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キングダム・ラスボスはあの男!王翦・李牧をも上回る戦神・昭王の孫

まんがキングダムのラスボスは、誰なのかについて、簡単にわかりやすく解説いたします。

ラスボスは王翦や李牧を超える天才軍師であり、戦神いくさがみと恐れられた名君・昭王の孫だった!

史上はじめて天下統一を成しとげた名君・始皇帝と同じく、祖国に捨てられた天才の、悲しくも壮絶な物語。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  • キングダムのラスボスは昌平君
  • 昌平君は、戦神と呼ばれた秦王・昭王の孫であり、楚の王・考烈王の子
  • 昌平君とともに戦った楚の名将・項燕は呪われた予言を残した。「たとえ三戸さんことなっても秦を滅ぼすは楚なり」
  • 項燕が残した予言は、項燕の孫・項羽によって実現してしまう
目次

キングダムのラスボスは、戦神の血を引く天才軍師

人気まんが・キングダム。

秦の始皇帝による天下統一と、それをささえる若き武将・李信が、親友・漂との約束である天下の大将軍を目指すというストーリー。

そのキングダムにおけるラスボスは、いったい誰なのでしょうか?

後の始皇帝・嬴政(えいせい)による天下統一をはばむ最後の難関とは、何者なのか?

昌平君(しょうへいくん)をご存知でしょうか?

秦国軍の総司令官にして、秦国の元宰相・蔡沢さいたくから、猛将・蒙武よりも強い男と呼ばれ、天才軍師・河了貂の師でもある人物です。

この昌平君こそが、キングダムのラスボスなのです。


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史実を見てみると、秦国の天下統一が成し遂げられるとき、最後まで抵抗を続けたのは斉国です。

《戦国七雄》
「引用元ウィキペディアより」

昌平君が王となった楚国は、その斉国や燕国よりも先に滅亡しています。

しかし大国・楚は、秦国にとって最大のライバルでした。

また、秦による楚国への侵攻が始まった時、燕国はすでに滅亡寸前まで追い込まれていました。

斉国はというと、秦国の工作員によって事実上支配されていたため、楚国が天下統一への最後の難関だったことは明らかです。

キングダムで、合従軍との戦いの場面で、戦国四君の一人である春申君が、こんなことを言っています。

「山陽をとったのは、中華統一への詰(つ)みの一手だった。

これを見破ったのは俺と李牧のみ」

山陽攻略という詰みの一手を打った昌平君は、李牧春申君にも劣らぬ能力を持つ名将だったということでしょう。

しかも、そんな李牧や春申君がひきいた合従軍を撃破する戦術をひねり出したのは、他でもない昌平君なのです。

合従軍から斉国を裏切らせるという外交戦略を立案し、成功させたのも昌平君でした。

彼がどれほど優れているかが、よくわかるとおもいます。

実は昌平君は、有名なあの王様の孫なのです。


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ラスボスの生い立ちと、裏切りの理由

戦神・昭王(昭襄王)をご存知でしょうか?

キングダムにおいて白起王騎たち六大将軍を率いて、50年以上も王位にいた名君。(史実でも名君と言っていい人物です)

その戦神・昭王の娘と、キングダムで剛腕と紹介されていた楚国の王・考烈王、そのふたりのあいだに生まれたのが昌平君でした。

つまり昌平君は、戦神・昭王の孫であり、同時に考烈王の息子ということです。

秦国と楚国、二つの王族の血を継ぐ人物、それが昌平君なのです。

昌平君は、楚からの人質として秦国へ送られ、そこで誰よりも優れた能力を発揮し、活躍します。

考烈王の弟、つまり昌平君の叔父・昌文君とともに、秦国で活躍した昌平君は、相国(しょうこく)という最高位の大臣にまで出世しています。

この頃、昌平君の祖国・楚は、名将・項燕を先頭に、秦国と戦っていました。

項燕は、キングダムの主人公・李信蒙恬を撃破しています。

楚国は一時的に秦の攻撃を防いだものの、秦の名将・王翦の猛攻にたいして、さすがの名将・項燕も大敗してしまうのでした。

王翦の攻撃により、昌平君の兄弟である楚王・負芻(ふすう)を捕縛され、楚は滅亡寸前まで追いやられていました。

この時、昌平君は楚の名将・項燕の求めにこたえて、王として楚国へ帰還するのです。

つまり昌平君は、滅亡寸前の弱国・楚国で王となり、自分が大臣として強国に生まれ変わらせた最強の秦国軍と戦うという、まったくもって無謀な選択をするのです。

それまでの出世をすべて捨てて、昌平君は滅亡寸前の祖国へと帰還、玉座についたわけです。

昌平君のこの選択は、まさに自殺行為でした。

昌平君は、なぜそんな無謀な選択をしたのでしょうか?

