【奥羽越列藩同盟とは】なぜ同盟軍は誕生したのか?東北戦争の悲劇

【奥羽越列藩同盟とは】なぜ同盟軍は誕生したのか?東北戦争の悲劇

江戸城無血開城が行われ、戦争は終結するかに思えましたが、新政府が次に目を向けたのが会津藩でした。

会津討伐の折、東北・北陸の諸藩によって誕生した「奥羽越列藩同盟」とはどのようなものだったのでしょうか。


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この記事を短く言うと

・奥羽越列藩同盟とは、東北地域の諸藩が会津藩を守るために協力した連合

・会津藩は長州藩に「会津戦争」で大敗。それにより軍事同盟「奥羽越列藩同盟」は瓦解

・禁門の変により、会津を恨んでいた「長州藩」により、会津は蹂躙された


《奥羽越列藩同盟とは、何なのか?』》

江戸城無血開城で将軍・徳川慶喜が蟄居させられると、新政府軍は次に佐幕派(幕府を助けようとした勢力)であった会津藩へ目をつけました。

そこで新政府軍は、仙台藩や庄内藩に会津藩の討伐を任命します。

しかし、会津藩に同情的であった仙台・庄内藩はこの命令に背き、会津藩だけでなく北陸の諸藩とともに同盟を結びました。

これが「奥羽越列藩同盟」なのです。

新政府軍に対抗するためにこの同盟に賛同したのは、東北の25藩と越後6藩でした。

鳥羽・伏見の戦いの後、会津藩主・松平容保は江戸から会津藩に戻って謹慎し、新政府に対して恭順(降伏)の姿勢を見せました。

しかし、新政府は会津藩の動きを信用しておらず、前述の通り、会津藩討伐の動きを見せました。

なんとか会津藩が生き残る許しを得ようと、周辺の諸藩は新政府へ働きかけますが、結局自分たちの考えは通らず、同盟を結成し新政府に抵抗することになったのでした。

この抵抗は会津戦争を招くことになり、鳥羽・伏見の戦いで始まった戦火は、東北・北陸地方へ舞台を移し戊辰戦争に発展していきます。

新政府軍の容赦ない猛攻の前に、会津藩が降伏したことで結末が見え、諸藩も追うように新政府軍へ恭順し、この同盟は崩壊したのでした。


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《なぜ奥羽越列藩同盟は結成されたのか?》

それでは、なぜこの同盟が結成されたのでしょうか。

当時の会津藩は「朝敵」として新政府軍に目をつけられていました。

しかし、鳥羽・伏見の戦いの後、会津藩主が謹慎し新政府に恭順する姿勢を見せたことで、奥州や羽州の諸藩は、新政府軍から会津藩に対する赦免状を得ることを目的に同盟を結びました。

つまり、当初の同盟では決して「軍事的同盟」ではなく、「朝敵というレッテルを貼られた会津藩を助けるための連合」だったのです。

しかし、この目的は新政府軍の拒否によって達成することができず、越後の諸藩も巻き込無形で新たに「奥羽越列藩同盟」が結ばれ、最終的に軍事同盟へと舵を切り出したのでした。


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《東北戦争の悲劇は、長州藩による会津藩への怨念が原因》

「奥羽越列藩同盟」が結ばれるきっかけとなった新政府軍の「会津討伐命令」は、会津藩に深い恨みを持つ長州藩の影響があったと考えられます。

禁門の変以来、幕府に味方し長州藩と衝突した会津藩は、長州藩の恨みを買いました。

その後も長州を朝敵と称し、幕府は幾度も長州征伐を行い、長州藩と会津藩の溝は広がるばかりでした。

過激な倒幕思想へと傾倒していく長州藩は、鳥羽伏見の戦いを契機に、会津討伐への道をひたすら進んでいきました。

そして、同じく倒幕の考えを持つ薩摩に働きかけ、新政府軍は会津討伐を執拗に進めたのです。

これに異を唱えた東北・越後の諸藩は奥羽越列藩同盟を結び、新政府軍に抵抗する姿勢を見せました。

これが会津戦争へとつながり、激戦となった東北でさまざまな悲劇を生み出したのでした。


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《『奥羽越列藩同盟』について、レビュー(評論)!》

奥羽越列藩同盟・・・元々は新政府に恭順を示す会津を守るための、戦火を防止するための連合体でした。

元々、奥羽越列藩同盟は新政府軍と戦う意思がなかったはずなのですが・・・。

「河井継之助」率いる「長岡藩」と、「松平容保」の「会津藩」が敗北し、奥羽越列藩同盟は瓦解。

「弘前藩」などがいち早く新政府に恭順を示すなどしていますが、それでも東北戦争は「掃討戦」の様相を見せる事となるのです。

新政府にとって、東北は「生贄」のようなものだったのかもしれません。

「徳川慶喜」という、敵の総大将・・・新政府軍が「悪の親玉」としてこき下ろした相手が、あっさりと恭順をしてしまった・・・そのため振り上げた拳のおきどころがなかったのです。

慶喜は敵の親玉として領地を没収された・・・とはいえ「駿河」の広大な領地を維持し、負けたにもかかわらず優雅な暮らしをしている・・・。

新政府の兵士からすると、既得権益を取り上げられず、怒りが収まらないでしょう。

だからこそ、その怒りの矛先として、奥羽越が犠牲にされたのかもしれません。

「阿弖流為(アテルイ)」の時代から、「奥州藤原氏」・・・そして「奥羽越列藩同盟」まで・・・東北は中央の政権によって、幾度も蹂躙されています。

現在でも、会津の方々の中には長州への強い怒りを抱く人がいるのだとか。戦火の犠牲は今も続いているのです。大東亜戦争のみならず、この犠牲もまた、決して忘れてはならないものでしょう


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《まとめ》

本日の記事をまとめますと

いかがでしたでしょうか。

奥羽越列藩同盟について見ていきましたが、今回のポイントは、

・新政府に対抗するために、東北・越後の諸藩によって結ばれた同盟であること

・当初は会津を助けるための同盟であったが、最終的に軍事同盟へと発展したこと

・会津藩に深い恨みを持つ長州藩によって東北戦争が巻き起こった

といえるでしょう。

以上となります。

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