島津斉興の生涯と最後!側室・お由羅や息子・斉彬との悲劇の理由とは

西郷隆盛の師「島津斉彬」の父「島津斉興」の生涯と最期

側室「お由羅」と、息子「斉彬」

斉興の周囲で起こった悲劇・・・その内容と結末をご紹介いたします


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この記事を短く言うと

・島津斉興は、薩摩藩主にして「斉彬」「久光」の父。薩摩藩の財政再建を成し遂げた殿様

・斉興は、祖父「重豪」の「蘭癖」のおかげで破綻した薩摩藩財政を再建し、息子「斉彬」と対立した

・斉彬派と久光派の派閥争い「お由羅騒動」により、斉興は息子・斉彬と徹底的に対立し、息子に先立たれた


島津斉興とは何をした人?かなり賢い殿様だった?

島津斉興

島津氏第27代目当主にして、薩摩藩第10代目藩主

西郷隆盛を見出し、薩摩藩の改革を一気にすすめた幕末の名君「島津斉彬」の実父

島津斉興
『引用元ウィキペディアより』

そんな「島津斉興」の生涯と功績を解説したいと思います。

「島津斉興」の功績

島津斉興の功績を、短く解説すると、以下の通り

・薩摩藩が抱える500万両の借金を解決し、逆に多額の蓄えを残した(この財源で、薩摩藩は明治維新を成し遂げた)

・西郷隆盛を見出し育てた名君「島津斉彬」を生み育てた

明治維新を成し遂げた時の藩主は、斉興の孫「島津忠義」。しかしその土台は、斉興が整えていたのです。


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島津斉興の生涯と最期

「島津斉興」の生涯を簡単に解説いたします。

生い立ち

1791年、薩摩藩第9代藩主「島津斉宣」の嫡男として誕生。

1804年、元服(成人)。当時の11代将軍「徳川家斉」から「斉」の一時をもらって「斉興」と名乗ります。

1809年、父「斉宣」が、祖父「重豪」によって力づくで藩主の座から「引退」させられた。そのあとを継いで、斉興が「10代藩主」に就任。

斉興が藩主になったと言っても、祖父「重豪」が依然として藩の実権を掌握。

そのため「斉興」は、自分が思う政治が出来なかったのです。


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藩の財政改革

1833年、それまで薩摩藩の実権を握っていた祖父「島津重豪」が他界

ようやく斉興が藩の政治を行うことに成るのですが、そこに難題が待ち構えていました。

実は祖父「重豪」・・・西洋文化に多大な興味を持つ人物だったのです。

そのため、財政が傾くことも構わず、西洋の代物にガンガン資金を注ぎ込み続けていたのでした。

気がつくと、薩摩藩の借金は「500万両」

斉興は、この祖父が残した「500万両」という負の遺産と、戦わなくてはならなくなったのです。

そこで斉興は、「調所広郷」という人物を重用し、藩の財政を再建。

まず借金については「250年分割払い」で、事実上踏み倒し。

更に、清や琉球との密貿易、奄美大島などにおける砂糖の専売を奨励。

これにより、薩摩藩は「500万両の借金」から、一気に「200万両の秘密財産」を持つに至ったのでした。

そんな斉興ですが、祖父・重豪に可愛がられ、重豪と同じように「西洋文化」に強い興味を持つ息子「斉彬」に、ある不安を覚えます。

「息子・斉彬が藩主となったら、祖父・重豪と同じように、資金を湯水のように使うのではないか」

そのため斉興は、斉彬が40歳になっても藩主の座を譲らず、藩主の椅子に座り続けました。

島津斉彬
『引用元ウィキペディアより』

1848年、斉彬は藩主の座を譲らない父・斉興を追い出すために、幕府に琉球との「密貿易」を密告

ところが、重臣「調所広郷」が、この責任を一人で背負い、服毒自殺。斉彬の「斉興追放」の企ては失敗したのです。

お由羅騒動

斉彬の密告により調所広郷が亡くなって、斉興は激怒

斉興は、斉彬ではなく、その弟で側室「お由羅」の子「久光」を跡目にしようと考えます。

ここに、「斉彬派」と「久光派」による対立が激化

斉彬派の面々は、久光とお由羅を暗殺しようと画策しますが、斉興は先手を打って斉彬派を次々と処断。

これが「お由羅騒動

この騒動に「斉彬」の大叔父である「福岡藩主・黒田長溥」が仲介に乗り出し、当時の筆頭老中「阿部正弘」や、斉彬の盟友「伊達宗城」「松平春嶽」が沈静化を図ることとなるのです。

1851年、12代将軍「徳川家慶」の介入もあって、斉興は隠居することとなります。


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息子・斉彬との確執と、斉彬の死

斉興は引退。しかし、斉彬の藩政改革を、苦々しく見ていたようです。

息子の斉彬は、「集成館事業」と呼ばれる「洋式造船」や「反射炉」「溶鉱炉」の製造、ガラス製品の製造など、次々と新しい事業を起こし、藩政改革を実行していきます。

また、斉彬は「西郷隆盛」や「大久保利通」などの人材を採用。

特に西郷隆盛は、お庭方に任命し、常に側に置き、自ら教育したと言われています。

1858年、そんな斉彬が急死

斉興は、藩の実権を取り戻します。

最初に「斉彬」が行った「集成館事業」を廃止。西郷隆盛などの「斉彬派」を一掃。藩の改革を台無しにします。とはいえ、斉興は「ガラス製品製造」の事業には、強い関心を示していたみたいです。

そして久光の息子「島津忠義」が、薩摩藩主に就任することとなるのです。

最期

1859年、島津斉興が死去

享年67歳。

薩摩藩の財政を建て直した名君でしたが、それ以上の名君である「島津斉彬」の能力を見抜けずにいたことが、斉興の限界だったのかもしれません。


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お由羅、そして息子・島津斉彬との悲劇とは?

斉興は、常に祖父「重豪」の負の遺産に悩まされてきました。

薩摩藩は70万石の大藩・・・と言われていますが、実際には30万石ほどの生産力しかありませんでした。

しかも生産性が低い「武士階級」が多く、とても貧しい藩ということで有名。

そこに「500万両」の借金です。

相当に苦労した斉興・・・祖父の重豪を恨んだことでしょう。

そんな重豪と同じように「蘭癖(らんぺき・・西洋狂い)」だった斉彬を、極端に恐れたのも仕方なかったかもしれません。

更には我が子「久光」を溺愛する側室「お由羅」も、斉興と斉彬の関係を悪化させようとしていたのです。

斉興と斉彬・・・2人はともにわかり合うことのない親子でしたが・・・それでも薩摩をなんとかしたいという志は同じだったはず

斉興は「藩の財政」

斉彬は「諸外国」と

それぞれが抱く「驚異」は異なりましたが、斉興にもっと「諸外国を見通す目」が備わっていたなら、斉彬が諸外国を恐れた理由を理解し、斉彬をもっと信頼出来たのかもしれません。

実際、薩摩藩は「薩英戦争」で、外国の驚異を目の当たりにしています。

島津斉興・・・・若い頃に苦労しすぎたことが、斉彬との悲劇につながったのかもしれません。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

・島津斉興の功績は息子「斉彬を生んだこと」と「藩の財政を建て直したこと

・斉興は、祖父「重豪」の浪費癖に苦労させられた

・斉興は、息子・斉彬の才能を見抜けなかった

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

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ありがとうございました


島津斉彬」「島津久光」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

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