を名乗っていたおりょうを、龍馬の正式な妻として扱うことに躊躇があったのかもしれません。
また、経済的な理由も大きかったでしょう。京都まで遺体を運び、霊山護国神社に埋葬するには多額の費用がかかります。貧しい生活を送っていた西村家には、そのような余裕はありませんでした。結局、おりょうは夫の松兵衛が住んでいた横須賀の地に葬られることになったのです。龍馬の横で眠るというおりょうの最後の願いは、無念にも叶えられることはありませんでした。
現在の墓所はどこ?横須賀市にある「信楽寺」とおりょうの銅像
おりょうの墓は、神奈川県横須賀市にある信楽寺(しんぎょうじ)にあります。墓石には「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれており、おりょうが生涯「龍馬の妻」であり続けたことが示されています。この墓碑銘は、おりょうの死から数年後、妹の中沢光枝や支援者たちが奔走して建て替えたものです。
信楽寺には、おりょうの墓だけでなく、彼女を顕彰する石碑や説明板も設置されています。近年、幕末ファンや坂本龍馬ファンが訪れる場所として知られるようになり、墓前には常に花が供えられています。龍馬の横で眠ることは叶いませんでしたが、多くの人々がおりょうの生涯に思いを馳せ、墓参りに訪れているのです。
また、横須賀市内にはおりょうの銅像も建てられています。寺田屋事件で龍馬に危険を知らせる勇敢な姿を表現した銅像で、観光名所の一つとなっています。龍馬の妻として、そして幕末を生きた一人の女性として、おりょうの生涯は現代にも語り継がれているのです。貧困と孤独の中で亡くなったおりょうですが、その名は決して忘れ去られることなく、後世に残り続けています。
龍馬への愛を貫いたおりょうの66年!その生涯から学ぶ幕末女性の強さと哀しみ
- おりょうは楢崎龍という本名で京都の医師の娘として裕福に育ったが父の獄死により困窮した
- 気性が激しく物怖じしない性格から「稲荷のコンコン」というあだ名で呼ばれていた
- 坂本龍馬とは6歳差で龍馬29歳おりょう23歳の時に結婚した
- おりょうがスパイだったという説には歴史的根拠がなく完全なフィクションである
- 若い頃の写真として流布しているものは別人である可能性が高いと専門家から指摘されている
- 晩年の写真は本物であり貧困と酒に苦しんだ様子が写っている
- 寺田屋事件で湯文字一枚の裸同然の姿で階段を駆け上がり龍馬に危険を知らせた
- 龍馬の手紙には「赤裸」と記されておりおりょうの勇敢さが伝わってくる
- 慶応2年に鹿児島霧島で龍馬と約1ヶ月過ごしこれが日本初の新婚旅行と呼ばれている
- 龍馬とおりょうの間に実子はいなかったというのが歴史的定説である
- 龍馬暗殺の時おりょうは下関にいて数日後に三吉慎蔵から凶報を聞いた
- 龍馬の死後坂本家に身を寄せたがわずか3ヶ月で出ることになった
- 坂本家の姉乙女や兄権平夫婦とは性格や価値観が合わず激しく対立した
- 勝海舟や西郷隆盛を頼ったが龍馬の妻というプライドが邪魔をして長続きしなかった
- 明治8年に西村松兵衛と再婚し西村ツルと名を改めて横須賀で暮らした
- 晩年は貧困の中でアルコールに依存し毎日のように酒を飲んでいた
- 泥酔すると必ず龍馬の話を始め私は坂本龍馬の妻だと繰り返し語っていた
- 明治39年1月15日に66歳で横須賀の自宅で亡くなった
- 龍馬の横に埋めてほしいという遺言は経済的理由と坂本家との疎遠により叶わなかった
- 現在の墓は横須賀市の信楽寺にあり墓石には贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓と刻まれている
- おりょうは生涯を通じて龍馬への愛を貫き最期まで龍馬さんと呼びかけながら息を引き取った
- 貧困と孤独の中で迎えた晩年だったが寺田屋事件の武勇伝は後世に語り継がれている
- 横須賀市内にはおりょうの銅像も建てられ幕末ファンが訪れる場所となっている
おりょうの人生は、まさに波乱万丈という言葉がふさわしいものでした。裕福な医師の娘として生まれ、父の死により困窮し、幕末の英雄・坂本龍馬と結婚して幸せな時間を過ごしましたが、わずか1年8ヶ月で夫を失います。その後は各地を転々とする放浪生活を送り、再婚後も貧困と孤独に苦しみ、酒に溺れる晩年を送りました。
しかし、どんなに辛い状況でも、おりょうは龍馬への愛を決して忘れることはありませんでした。「私は坂本龍馬の妻だ」という誇りを持ち続け、寺田屋事件での勇敢な行動を語り続けたのです。おりょうの生涯は、幕末という激動の時代を生きた一人の女性の強さと、同時に時代に翻弄された哀しみを象徴しています。
現代を生きる私たちにとって、おりょうの生き方は多くのことを教えてくれます。どんなに困難な状況でも誇りを失わず、愛する人への思いを貫く強さ。そして、時代の変化の中で居場所を失っていく切なさ。おりょうの66年の人生は、決して幸福とは言えないものでしたが、その生き様は確かに後世に残る価値のあるものだったのです。

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