豊臣秀頼の最後と発見された遺体!『生存説』と『天草四郎の父親説』

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豊臣秀頼 京都市養源院蔵:Wikipediaよりパブリックドメイン

豊臣秀頼は、豊臣秀吉が57歳の時に生まれた子供で、【1615年】「大坂夏の陣」で自刃したと言われています。

私も、秀頼についてはそのくらいのことしか知りませんでした。

しかし「秀頼は大坂から落ち延び、鹿児島で生きた」といわれており、「天草四郎が秀頼の子だ」という俗説もあったのです。

この記事では、豊臣秀頼についてあまり詳しくない人に解説していきます。

これを読んで、そうだったのか、豊臣秀頼の最期、とスッキリしてくださいね。


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この記事を短く言うと

  1. 豊臣秀頼は【1615年】の「大坂夏の陣」で自刃。最期は大坂城内の「籾蔵(もみぐら)」の中で、母「淀殿」とともに亡くなった
  2. 【昭和55年(1980年)】、秀頼のものと思われる頭蓋骨が、愛馬の骨とともに発掘された。秀頼が亡くなった当時から、「秀頼は薩摩で生存している」という噂があったが、それは信ぴょう性に乏しいものと考えられている
  3. 【1637年】、「島原の乱」を起こした「天草四郎時貞」は、「豊臣秀頼の子供」だと言われていたが、それはおそらく彼を祭り上げた者たちのでっち上げだろう

豊臣秀頼の最後!籾倉(もみぐら)の中で自害していた

豊臣秀頼は、【1615年】の「大坂夏の陣」の最中、大坂城の籾倉で自害した武将です。

1593年】、秀頼は「豊臣秀吉の3男」として、大坂城で生まれました。(秀吉には秀頼の前にも、「石松丸」「鶴松」という2人の子がいたが、どちらも夭折している)

豊臣秀吉が57歳の時の子です。

待望の嫡男誕生に喜んだ秀吉は、秀頼誕生の当時、姉の産んだ子・・・・つまり甥である「豊臣秀次」を養子としており、豊臣家の家督と「関白」の位も譲っていましたが、秀次からその地位を剥奪。難癖をつけて、秀次を一族ごと惨殺したのです。

こうして、秀吉から溺愛された秀頼は【1598年】に秀吉が死んだ後、豊臣家を相続しました。


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しかし、豊臣家家臣団の中で影響力を強めていた「徳川家康」が、五奉行の一人「石田三成」と対立。

秀吉の死からわずか2年後の【1600年】、天下分け目の「関が原の戦い」が起きます。

「関ヶ原の戦い」は家康が率いた「東軍」の勝利に終わり、「西軍」を率いた「石田三成」「小西行長」「安国寺恵瓊」らは捕らえられ、処刑されました。

1603年】、家康は「征夷大将軍」に任じられ、江戸に幕府を開きます。徳川家康の主君であったはずの豊臣家は、江戸幕府の1大名としての扱いを受けることになったのです。

しかし、それでも関白家として摂家と同格の扱いを受けていた豊臣家を慕う大名・武将はまだまだ多く、当時の江戸幕府の支配は盤石なものではありませんでした。

家康は秀頼を最初は一人の大名として扱っていたのですが、豊臣家を慕う大名(特に西日本に多かったのです)の多さと、摂家と同格の扱いを受ける豊臣家を次第に脅威に感じ始めます。


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こうして、【1614年】の「方広寺鐘銘事件」(方広寺の鐘に「国家安康」と掘られていたことについて、「家康の名を分断し無礼だ」と非難した)を口実に、「大坂冬の陣」が勃発。

この「大坂冬の陣」は、豊臣・徳川両軍が「和睦」を締結するという形で終結。

その「和睦の条件」として「大坂城の堀」は埋め立てられたのですが、豊臣軍は徳川幕府との和睦条件を、忠実に実行しなかったのです。

和睦成立後も「大坂や京都で不穏な動きがある」として、情報収集していた徳川家康とその子「徳川秀忠」は、戦の準備を怠りませんでした。


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そしてついに、「大坂夏の陣」が開戦。

家康の9男・義直(尾張徳川家の始祖)の婚儀のため、家康は名古屋に入り、同日に秀忠が江戸を出立。(余談だが、義直の妻は「浅野幸長」の娘「春姫」)

家康と秀忠は京都の二条城で合流、大坂城をどう攻めるか、家臣団と軍議を開始。

一方の豊臣方も、和睦交渉にあたっていた豊臣家家臣「大野治長」が大坂城内で襲撃され、「戦はやむなし」と覚悟し、戦の準備に入ったのです。

大坂城の堀を埋められていた豊臣軍は、城の外に討って出る以外にとる戦法がなく、江戸幕府軍と奈良県や大阪府南部など各地で激突します。「木村重成」「薄田隼人」「後藤又兵衛基次」などの有力な武将が次々と討ち死にしてしまいました。

