「お由羅騒動(おゆらそうどう)」とはどういう事件か、わかりやすく解説いたします。
「西郷隆盛」や「大久保利通」も、とばっちりを受けた「お由羅騒動」
それは薩摩藩主「島津斉興」の二人の子供「斉彬」と「久光」の、藩主の座をめぐる「後継者あらそい」。
結果、「島津斉彬」の勝利で終わりました。
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この記事を短く言うと
・お由羅騒動とは、島津斉彬を支持する一派と、久光を支持する一派による「跡目争い」
・騒動は「島津斉彬」一派の勝利で終わった
・騒動後、お由羅は処罰されること無く、15年後に亡くなった
お由羅とは、誰?
そもそも「お由羅(ゆら)」さんとは、何者なのでしょうか?
お由羅とは、薩摩藩主・島津斉興の「側室」・・・つまり、複数いる「奥様」の内の一人ということです。
「お由羅」の実家は、それほど身分が高いわけではなく、「八百屋」又は「船宿」、又は「大工」の娘と言われています。実家のお仕事が何なのか、諸説あってはっきりとはしていません。
そんな町人のお由羅さんは、薩摩藩・島津家の殿様「斉興」に気に入られて、側室になり、三人のお子さんを産みます。
斉興さんには、他にも奥様がいて、子供がたくさんいましたので、彼女が出産した子は「三女・智姫」「五男・久光」「七男・唯七郎」の三名。
ただ、「久光」を除いて、残りの2人は幼くして亡くなってしまいました。
斉興さんには、「弥姫」という「正妻」・・つまり「正式な奥様」がいらっしゃいましたが、その「弥姫」が比較的若いときに亡くなっています。
弥姫が亡くなった後、「お由羅」は側室であるにも関わらず「御国御前(おくにごぜん)」と呼ばれて、「正妻」として扱われる事となるのです。
お由羅騒動とは、どんな事件?
そんな「お由羅」さんの名前がつけられた事件「お由羅騒動」とは、どういう事件なのでしょうか?
一言で言ってしまうと、「お由羅騒動」というのは、「跡目争い」
薩摩のお殿様「島津斉興」の次に、誰がお殿様になるのか?が争われた事件が「お由羅騒動」です。
一体誰と誰が、斉興の次の「殿様の座」を争ったのか?というと、斉興の嫡子「斉彬(なりあきら)」と、お由羅が産んだ弟「久光」。
当然ですが、お由羅は我が子「久光」を次の殿様にしたいと考えていました。
そして父・斉興もまた、斉彬よりも久光を次のお殿様にしたがったのです。
なぜなら、斉興と斉彬は、親子でありながらとても仲が悪かったから・・・。
そして、薩摩藩のお侍さん達は、「とても優秀な嫡子・斉彬」と、「優秀じゃないけど殿様・斉興が気に入っている弟・久光」、それぞれを応援する、2つの派閥に割れてしまいます。
斉興は既に高齢・・・・もう引退して、次の殿様に実権を渡さなくてはなりません。
そして、当時の風習からいって、当然「嫡子・斉彬」にあとを継がせなくてはなりません。
しかし・・斉興は斉彬を殿様にしたくない・・・。
そこで斉興がとった行動が・・・いつまでたっても引退しない・・・という持久戦の様相を呈します。
これにイライラしたのが斉彬。
「早く殿様になりたい!」
というわけで、幕府・・つまり江戸の将軍様とその側近・老中「阿部正弘」に「斉興」が密かに行っていた琉球との「密貿易」を密告。
これで父・斉興が処罰されれば、斉彬は晴れて殿様・・・のはずでしたが、この「密貿易」の罪は、薩摩藩のお偉いさん「調所広郷」が一人で責任をかぶって服毒自殺。
斉興には「おとがめなし」となってしまいました。
当然、斉興は斉彬が幕府にチクったことに激怒!
