維新三傑の1人にして、長州藩の実質的リーダー「木戸孝允(桂小五郎)」が亡くなった原因を、わかりやすく解説いたします。
「木戸孝允は真面目な性格で、ストレスが原因の『胃がん』で亡くなった」
最期の言葉は「西郷!いい加減にしないか!」
西郷隆盛を怒鳴りつけて亡くなった。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
・木戸孝允の死因は諸説あるが、生真面目な性格が災いしての「胃がん」と言われている
・実は、西南戦争勃発の知らせを聞いて、西郷隆盛を助けようとしていた
・亡くなる前、夢の中で西郷を叱り飛ばした・・・という逸話がある
木戸孝允(桂小五郎)の死因とは?
西郷隆盛・大久保利通と並ぶ「維新三傑」の1人、長州藩の「木戸孝允(桂小五郎)」
「引用元ウィキペディアより」
木戸孝允の死因は「胃癌(いがん)」とされています。
もともと病弱であったにもかかわらず、かなりの酒豪であり、それが原因での肝臓肥大していたという説もあります。(大酒飲みで有名だった元土佐藩主「山内容堂(やまうちようどう)」と飲み友達だった)
また、生真面目な性格で、新政府では当時、征韓論や士族の反乱、権力闘争など、諸々がなかなかうまくいっていなかったこともあり、精神的ストレスが凄まじかったのだとか。
木戸は毛利敬親や明治天皇からも、厚く信頼されるなど、期待されることが多く、それもまたストレスの原因であったと言われています。
様々な説がありますが、木戸はさまざまな立場からの意見を調整する役に付いていました。それによって、苦悩が絶えない状況であり、精神的ストレスによる疲弊が、死因となったのではないでしょうか。
死の間際、西郷隆盛を助けようとしていた?
1877年、西郷隆盛が鹿児島で西南戦争を起こすと、以前より鹿児島県の古い体制を批判していた木戸孝允は、討伐軍の任にあたりたいと希望しました。
しかし、木戸は以前から病気で、その時も病状が悪化し、討伐軍の本陣がある京都で亡くなります。
明治維新後、木戸は新政府内で活躍するも、新政府内部での派閥争いや期待の大きさに、ストレスを感じていたと言われています。
そんな木戸は、「明治六年の政変」で西郷が下野(辞職)すると、その翌年に起こった「台湾出兵」を批判して下野。
さらにその翌年1875年(明治八年)、木戸は大久保らの説得を受けて政府へ戻ります。
西郷に対しては、その征韓論(明治六年の政変)などで意見の対立することも多くあり、また考え方の相違も大きかったのです。
しかし西郷は、木戸と同じく倒幕に尽力した同志でした。
維新後、様々な苦労があり新政府に思うところがあったという共通点も・・・。
西郷の功績が偉大であったことや、明治天皇が西郷を殺すことを望んでいなかったなどから、木戸孝允が病気にも関わらず「征討軍の任」をうけることを望んだその理由は
『自分以外に西郷を救えるものはいない』
と思っていたからではないでしょうか。
そうでなくては、死にそうなほど重病に侵されていた木戸孝允が、そこまで無理して、「討伐軍の総大将」となって「京都」へ移動するはずがありません。
西郷を説得し、渡り合えるだけの人材といえば「大久保利通」か「木戸孝允」しかいません。
西郷を説得するために薩摩へ行きたいと言う大久保を、伊藤博文らが必死に止めたのです。薩摩へ行ったりしたら、即暗殺されるに決まっているのですから。
木戸はそれを見て、自分しか西郷を説得できないと感じたのでしょう
木戸は意見が対立していたとはいえ、恩のある西郷を救おうとしていた・・・事実はそうでなかったとしても、せめてそう思いたいものです。
「木戸孝允の生涯」について、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。
↓↓↓↓↓↓
西郷隆盛にお説教して亡くなった
木戸孝允は死ぬ間際まで国のことを心配し、また「維新の功労者」である西郷隆盛の当時の状況を心配しておりました。
亡くなる直前には、夢の中でも西郷を叱責するほど。それほど、西郷隆盛と日本のことを案じていたのです。
木戸は「岩倉具視使節団」にも随行し、西洋のこともよく知っていたため、内乱などやっている場合ではないと考えていたのです。そんなことしていたら、諸外国に付け入る隙を与えることとなります。
おそらくですが木戸は西郷について、国のためにも西南戦争で士族とともに死んでいくのではなく、政府のため国のために生き残るべきであると考えていたのでしょう。
木戸は、西南戦争を鎮圧するための責任者に自ら志願。
京都まで出向いたところで病気で倒れます。
最期は「大久保利通」の手を握りながら
「西郷もいい加減にしないか!」
と、意識朦朧とした状況で叫びながら、亡くなったと言われています。
この最期の言葉から考えてみるに、やはり盟友「西郷隆盛」を救えるのは自分しかいない・・・と考えていたのでしょう。
大久保利通もまた、西郷隆盛を説得しようと、鹿児島へ行くことを主張していましたが、周囲が必死で反対。当然です。大久保は実質的な明治新政府の首相として「廃藩置県」「廃刀令」など武士の特権を剥奪する改革を主導した立場だったため、故郷「鹿児島」で非常に憎まれていたのです。鹿児島に入った瞬間に殺害されることは明らかでした。
そうなると、西郷隆盛と渡り合えるのは「木戸孝允」しかいなかった。
ここで「戊辰戦争の英雄・西郷隆盛」と戦うことは、新政府にとって大きな脅威だったはずです。しかしそれだけではなく、木戸は恩のある「西郷隆盛」を死なせるに忍びなかったのではないでしょうか。
木戸は「薩長同盟」の際に、自らは決して頭を下げず、西郷隆盛が頭を下げて同盟を締結しました。これにより木戸や長州藩は「第二次長州征伐」で勝利でき、滅亡をまぬがれたのですから。
「いい加減にしないか!」・・・木戸は西郷に、いったい何を「いい加減にしろ」と言いたかったのか。
「いい加減、これ以上心配をかけるな!」
「いい加減、意地を張って鹿児島にとじこもっていないで、我々のところへ帰ってこい!」
まるで「面倒ばかりかける聞き分けのない子」に説教をするように、木戸は西郷を叱りつけたかったのでしょう。
「死ぬな!」
木戸が西郷に言いたかったことを、一言で表現すると、こうなるはずです。
木戸孝允亡き後、西南戦争鎮圧は「西郷」「木戸」とならぶ「維新三傑」最期の一人「大久保利通」に引き継がれます。
西郷は西南戦争で戦死。大久保は西郷の死を耳にした際、狂ったように嘆いたと言われています。
1878年、西南戦争の翌年、「大久保利通」もまた、「紀尾井坂の変」で悲惨な最期を遂げています。襲撃された大久保の懐中には、自らが死なせてしまった盟友「西郷隆盛」からの「手紙」がおさめられていたのです。
「大久保利通の最期」について、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。
↓↓↓↓↓↓↓
まとめ
本日の記事をまとめますと
・木戸孝允の死因については諸説ありますが、精神的ストレスが最大の原因であったと思われる
・征討軍の任を望んだ木戸孝允は、実は西郷隆盛を助けようとしていたのではないかと言われている
・死の直前まで国や西郷のことを想い、木戸孝允は夢の中で西郷を説教をした
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
↓↓↓↓↓↓
コメント
コメント一覧 (1件)
[…] 『木戸孝允こと桂小五郎の死因とは?西郷隆盛を叱り飛ばして死亡した!』の記事はコチラ […]