明治維新の英雄「西郷隆盛」の二人目の妻「愛加那(あいかな)」について、「子孫」と「家系図」を画像つきで、わかりやすく解説いたします。
「愛加那の息子は、京都市長・西郷菊次郎。子孫は、現在『鹿児島』で陶芸家として活躍」
彼女のご先祖様は、源頼朝の叔父・最強の武将「源為朝」
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この記事を短く言うと
・愛加那とは、西郷隆盛の二人目の妻であり、後の京都市長「西郷菊次郎」の母
・愛加那の子孫は現在、鹿児島で陶芸家をしている
・「源頼朝」の叔父「源為朝」が「愛加那の先祖」という説がある
愛加那とは何者か?簡単解説
「愛加那(あいかな)」とは何者なのか?
彼女は「西郷隆盛」の「二人目の妻」にして、西郷隆盛の子供「西郷菊次郎」と「菊草」の母。
西郷隆盛が、「安政の大獄」で追われた際に、奄美大島へ偽名「菊地源吾」を名乗って潜伏した際に、「島妻」となった女性です。
西郷隆盛とは、1859年11月に結婚。この時西郷31歳。愛加那23歳。
西郷が本土に戻る「1861年12月」まで「夫婦」として生活し、西郷が本土に戻ります。
西郷と愛加那が2ヶ月ほど生活した新居が、「西郷南洲流謫跡」として奄美大島に残されています。実はこの新居が完成し、完成祝いをした翌日に、薩摩藩から帰還命令が出たのです。
西郷が帰還した後、愛加那は一人で子供達を養育。
子供達はその後、本土にいた西郷隆盛と「西郷糸子」の元へ引き取られました。
その後、愛加那は兄弟たちと共に奄美大島に残って生活していました。1902年9月28日に脳溢血で他界・・・享年65歳
墓地は奄美大島の「弁財天墓地」
島妻(アンゴ)とは
愛加那は、西郷隆盛の「島妻(アンゴ)」でした。
「島妻」とは、その島にいる間だけの妻のこと。
大久保利通の父「大久保利世」も、沖永良部島で仕事していた際に「島妻」を持っていましたし、子供も儲けていました。
島の人間は、「夫とともに本土へ渡ることは出来ない」という法律があったため、夫が本土に戻ったら強制的に離婚。
しかし生まれた子供は自由に島を出られたため、子供達の幸福や立身出世を考えていた島の民は、積極的に「島妻」制度を使っていたらしいです。
奄美大島は当時「黒糖地獄」と呼ばれていました。そんな地獄で子供達を生活させるより、本土に送ったほうが子供のため・・・と考えていたのでしょう。
奄美大島は「黒糖地獄」
当時、薩摩藩の財源は「さとうきび」から取れる「黒糖」に支えられていました。
薩摩は「火山灰」による土地柄で、米作に向かず。
「70万石」、つまり年間「175万俵」が薩摩の年間収入・・・のはずが、薩摩藩の実高は「30万石」ほどなので「75万俵」・・・。
しかも日本一、武士の割合が多い貧乏藩・・・。その武士にお米を「給料」として支給し、残りが「藩の収入」となるのです。
薩摩藩のお米による収入は年間6000両ほど
それに比べて砂糖の収入はその40倍、年間245000両。
そのため、生産地の奄美大島では、食べ物に困るほど、税の取り立てが厳しかったのです。「黒糖地獄」と呼ばれるほどに・・・。
「島妻」が本土へ渡れないという法律があったのは、おそらく「さとうの生産者・労働力を島外へ流出させないため」なのでしょう。
とはいえ、大河ドラマ「西郷どん」では、愛加那が「厳しい代官」を襲撃するシーンが撮影されていましたが、それは間違い。そもそも愛加那の実家「龍家」は、役人なので、さとうきびを取り締まる側だったのですから。
そもそもこの時代、農民の苗字はなく、「龍」という立派な苗字を持っていた愛加那は、それだけでかなり身分の高い人であることがわかります。
「西郷隆盛」が「奄美大島」へ流された理由
西郷隆盛が奄美大島に流されてきた理由は、「流罪」・・・ではなく、あくまでも潜伏。
大老「井伊直弼」が、「安政の大獄」によって「一橋派(一橋慶喜を次期将軍にしようとした一派)」を次々弾圧したため、西郷隆盛も「お尋ね者」になったのです。
それを逃れるため、西郷隆盛は「菊地源吾」と改名して、奄美大島に潜伏
流罪ではないので、年間「お米6石(15俵)」が薩摩藩から支給されていました。
愛加那の子孫と家系図
愛加那と西郷隆盛・・・2人の子供達や子孫がどうなったのかを解説いたします。
愛加那と子供達
愛加那と西郷隆盛の間には、2人の子がいました。
1861年、後の京都市長、長男「菊次郎」が誕生
1862年、長女「菊草」誕生。西郷隆盛の従兄弟「大山誠之助」の妻「菊草」
長男「菊次郎」は、愛加那のもとで育った後、西郷隆盛とその妻「糸子」に引き取られ、アメリカへ留学。後に台湾で行政官、京都市長などを歴任します。
菊草・・・17歳で「大山巌」の弟、当時30歳の「大山誠之助」と結婚。4人の子に恵まれます。