そこには、昌平君とまったく同じ運命をたどった人物への、ライバル心があったのです。


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亡国・楚へ帰還した理由とは何か?

なぜ滅亡寸前の国へ王として帰還するという、無謀な選択を昌平君はやらかしたのでしょうか。

これは筆者の勝手な想像ですが、もしかしたら秦王・嬴政(えいせい)へのライバル心が原因なのではないでしょうか。

嬴政へのライバル心。

つまり嬴政への嫉妬心のようなものが、昌平君にはあったのではないでしょうか。

秦王・嬴政

≪始皇帝≫
「引用元ウィキペディアより」

のちに始皇帝とよばれることとなるこの人物もまた、実は昌平君とよく似たような運命をたどっているのです。

昌平君は、楚から秦へ人質として送られ、いつ殺されてもおかしくないような危険な立場におかれながらも、その素晴らしい能力で出世をくりかえし、秦の相国にのぼりつめました。

秦王・嬴政も、敵国である趙国の首都・邯鄲で産まれ育ち、いつ殺害されてもおかしくない崖っぷちの状態で、少年時代を過ごしています。
(とはいえ昌平君は、楚の王族であると同時に秦の王族でもあったので、嬴政とは違い、秦国から大切にされたはず)

そんな嬴政が秦王となり、天下統一という、それまで歴史上だれも成し遂げたことがない偉業を成し遂げようとしていました。

相国にまでのぼりつめたとはいえ、昌平君などとは比べ物にならないほどの偉業です。

いま目の前にいる嬴政が、その天下統一を成し遂げて、人類の究極地点へのぼりつめようとしている。

もちろん、自分の祖国・楚が滅亡することに耐えられたかったという事情もあるでしょう。

しかしその心底には、嬴政へのライバル心があったのではないでしょうか。

滅亡寸前の楚とはいえ、秦王・嬴政と同じ王という立場に立ち、嬴政と対等に戦える。

そんな状況に、昌平君は心動かされたのかもしれません。


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ラスボスの最期と【呪われた予言】

昌平君が楚へ帰還したとき、楚国は見るも無残な状況でした。

名将・項燕は、秦の将軍であった李信と蒙恬のふたりを撃破したものの、王翦に大敗北し、首都の陳(ちん)は陥落していました。

残された兵も数は少なく、楚の宿敵だった越国との連合軍を組織して、やっと抵抗を続けるという有り様だったのです。

たとえ天才・昌平君をもってしても、名将・王翦がひきいる最強・秦国軍の猛攻を止めることは、もはやできなかったのです。

「たとえ三戸(さんこ)となっても、秦を亡ぼすは楚なり」

紀元前223年、蘄(き)の戦いにおいて壮絶な最期を遂げた項燕将軍が、死の間際に口にしたとされる言葉です。

直訳すると

「たとえ家の数が3つだけになったとしても(少人数になっても)、楚は必ずや秦を亡ぼす」

という意味になります。

これはつまり

「何が起こっても、どんなことをしてでも必ず楚は、秦を滅ぼしてみせる!」

という怨念の言葉なのです。


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項燕とともに昌平君もまた、王翦や蒙武の攻撃を受けて敗死します。