また、斉彬を応援する一派は、「斉彬の子供達が幼くして次々と亡くなっていっていた」ことを不審に思っていました。
その原因は「お由羅が、呪い殺しているのだ」と考えて、お由羅や久光一派への怒りを露わにしていきます。
それに先んじて斉興は、斉彬を応援する一派を、次々と処分していきます。
切腹した人の中には、西郷隆盛の師であった「赤山靭負(あかやま ゆきえ)」も・・・また流罪になった人の中には大久保利通の父「大久保利世」も・・。
ちなみに「西郷隆盛」や「大久保利通」は「斉彬を支持する一派」でした。
この凄まじい人数の処分が、後世「お由羅騒動」と呼ばれることとなるのです。
騒動の結末
騒動の結末・・・結果から言うと、「斉興」が引退して、「斉彬」が藩主となります。
どういう手を使ったのか?
斉彬を応援する一派のうち数名が、「福岡藩」へ逃げ込んだのです。この福岡藩の殿様「黒田長溥」は、斉彬の親戚で、薩摩藩出身のお方。
実家の騒動を見過ごせず黒田長溥は、実の弟で「八戸藩主」だった「南部信順」と協力して、この騒動を終わらせようと動き出します。
2人は、老中・阿部正弘に働きかけて、騒動を沈静化させようとします。
元々、島津斉彬の優秀さを尊敬し、斉彬と仲良しだった阿部正弘は、当時の将軍「12代・徳川家慶」にはたらきかけて、「斉興」へ「茶器」をプレゼントさせたのです。
「茶器」・・・つまり「お茶を飲む道具」を贈るということは、つまり「もう仕事を辞めて引退し、ゆっくりお茶でも飲め」という意味がありました。
最高権力者・将軍「徳川家慶」に「引退しなさい」と指示された「斉興」は、仕方なく引退して斉彬へ「殿様の身分」を譲ります。
これにより、斉彬一派の逆転勝利となり、斉彬が、新しい薩摩のお殿様に就任。
島津久光・・・・残念ながら、お殿様にはなれなかったのです。
騒動後、お由羅はどうなった?
騒動の後、お由羅はどうなったのでしょうか?
お由羅は、島津斉彬から嫌われていましたが、何の処分もされること無く、「お由羅騒動」が起こった1851年の15年後・・・1866年に鹿児島で亡くなります。
この時、既に「斉彬」は病気で亡くなっており、斉彬は弟『久光』の息子「忠義」を養子にして、次の薩摩藩・お殿様としていました。
自分の孫「忠義」が殿様となったことを見届けたお由羅は、静かに亡くなったのでした。
久光は、結局殿様となることはできなかったのですが、息子が殿様になって、それを後ろから応援する!という形で薩摩藩の実権を握り、「国父」と呼ばれる「殿様よりも偉い立場」につくこととなります。
斉彬は病死したと言いましたが、実はその病死、あまりにも急で「暗殺されたのでは?」と疑われています。
斉彬をとても尊敬していた「西郷隆盛」は、殿様の死を悲しみ、自殺しようとしたほどです。
斉彬が亡くなって、最も得したのは息子を殿様に就任させた「久光」・・・・西郷隆盛は久光を生涯嫌い続けたと言われています。
何といっても、西郷は「久光様は田舎者です」と面と向かって言ったと言われていますので・・・。久光を相当に嫌っていたのでしょう。
そして、西郷は斉彬をかなり尊敬していたのです。
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まとめ
本日の記事をまとめますと
・「お由羅」は島津斉興の側室で、島津久光の母・・・・斉彬の母ではない
・お由羅騒動とは、斉彬一派と、久光一派による「薩摩藩主・跡目争い」
・お由羅騒動は、斉彬が薩摩藩主となることで終わった
・お由羅は処罰されること無く、1866年に亡くなった
・斉彬には息子がいなかったので、弟・久光の息子・忠義を養子として、跡を継がせた・・・お由羅の孫が藩主となったということ
以上となります。
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