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大山格之助(綱良)の生涯と最期!薩摩最強の男で最初の鹿児島県知事

鹿児島県の初代県知事「大山綱良(おおやま つなよし)」について、その「生涯」と「壮絶な最期」をご存知でしょうか?

薩摩藩最強の剣豪だった「大山綱良」

明治政府と「大久保利通」を批判しながら、西郷隆盛と「私学校」を密かに支援。「西南戦争」の終結直後に処刑された、「剣豪知事」の物語


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この記事を短く言うと

・大山綱良は西郷隆盛の盟友で、寺田屋事件で過激派の薩摩藩士を粛清した剣豪

・大山綱良は、薩摩藩士で、西郷隆盛や大久保利通の友人。西南戦争で密かに西郷に協力し斬首刑となった

・薬丸自顕流の達人で、薩摩藩一の剣豪だった。


大山格之助(綱良)とは何をした人?その功績とは?

大山綱良(格之助)

西郷隆盛と同じ時代を生きた薩摩藩士にして、政治家

大山綱良(格之助)
『引用元ウィキペディアより』

初代鹿児島県知事でもあった、剣豪「大山綱良」とは、何をした人物なのでしょうか?

「大山綱良」の功績

「大山綱良(格之助)」の功績を短く言うと、以下の通りです。

・寺田屋事件で、大山巌西郷従道を投降させることに成功し、有馬新七たち過激派を処断。

戊辰戦争で各地を転戦

・初代「鹿児島県知事」に就任

西南戦争で西郷隆盛を支援

「西南戦争」で西郷隆盛を陰ながら支援したわけですが、それが原因で処刑されています。



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大山綱良の生涯と、壮絶な最期

大山綱良(格之助)の生涯と最期を、ざっくりと解説いたします。

生い立ち

大山綱良

1825年、薩摩藩・鹿児島にて「樺山善助」の次男として誕生。幼名は「熊次郎」でした。

1849年、大山家の「四郎助」の婿養子となり、「大山」姓を名乗ることになります。

『精忠組』と「寺田屋事件」

大山格之助は、西郷隆盛大久保利通を中心とした、中級・下級武士の集団「精忠組」に所属

1862年、格之助は「寺田屋事件」で、心ならずも活躍することとなります。

薩摩藩主「忠義」の父で薩摩藩の実権を握っていた「島津久光」は、軍を率いて京都にのぼり、幕府に圧力をかけることで「幕政改革」を促す「率兵上京(そっぺいじょうきょう)」を強行

「率兵上京」は、幕府に対して「公武合体」を促す秘策でしたが、薩摩藩の過激派たちは島津久光の上京を「攘夷」・・・つまり「外国人を追い払うために軍を率いて上京した」と勘違い

その勘違いした過激派たちは「寺田屋」という宿に集まって、朝廷や幕府の要人を暗殺し、久光を「攘夷をするしかない」ところまで追い詰めようと画策します。

これに怒った久光は、「大山綱良」に「寺田屋に集結した過激派の処分」を命令

大山綱良は、西郷隆盛の弟「従道」や、従弟「大山巌」たちを説得して、降伏させましたが、「有馬新七」たち過激派は降伏せず・・・やむなく粛清・・・処分します。

これが「寺田屋事件」・・・坂本龍馬が幕府の役人に襲撃された事件も「寺田屋事件」と呼ばれていますが、それとは異なる事件です。

ちなみに「大山綱良」は、「薩英戦争」でも決死隊に志願し、活躍しています。



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戊辰戦争

大山格之助は、西郷隆盛や大久保利通とともに「王政復古の大号令」に参加。

王政復古の大号令は、徳川慶喜の「大政奉還」に対抗して、徳川家の領地と身分の返還である「辞官納地」を迫るもののこと。これは一種の挑発行為です。

この挑発にのってしまった旧幕臣は、薩長軍と開戦。「鳥羽伏見の戦い」が始まり、「戊辰戦争」勃発

大山綱良も、新政府軍を率いて各地を転戦。特に庄内藩と戦いましたが、連戦連敗。

とはいえ大山に軍略がなかったわけではなく、庄内藩の「軍備が非常に整っていた」ことが敗因でした。当時、新潟は「日米修好通商条約」により開港されており、さらに「イタリア」や「プロイセン」が新潟港を利用して、庄内藩に最新式の武器を輸出していたのです。

大山は、連戦連敗でしたが、戦後に新政府から賞されています。

鹿児島県知事と「西南戦争」

大山はその後、鹿児島県知事に就任。

当時、各県知事は、他県の出身者でなくてはならないと定められていましたが、大山は例外として扱われました。

大山は、鹿児島県内に身を置く、薩摩藩の国父「島津久光」の意向を受けて、新政府の中核にあった「西郷隆盛」や「大久保利通」を徹底的に批判。

1873年、「征韓論争」に敗北した西郷が鹿児島に帰郷。(明治六年の政変

すると大山は、西郷が行った「私学校設立」に協力し、西郷を援助

その頃から、大山が県知事を務める「鹿児島県」は、新政府に税を納めなくなります。

これは、「鹿児島県」がまるで「独立」しているかのように、世間からは見えていたようです。

新政府は鹿児島県の動きに警戒を強めていきます。

1877年、西南戦争が勃発



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最期

1877年、西南戦争

大山は直接的には西南戦争に関わっていませんでしたが、裏で秘密裏に西郷へ資金を提供していました。

西南戦争が鎮圧されると、大山はその罪を問われて、長崎で「斬首」されます。

享年53歳。

武闘派であった大山・・・切腹も許されない壮絶な最期でした。

墓所は、西郷隆盛と同じ「鹿児島市」の「南洲墓地」

新政府にいた西郷や大久保のことを、徹底的に批判していましたが、最期は盟友・西郷を支えた大山・・・。

やはり、若い頃からともに戦った盟友を見捨てられなかったのでしょう。



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実は剣の達人で、薩摩最強の男!しかも最初の鹿児島県知事

大山綱良、実は相当な剣の達人でした

若い頃から「薬丸自顕流」という剣術を学び、薬丸兼武という人物に師事。

薬丸の道場でも、かなりの実力者で、薩摩藩の中でも最強と噂される人物だったのです。

江戸で、直心影流「長沼笑兵衛」という人物を一瞬で撃破したり、斉藤道場の塾頭を瞬時に倒したり・・・武勇伝は数々あります。

更に、薩摩藩で「槍の達人」と言われ、後に奈良県知事となる「有村俊斎(海江田信義)」も瞬時に倒したという逸話があります。3年後に修行を積んだ有村俊斎を再び撃破したとも・・・。とはいえ、海江田信義との決闘は、後世の創作という説もあるようです。

海江田信義(有村俊斎)
『引用元ウィキペディアより』

大山綱良は、剣の腕をかわれ、久光から寺田屋事件の鎮圧を命じられ、見事にそれを成し遂げています。

その後、久光に認められた格之助は、「初代鹿児島県知事」を務め、秘密裏に西郷と協力。

大山綱良・・・武人という言葉が似合う「武闘派」でありながら、寺田屋事件では過激派の説得を試みたり、西南戦争では西郷を支援したり・・・・・情け深い一面も持ち合わせた人物だったのです。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・大山綱良とは、薩摩藩士にして初代鹿児島県知事

・寺田屋事件鎮圧や、戊辰戦争への参戦、西南戦争では西郷を支援して処刑されている

・大山綱良は、相当な剣の達人であり、有村俊斎を撃破したという伝説もある

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


西郷隆盛」「大久保利通」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

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