「家系図の引用などはご遠慮くださいませ」
ちなみに下の家系図が、西郷隆盛と日露戦争で活躍した「陸の大山」こと「大山巌」の関係を表すものです。
大山巌・・・・東郷平八郎とともに「日露戦争」を勝利に導き、敵国ロシアから、葬儀で丁重な弔いを受けた名将。

「家系図の引用などはご遠慮くださいませ」
愛加那の子孫
西郷隆盛には数多くの子孫がいますが、菊次郎の子孫「西郷隆文」さんと、その弟「西郷等」さんが、鹿児島県で、陶芸家をしておられます。
西郷隆文さんは、奈良県出身。幼い頃は京都で生活しておられましたが、その後曽祖父「西郷隆盛」の故郷「鹿児島」で活動しています。

「家系図の引用などはご遠慮くださいませ」
ちなみに西郷隆文さんの工房「日置南洲窯」の場所はコチラ
「愛加那」の子供達、その悲劇
菊次郎は、その後「西南戦争」に従軍して右足を負傷。西郷家の家人「熊吉」に命を救われ、それ以降、義足生活を余儀なくされています。
妹の「菊草」はというと、夫の借金やDVに苦しみ別居。菊草が45歳のときに、兄「菊次郎」を頼って共に生活。奄美大島を出てから一度も帰郷することなく「1909年」に「47歳」で病死
菊草の4人の子供たちは、大山誠之助の兄「大山巌」とその妻「捨松」に引き取られます。
菊草の長男・大山慶吉は、学習院へ進学。明治1907年に陸軍士官学校を卒業後、陸軍少佐になり、1942年2月27日に亡くなりました。
西郷隆盛と「糸子」の子供達について
西郷糸子の長男「寅太郎」は、陸軍大将であった父「西郷隆盛」にならってか「陸軍大佐」になっています。しかし、1919年「スペイン風邪(インフルエンザ)」で他界。
三男「酉三」は、1903年、30歳で他界。
長男「寅太郎」と三男「西三」は、母「糸子」より先に亡くなっています。
西郷糸子は、実業家の次男「牛次郎」とともに生活しています。
弟「西郷従道」の玄孫「西郷真悠子」さん
二〇一八年大河ドラマ「西郷どん」に、「西郷従道」の玄孫「西郷真悠子」さんが出演するそうです。
「西郷従道の娘」である「西郷桜子」の役をオーディションで勝ち取ったみたいですね・・・。
多少見にくいですが、西郷隆盛の家系図を以下にご用意いたしました。

「家系図の引用などはご遠慮くださいませ」
見にくくて恐れ入りますが、どうかお許しくださいませ。
先祖は、あの最強武将?
愛加那の子孫について解説しましたが、今度は「ご先祖様」について解説します。
実は愛加那さんは、「あの最強武将」の子孫を自称していたみたいです。
それは「源為朝」。「保元の乱」で平清盛と戦い、活躍した猛将です。身長2m以上の巨漢で、剛弓を使う「剛勇無双」の武将。
鎌倉幕府を開いた将軍「源頼朝」の叔父。別名「鎮西八郎為朝」と名乗り、「源義経」が八男であるにもかかわらず、叔父「為朝」に遠慮して八郎を名乗らず「九郎」を名乗ったほどの豪将。
暴れ者で手がつけられなかったため、父「源為義」に九州へ追放されたが、暴れまわり九州を支配してしまいます。
「後白河天皇」と「崇徳上皇」が争った「保元の乱」において、父「源為義」とともに「崇徳上皇」側についた「為朝」
兄「源義朝」や「平清盛」は、「後白河天皇」側について、為朝と戦いました。
その戦いで「22センチ」もある巨大な矢じりの矢を使い、敵兵を貫通したとのこと。
奮戦虚しく、源為朝は敗戦し、伊豆諸島へ流罪になります。
その後「伊豆大島」へと流罪に、そこで暴れて「伊豆諸島」を事実上の支配下に置いていたが、都から「追討軍」が出てきたため、為朝は自刃。
しかし、琉球王国の伝説では、為朝はこの時は自刃せずに琉球へ逃れて、初代琉球王「舜天」になった・・・と言われています。しかもこの歴史・・・琉球では正史・・・つまり公式な歴史書として扱われているのです。
その「源為朝」の子孫が「愛加那」たち、奄美大島の「龍」一族
本当だとしたら、源氏の末裔。由緒正しき一族ということになりますね。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・愛加那とは、西郷隆盛の二人目の妻にして「菊次郎」と「菊草」の母
・愛加那の子孫は、鹿児島日置市の陶芸家「西郷隆文」さん兄弟
・愛加那の先祖は「源為朝」だという説がある
以上となります。
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