昌平君が目指したであろう打倒・秦王の夢は、儚い夢と散りました。

その無念はどれほどのものだったのでしょうか。

それとも、自分の夢にすべてをかけて散ったことに、昌平君は満足していたのでしょうか。

今となっては誰にもわかりません。

その後、昌平君の故郷・楚は、秦軍によって踏みにじられることとなります。

昌平君が散った江南の地は、雨が多く豊かな土地で、霧の立ち込める幻想的な地でもあります。

その土地を、秦軍がどのようにあつかったのか、その侵略と破壊行為は、想像を絶するものがあります。

王翦は楚国を滅亡させると、長江(ちょうこう)という巨大な河の南に位置していた国・越国をも滅ぼします。

そのあと、李信・王賁・蒙恬の活躍もあって、生き残っていた燕国と斉国も滅亡。

【紀元前221年】、秦は天下統一を成し遂げ、秦王・嬴政は人類史上初めて王を超える称号である皇帝を名乗って、天下に君臨するのです。

しかし、天下統一をなしとげ、永遠に続くかと思われた秦国の支配は、わずか15年で終わってしまうのです。

天下統一を成し遂げた始皇帝・嬴政は、侵略した中華のすべてを見てまわるパレードを開始します。

その始皇帝がひきいる、壮大な軍団の行列にひざまずく、一人の若武者がいました。

「今に見ていろ。

そのうち俺が、貴様にとって代わってやる」

この若武者は、静かにそうささやくと、呪いと怨念に満ちあふれた瞳を、始皇帝に向けます。

たとえ三戸となっても、秦を滅ぼすは楚なり。

滅亡した楚国の大将軍・項燕の残した小さな怨念が、自らの目の前で静かにうごめいていたことを、このとき始皇帝は気づきませんでした。


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実現した呪いの予言!秦を滅ぼした覇王とは?

紀元前206年、昌平君が亡くなり楚が滅亡した17年後、始皇帝から数えて三代目の秦王・子嬰(しえい)の代で、最強・秦国は滅亡します。

秦を滅ぼしたのは、復興を果たした楚国でした。

  • 楚国の大将軍・項燕の末の息子・項梁こうりょう
  • 項梁の甥であり項燕の孫にあたる項羽こうう(正式名称は項籍)

この二人の手で楚国は復興され、始皇帝が亡くなった後の秦にたいして、壮絶な復讐戦を開始したのです。

のちに覇王を名乗る猛将・項羽の父親が誰なのか、史実ではまったく不明です。

項羽(項籍)
引用元ウィキペディアより

おそらくですが、まんが・キングダムの登場人物である雷轟・項翼が、項羽の父という設定になるのではないでしょうか。

項燕の息子・項梁は、秦将・章邯に敗れ、命を落とします。

しかし項梁の甥・項羽は、軍神とあだ名されるほどの神がかった戦闘能力を発揮して、秦軍を次々と撃破します。

楚を滅ぼした名将・王翦の孫・王離も、項羽に敗北し、亡くなっています。(王離の父は、王翦の息子・王賁)

項羽がひきいる楚軍は、秦の首都・咸陽をまたたく間に制圧。

項羽は祖父・項燕の怨念を晴らすかのように、巨大都市・咸陽を蹂躙します。

始皇帝が建設した壮大な大宮殿・阿房宮(あぼうきゅう)は放火され、その火は三か月も燃え続けたと言われたほどです。

「いつか貴様にとって代わってやる」

項羽が始皇帝の行列に対して吐いた怨念の言葉は、こうして実現したのです。

その後、項羽は【西楚せいそ覇王はおう】と名乗って天下統一を目指します。

しかし秦国打倒を目指して、ともに戦った劉邦と項羽のあいだで、楚漢戦争が勃発し、ふたたび中華は戦乱の世へと逆戻りしてしまうのです。


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昌平君の祖国・楚についてですが、じつは現代の日本にも、楚国の名残が残っているのです。

四面楚歌しめんそか

覇王・項羽が垓下(がいか)の戦いで敗死する前の夜に、四方から項羽の祖国・楚の歌が聞こえてきたことを指す言葉です。

「楚の国は、すでに私を見捨てたのか」

この歌は、祖国・楚が自分を見捨てて、ライバルの劉邦に降伏したことを意味していました。

その事実に項羽は絶望し、抜山蓋世ばつざんがいせいという有名な歌を残して、出撃します。

その結果、項羽は壮絶な戦死をとげることとなるのです。


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「天が私を亡ぼすのだ」

生涯70以上の戦いすべてに勝利し、中国史上でも一二を争うほどの強さをほこる軍神・項羽。

最期は格下と思われていた敵将・劉邦に敗れたことをあくまでも認めず

『劉邦に負けたのではなく天の意志によって滅びるのだ』

と宣言して、壮絶に戦死します。

偶然にも、項羽が亡くなった場所・烏江の渡し(うこうのわたし)は、昌平君が亡くなった江南・江東への入り口でした。

項羽が成しとげた秦国滅亡は、それまで昌平君が心血を注いでつくりあげた強国・秦の仕組みを破壊するものであり、項羽の死とともに滅亡した楚は、昌平君が命をかけて守ろうとした祖国でした。

項羽の破壊衝動は、秦国を粉々に打ち砕き、昌平君の故郷・楚をも滅亡へと導きました。

軍神・項羽による、秦と楚の滅亡を、地の底で眠る昌平君は、はたしてどのような思いで見つめているのでしょうか

項羽のすさまじい破壊行為は、秦と楚の両国に生きた証を残した昌平君の遺功を、無残にも踏みつぶすものだったのかもしれません。

昌平君の祖国・楚は、覇王・項羽の圧倒的な戦闘力により、一瞬の輝きをともなって復活したものの、もろくも崩れさるという運命をたどったのです。


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ラスボスの末裔は、今も生きているのか?

