「坂本龍馬」の「愛刀」の名前と、現在どこにあるか、をわかりやすく解説いたします。
「坂本龍馬」と言えば、北辰一刀流・桶町千葉道場の塾頭で剣豪。その剣術の腕前は、誰もよせつけなかったに違いありません。
そんな龍馬が、お酒に酔っ払って、料亭の柱に刀傷をつけていた!
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坂本龍馬の愛刀の名前は?
坂本龍馬の愛刀は二尺二寸の刀、銘「陸奥守吉行」です。
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陸奥守吉行は陸奥国中村(現:福島県相馬市中村)、または摂津国住吉(現:大阪府大阪市住吉区)出身の刀工です。
同じく刀工である播磨守吉成の次男で、父兄ともに大坂の刀工・大和守吉道に入門し作刀を修行します。
吉行は元禄年間に土佐藩に招聘され、同藩の鍛治奉行となりました。
その作品は土佐の刀でも特に優れていると評されます。
龍馬が兄・権平に求めた先祖伝来の一品で、慶応3年(1867年)2月、「山内容堂」に会見するため土佐を訪れた西郷隆盛に「陸奥守吉行」の刀をことづけ、3月中旬頃、長崎の龍馬のもとに届きました。
龍馬は京都に行く時はいつもこれを差して、兄からの贈り物だと自慢していたそうです。
暗殺された時に持っていたのもこの「陸奥守吉行」でした。
愛刀は今、どこにある?
龍馬の愛刀「陸奥守吉行」は、現在「京都国立博物館」に保存されています。
「陸奥守吉行」は、北海道に渡った龍馬の子孫が持っていました。
大正2年(1913年)12月に釧路で大火事が起きた際に焼け、その後、再刃し恩賜京都博物館に寄贈されました。
しかしながら、刀身に反りがなく、刃文もないことから「変形しており、龍馬のものかどうかも疑問が残る」などと過小評価されていました。
年月を経て、京都国立博物館は2016年5月10日、坂本龍馬の遺品として所蔵してきた刀が、近江屋事件で龍馬が暗殺された際に携えていた刀「陸奥守吉行」であることが分かったと発表しました。
刀は1931年に坂本家の子孫・坂本弥太郎氏が寄贈したもの。
2015年に高知県立坂本龍馬記念館から、寄贈の経緯を記した書類が発見されました。
それによると、1913年に北海道釧路市で弥太郎宅が火事に遭った際に刀は変形し、後に研ぎ直されていたことが記されていました。
刀の根本にある赤焦げた跡はこの時のもので、暗殺時に龍馬が敵刃を受け止めたとして知られる鞘も火災で焼けてしまったそうです。
また、ある学芸員が「刀身の下にうっすらと別の刃紋が見える」と指摘したため文化財用のスキャナーで確認したところ、吉行の作風である拳型丁字の刃紋の跡が見つかりました。
これらの資料と科学調査を照らし合わせ、所蔵する刀が、龍馬が近江屋事件で携えていた「陸奥守吉行」が火災で変形して研ぎ直されたものだと断定したのです。
龍馬が酔っ払って、柱に刀傷をつけた?
長崎には亀山社中をはじめ、竜馬ゆかりの場所が数多く残されています。
丸山かいわいに位置する料亭「花月」もその一つです。
鎖国の時代、唯一外国に開かれた貿易港だった長崎で、随一といわれた遊郭引田屋の庭園にあった「花月楼」がその始まり。
その歴史は360年以上にも及びます。
江戸から幕末、明治と長崎を舞台に活躍した国際人の社交場でした。
文人墨客も数多く訪れ、なかでも頼山陽は3ヶ月にわたって逗留し、花月を「養花山館」と名付け、篆刻(てんこく)も残しています。
昭和35年には長崎県の史跡に指定され、全国的にも珍しい「史跡料亭」として営業しています。
また、龍馬の直筆の書も展示してあります。
その「花月」の大広間の床柱には龍馬がつけたとされる刀傷が残っています。
どうも本当かどうかは怪しいらしく、全く関係ない人がつけた傷を坂本龍馬が…と言ってしまったらその話が定着したいう説もあります。
真偽いずれにしても、歴史的ロマンがある話なので結構じゃないでしょうか。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・坂本龍馬の愛刀は「陸奥守吉行」です。兄にもらったもので、暗殺された時にも持っていました。
・「陸奥守吉行」は京都国立博物館に保存されています。寄贈当初は龍馬の愛刀かどうかは疑問視されていたとのこと。
・長崎にある「花月」といえ史跡料亭の床柱には龍馬がつけたという刀傷があります。真偽は別としてロマンがある話です。
以上となります。
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