幕末の英雄「坂本龍馬」と「高杉晋作」がどういう関係だったのかを、わかりやすく解説いたします。
土佐藩の「坂本龍馬」、長州藩の「高杉晋作」
二人はどのような関係だったか?
龍馬と高杉は、ともに新時代を目指して「徳川幕府」と戦った仲間。しかし二人ともかなり命知らずだった
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この記事を短く言うと
・高杉晋作と坂本龍馬は、ともに新時代をつくろうと、協力し合った仲間だった
・高杉は坂本龍馬にリボルバー(回転式)ピストルをプレゼントし、そのおかげで龍馬は寺田屋事件で役人に捕まらずに済んだ
・高杉晋作は「功山寺挙兵」、龍馬は「近江屋事件」と、ともに中々の命知らずだった
高杉晋作と坂本龍馬の関係と出会い
高杉晋作と坂本龍馬は、ともに近代化を目指す同志であり、坂本龍馬は高杉を支援していました。
2人は1863年の外国行使暗殺計画の際に出会ったようです。
長州藩の上士階級に生まれた高杉晋作と、土佐藩の郷士階級に生まれた坂本龍馬。
晋作は型破りな行動で長州藩に革命をおこし、龍馬は型破りな発想で明治維新の礎を築きます。
晋作は長州藩と藩主を愛し、長州藩の人々とともに長州藩をもって幕府に対抗しようと考えます。
いわゆる「長州ファースト」でした。
したがって、他藩士とは一線を引く考えをもっていたのです。
一方、龍馬は早くから土佐藩に見切りをつけ、他藩に人々と交わり、藩という枠にとらわれない日本人として行動をします。
同じく天才的な革命家ですが、二人の考え方はかなり異なっていました。
そんな二人にも接点があった様です。
文久2年(1863年)晋作は攘夷を決行しようと外国公使暗殺を計画します。
その際、同志の久坂玄瑞が土佐藩の武市半平太を誘い入れようとし、晋作は武市半平太や坂本龍馬と川崎宿の「萬年屋」にて会飲しています。
これが高杉晋作と坂本龍馬との出会いのようです。(前年に上海で出会ったという説もあるが)
ちなみに、暗殺の件は武市が土佐藩主に知らせ、土佐藩主が長州藩の世子(藩主の息子)に告げ、晋作たちは長州藩の世子から説諭され未然に思いとどまりました。
また、慶応2年(1866年)に薩長同盟締結へ向けて下関入りした龍馬は、長州藩船であり亀山社中が操船する乙丑丸(いっちゅうまる)にて、高杉晋作と会談しています。
この会談で、高杉晋作は、龍馬に、幕府の第二次長州征伐への参戦、長州海軍の指揮を依頼したといわれています。
さらに、乙丑丸を長州藩海軍局に所属させ、乗組員(亀山社中の者たち)も海軍総督・高杉晋作の指揮下に入るよう要請したとも言われています。
そして、長州藩海軍総督・高杉晋作が指揮する丙寅丸(へいんまる)、龍馬の乗った乙丑丸はともに、長州海軍として出撃。龍馬は長州軍側として幕府との海戦に参加しています。
龍馬は、慶応2年12月4日付の兄・坂本権平、坂本家一同宛の書簡で、上記の長州戦争の際の海戦の様子を図入りで報告しており、また、高杉晋作のことを「天下の人物」の一人として高く評価しています。
高杉が坂本に「ピストル」をプレゼントしていた
晋作と龍馬が下関で会談した際、晋作は龍馬にピストル(および漢詩)を贈ったと言われています。
スミス&ウエッソンの32口径元込め6連発のピストルです。
龍馬は薩長同盟締結後の慶応3年(1867年)、京都・伏見の「寺田屋事件」に遭います。
幕府伏見奉行の捕り方に踏み込まれますが、龍馬は高杉晋作からもらったピストルで防戦して、捕り方2名を射殺します。
しかし拳銃を持つ手を捕り方が刀で払おうとして、龍馬は手の親指を負傷。
装弾ができなくなりますが、辛くも裏木戸から寺田屋を脱出します。
高杉晋作のピストルが龍馬の一命を救ったと言えます。
木戸孝允宛の龍馬の手紙では
「かの高杉よりおくられ候ピストールをもって打払い・・」
と書いています。
「高杉晋作」「坂本龍馬」の命知らずなエピソードをご紹介!