昌平君の子孫は、存在しているのでしょうか?

結論から言ってしまうと、末裔がいるかどうかは不明です。

しかし、昌平君と同じく楚の王族の血を引く人物は、歴史書のなかに登場します。

その名は羋心(びしん)

のちに義帝(ぎてい)と呼ばれる皇帝の位についた人物。

義とは、仮を意味する言葉です。義という文字は、義理の両親や義理の兄弟という使われ方をしますが、義理とは仮という意味なのです

つまり義帝とは、仮の皇帝を意味する称号でした。

昌平君の曽祖父は、懐王(かいおう)と呼ばれていました。

この懐王の孫の孫である羋心(びしん)が、のちに項梁や項羽にかつぎだされて、楚の王としてまつりあげられるのです。

義帝こと羋心は、項羽によって義帝を名乗らされますが、秦国を滅ぼして天下統一を目指す項羽によって、最期は邪魔者あつかいされて、暗殺されてしまいます。

義帝の仇を討つという名目で、項羽のライバルだった劉邦は挙兵します。

そして劉邦は、項羽を滅ぼして天下統一を達成し、前漢ぜんかんという国を建てます。

この義帝には子供がいなかったため、子孫は残っていません。

その後、楚の王族は歴史から消えていくこととなるのです。


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読み切りマンガ【蒙武と楚子】

「俺は父に、国に捨てられた・・。

俺だって、歴史に名を馳せる英雄になりたかったのに・・・」

これはキングダムの作者・原泰久による読み切りマンガ[蒙武と楚子]に登場する昌平君の言葉です。

秦国へ人質として送られた昌平君は、祖国や父親から見捨てられた絶望に、打ちのめされていました。

これを聞いた昌平君のライバルであり友人でもあった若き蒙武は、こう言いはなちます。

「お前は終わってなんかいない!

国に捨てられたんなら、お前も国を捨てればいいじゃねぇか!

今立っているここ(秦国)で一旗あげればいいじゃねぇか!

己の野望を掲げて爆進する!

それが戦国に夢を描く益荒男(ますらお)ってやつだろうが!」

昌平君をはげますように叫ぶ蒙武。

そしてその手をつかみ立ちあがる昌平君。

「ともに将軍となって一旗揚げるぞ!

そして二人の名を天下に轟かせるんだ」

キングダムの主人公・李信が、親友・漂と約束した、天下の大将軍になる、という夢を蒙武と昌平君の二人もまた約束していたのでした。

しかし、将軍よりも上の大臣にまでのぼりつめた昌平君は、祖国・楚への想いを捨てきれませんでした。

昌平君は、秦王・嬴政からの

「楚攻略のための作戦を立案せよ」

という命令に従えず、秦から逃亡します。

祖国である楚へ帰還し、兄である楚王・負芻のあとをついで楚王となります。

天才・昌平君の奮戦虚しく、王翦と蒙武による楚国侵攻で、楚は滅亡。


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「降伏はしない。

そんなナヨ坊ちゃんは、お前の友『楚子』ではない」

最後の戦いにおいて、楚王・昌平君は、敵となってしまった親友・蒙武に、こう言いはなちます。

「お前は馬鹿だ!!!」

絶叫する蒙武の手で、昌平君は壮絶な最期を遂げるのでした。

自らを立ち上がらせてくれた友・蒙武に対して、笑顔で言いはなった最後の言葉

「降伏はしない。

そんなナヨ坊っちゃんは・・・お前の友『楚子』ではない」

それは、みずからに活きる命を注ぎこんでくれた友・蒙武への、せめてもの礼だったのでしょう。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  • 人気漫画キングダムのラスボスは、秦国の軍総司令官・昌平君
  • 昌平君は、楚の大将軍・項燕とともに秦国軍と戦うものの、紀元前223年に敗死している
  • 秦国は、紀元前206年に、項燕の孫・項羽によって滅ぼされることとなる

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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