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【お龍とは】性格は超過激!坂本龍馬が暗殺されたその後の人生とは?

「坂本龍馬」の妻「おりょう」。「龍馬が暗殺された後、彼女がどのような人生をおくったのか」をわかりやすく解説いたします。

「龍馬の死後、再婚したものの、夫にカラんで逃げられた」

とても過激な性格だった「おりょう」さん。

今は龍馬の隣で眠っている。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

・お龍とは、「坂本龍馬」の妻のこと。

・お龍は、とても激しい男勝りな性格だった

龍馬暗殺後、お龍は各地を転々とし、商人「西村松兵衛」と再婚している。最後は「横須賀」、そして「京都」にある龍馬の墓の隣に埋葬される


『お龍(りょう)』とは何者なのか?

楢崎龍(ならさき りょう)・・・・通称「お龍」

≪おりょう≫
『引用元ウィキペディアより』

幕末の偉人「坂本龍馬」の妻

1841年、お龍は父「楢崎将作」と、母「貞」の長女として、京都富小路六角辺りで誕生します。彼女には、弟と妹が二人ずつおり、弟妹たちを守るためだったのか、かなり気が強い性格だったと言われています。

父親が、宮家付きのお医者様だったため、相当裕福な生活をしていたお龍。華道・香道・茶道をたしなむ才女に育てられていきます・・。

しかし・・・父「将作」が、大老「井伊直弼」が行った弾圧事件「安政の大獄」で捕らえられ、解放された直後に病死。お龍たち一家は、一気に困窮していくのです。

「烈婦」

これは、身を固く守る女性を意味し、同時に信念を曲げない激しい性格の女性を意味する言葉。

お龍はまさに、「烈婦」という言葉が似合う女性だったようです。



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「お龍」の性格はとても過激だった

お龍・・・・修羅場をくぐり続けた「坂本龍馬」の妻らしく、その性格は非常に激しいものでした。

借金に苦しみ、身売りされていった妹二人を取り戻すため、刃物を振り回して大騒ぎして取り戻した・・・という話は有名です。

海援隊・・・・坂本龍馬が設立した株式会社「亀山社中」を基にして創設された、土佐藩お抱えの貿易集団。坂本龍馬を隊長とした集団だったわけですが、お龍は気性の激しさが原因で、海援隊メンバーから相当に嫌われていたようです。なんでも彼女は、海援隊メンバーを見下した態度をとっていたのだとか・・・。

龍馬が一時婚約していた千葉道場の娘「千葉サナ」さんを蛇蝎のごとく嫌い、口汚くののしっていた・・という話は有名ですし・・・。

彼女は海援隊のみならず、坂本龍馬の兄・権平夫婦からも嫌われていたとのこと。挙句の果てには龍馬の甥「坂本直」からも冷たくあしらわれる始末。

とはいえ、かなりの美女だったため、相当男性から言い寄られていたみたいですね。

坂本龍馬と犬猿の仲だった「新選組」局長「近藤勇」が、お龍を口説き、贈り物をしていた・・・なんてことを、後年、お龍は自慢していました。

とはいえ、激しい性格が災いして、お龍は龍馬亡き後、各地を転々とし、最後には横須賀へと流れ着いていくのです。



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龍馬暗殺後のお龍の人生

1867年、坂本龍馬が「近江屋事件」で暗殺されます。その時、お龍は長州・下関に預けられていましたが、知らせを聞いて号泣したと言われています。

その後のお龍は、各地を流浪。1868年には、土佐藩坂本家に行きますが、権平夫婦とうまく付き合えず、3か月で退去。その後、同じく土佐藩にいた妹・起美の嫁ぎ先に転がり込んでいます。

その後、土佐を出ることとなったお龍は、龍馬とも付き合いがあった「お登勢」さんを頼り京都・寺田屋へ。その後は東京へ出て西郷隆盛勝海舟を頼ることとなるのです。

映画「龍馬の妻とその夫と愛人」

これは、三谷幸喜さん作の映画です。映画の中で、「お龍」は「木梨憲武」さん演じる「西村松兵衛」という人物と再婚していますが、それは史実どおり。

西村松兵衛は、大道商人(定住しない移動商人)を生業とした人物で、明治8年(1875年)にお龍と結婚。

しかし、お龍は酒におぼれ

「私は坂本龍馬の妻だ」

を口癖にして、松兵衛にからみまくる日々だったとか・・・。

これに呆れた松兵衛は、同居していたお龍の妹「光枝」と不倫・・・・お龍一人が取り残される形で、二人は出ていってしまいます。

1904年1月15日、お龍は貧困の中で他界。享年66歳。

お墓は「横須賀市大津・信楽寺」・・・また、龍馬の墓がある京都の「護国神社」にも分骨されています。

ちなみに・・・この「お龍」に絡まれたのが、後に「日露戦争」で活躍する【智謀湧くが如し】な名参謀「秋山真之」

龍馬のことが忘れられない「お龍」は、お墓に「坂本龍馬の妻」と記してもらいます。記したのが「松兵衛」・・・発起人の一人として、名前が残っています。



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日露戦争・・・皇后の夢

お龍が亡くなったのは、日露戦争が起こった年・・・1904年。

その年、坂本龍馬について、ある不思議な事件が起こっています。

明治天皇の皇后である「美子皇后」が、日露戦争勃発前夜、夢を見たのだとか・・・。

三十代半ばの武士が、日本海軍の勝利を保証してくれた・・・・そんな夢です。

皇后は、宮内大臣の「田中光顕」に、武士の人となりを語ったところ、田中はその人物を坂本龍馬だと断言。その逸話は新聞に掲載され、日本軍の闘争心に一気に火が付いた・・・・・のだそうです。

その夢のおかげか、日本はロシア・バルチック艦隊を日本海海戦で撃破し、大国ロシアに勝利したのです。

・・・・?

当時の皇后陛下の周囲には、土佐藩出身者が数多くいたと言われています。田中光顕も土佐藩出身で、坂本龍馬と武市半平太の道場でともに活動し、近江屋事件で暗殺された龍馬のもとに駆け付けた人物。

「坂本龍馬」の夢騒動は、おそらく創作。

この騒動のおかげで、忘れられていたお龍は再び世間の脚光を浴びることとなったみたいですが、直後にお龍は亡くなっています。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・お龍とは、坂本龍馬で、宮家の医者「将作」の娘。かなり良家の娘だった

・かなり気性の激しい性格だったらしく、海援隊や龍馬の兄夫婦から、相当嫌われていた

・龍馬の死後、土佐・京都・東京・横須賀と、各地を転々とし、「西村松兵衛」と再婚するが、最後は松兵衛にも逃げられた

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました



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