「高杉晋作」命知らずのエピソード
「功山寺挙兵」
第一次長州征伐後、長州藩では幕府恭順派の俗論党が政権を牛耳ります。
俗論党政府からは奇兵隊はじめ諸隊に解散命令が出て、晋作は政府のお尋ね者となりました。
晋作は俗論党政府打倒の兵を挙げようと奇兵隊を説得しますが、賛同されません。
そこで晋作は自分に協力してくれる伊藤博文ら、わずか83名と共に功山寺で挙兵し、下関へ向かいます。
下関奉行所を襲撃し、藩海軍の軍艦三隻の奪取に成功。
そして、その成功を見た奇兵隊軍監の山縣有朋が200人の諸隊を率い、「絵堂の戦い」および「大田の戦い」で上士からなる1300人の長州藩正規軍に激闘の末勝利し、軍事的クーデターに成功するのです。
「いよう!征夷大将軍」事件
孝明天皇が14代将軍徳川家茂をつれ攘夷祈願のため賀茂神社に行幸されました。
その際、晋作は行列の沿道で土下座し平伏している人々に混じり、将軍が目の前に来るのを待っていました。
そして将軍がやってくると、なんと「いよう!征夷大将軍!」と叫んだのです。
連れの山縣有朋も顔色を失ったとの事。
しかし、この行列が将軍の行列ではなく天皇の行列であり、将軍の家来が晋作を取り押さえるため飛び出して列を乱すわけにはいかない。
そのため何事もなく行列は去りました。
「幕府艦隊との海戦」
第二次長州征伐の際、晋作は長州藩の海軍総督となります。
幕府は千トンの大艦の軍艦四隻で長州藩領に攻め込んできます。
長州藩の軍艦「丙寅丸」はわずか90トン。
晋作はその丙寅丸で幕府海軍に夜襲をかけます。
錨を下ろし、釜の火を消して眠っている幕府の軍艦に大砲を放ち、ことごとく命中させます。
幕府艦隊は狼狽し逃げ去ってしまいます。
「坂本龍馬」命知らずのエピソード
「近江屋事件」
龍馬は、近江屋で暗殺されます。
大政奉還して、幕府徳川家と血縁のある会津藩から憎まれており、新選組および京都市中見廻組に狙われていました。
にもかかわらず、龍馬は見廻組の宿舎の眼の前にある近江屋に宿泊していて、いつ暗殺されてもおかしくないところにいました。
近江屋のすぐ向かい側にある「土佐藩邸」に移れば安全なのですが
「生死は、天命にある。ただそれだけだ。」
といって土佐藩邸に移ろうとはしませんでした。
結果として近江屋で暗殺されてしまうことになります。
もしかしたら、「自分だけは死なない」と根拠もなく思い込んでいたのかもしれません。
『高杉晋作』『坂本龍馬』について「ひとこと」言いたい
高杉晋作も坂本龍馬も、ともに「明治維新」を前にして亡くなっています。
もしも二人が生きていたら、どうなっていたのでしょうか?
高杉晋作は、残念ながら「戦争」などの大事が起こった場合に能力を発揮する「猪突猛進」タイプだったと思います。
龍馬は?というと、「岩崎弥太郎」のような「商人タイプ」だったのではないでしょうか。
高杉は、「武士の特権」を次々と奪われる明治の改革に怒り、松下村塾の同門「前原一誠」が「萩の乱」を起こしたように、新政府に反旗を翻していたかもしれません。
龍馬はというと、民間の立場から明治政府を支援していたでしょう。
個人的には、二人が生きている「明治」を観てみたかった気がします。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・天才革命家の晋作と龍馬は何度か会談をもっており、龍馬は長州海軍として幕府軍と戦っています。
・晋作は龍馬に拳銃をプレゼントし、その拳銃が寺田屋事件で龍馬の命を守ります。
・晋作は少人数で挙兵し藩正規軍に戦いを挑み、辛くもクーデターは成功します。龍馬は安全な土佐藩邸を好まず、近江屋を宿所とし、暗殺されてしまいます。
以上となります。
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