それでも、「真田信繁(幸村)」の戦いぶりで、一時は徳川家康に自害を覚悟させるほど江戸幕府軍を追い詰めたのですが、豊臣方の武将が「秀頼の馬印(金ひょうたん)」を持って大坂城に引き返してしまうという失敗を犯します。

それを見た豊臣軍は「降伏か」と動揺。家康はこの動揺を逃さず、江戸幕府軍が盛り返し、豊臣方は大坂城に引き返します。

しかし、堀を埋め立てられた大坂城では、籠城などできるはずもなく、城内に幕府軍が乱入。

辛くも脱出した秀頼の正妻・千姫(徳川秀忠の娘)が、せめて「秀頼」とその母「淀殿」の命は助けてください、と命乞いをしたのも聞き入れられず、秀頼と淀殿の運命は決まってしまったのです。

もはやこれまでと覚悟した秀頼は、大坂城の「籾蔵(もみぐら)」の中で自害。「毛利勝永」が介錯したのでした。


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秀頼生存説は本当か?実は秀頼の遺体が昭和55年に発見されていた

豊臣秀頼は、【1615年】の「大坂夏の陣」で22歳の若さで亡くなりました。

しかし当時の大坂や京都では、秀頼は「大坂夏の陣から落ち延び、真田信繁に伴われ、鹿児島に逃げてそこで生涯を閉じた」と噂されていたのです。

「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」

という童謡が歌われ、その流行は信繁の兄「真田信之」の領土である松代(長野県)まで届いていました。

豊臣家を慕う人々の気持ちがそうさせたのか、あるいは徳川方に対する反感だったのかはわかりませんが、庶民には心のどこかで「秀頼に生きていてほしかった」という願望があったのでしょう。


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当時、平戸にいたイングランドの貿易商人である「リチャード・コックス」が東インド会社にあてて「秀頼は生きており、薩摩か琉球に逃れた」と書状を送っていますから、生存説は社会に根強く広まっていたと考えられます。

また、鹿児島市には秀頼のものと伝えられる墓が残っています。

その鹿児島県の郷土史家「後藤武夫」は、秀頼は愛児「国松」と共に大坂城から脱出。九州に逃れて日出藩主の守護を受け、生き延びた・・・・と主張しました。

さらに後藤氏は、「国松」は日出藩主の養子となり、立石領初代領主「木下延由」となった・・・とも主張しています。

この説は、日出藩主の子孫である「木下俊煕」によって、【1968年】に出版されています。「秀頼と国松の死を疑った幕府が、家康の孫・松平忠直(越前松平家始祖)を密偵として調査した」と・・・。

さて、本当に豊臣秀頼は「大坂夏の陣」から落ち延び、九州でその生涯を閉じたのでしょうか?


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1980年】、大阪追手門学院の校舎建て替え工事の際、ある頭蓋骨が発見されました。

頭蓋骨が見つかったのは、豊臣政権時代の「大坂城二の丸」があった場所です。

その頭蓋骨は1メートル四方で、四角く切った穴の中に埋められていたのです。

しかも、底には貝が敷き詰められ、文字は刻まれていませんでしたが、石柱も出土しました。

さらに、副葬品と考えられる「織部焼」と「唐津焼」の陶器も発掘。かなり丁重に埋葬されたものと考えられました。

詳しく調べると、その頭蓋骨が「成人男性」のもので、歯の咬耗状態から推定年齢が「20歳〜25歳」くらい。歯の手入れが行き届く、豊かな生活環境で育ったと判明したのです。

頭蓋骨の発見場所のすぐそばからは、当時としては大きな馬1頭の骨も発掘されました。

当時の日本の馬は小柄で、将軍「徳川秀忠」の愛馬でも体高は160センチ程度だったのに対し、出土した馬は体高が170センチを超えるアラブ系の馬だと判明します。

この馬は、頭蓋骨のそばに草を敷いた穴に丁寧に埋葬されていたことから、恐らく頭蓋骨の持ち主の愛馬だと推定されました。


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頭蓋骨の持ち主は

「歯の手入れができる裕福な社会階層の出身者」
「20歳〜25歳くらい」
「体高170センチを超える大きな馬を乗りこなせる体格の持ち主」

ということになります。

当時の日本人男性の平均身長は「158センチ」程度だったそうですから、その基準から考えると、この頭蓋骨の人物は「かなり大柄な男性」だったのでしょう。

豊臣時代の大坂城に、裕福な社会階層の出身で亡くなった年齢が20代前半、しかも大柄な成人男性に該当する人物は、「豊臣秀頼」ただ1人しかいません。


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記録によれば、豊臣秀頼は「180センチを超える身長」で、かっこうも良く、大きな馬「太平楽」に乗っていたことがわかっています、

発見された頭蓋骨には、顎に介錯のときについたと考えられる刀傷がついていました。

これらのことから考えると、発見された頭蓋骨は「豊臣秀頼」のもの、ともに見つかった馬の骨は愛馬「太平楽」のものと考えて間違いないでしょう。

秀頼自刃の際、介錯をつとめたのが「真田幸村」とともに戦った猛将「毛利勝永」という記録が残っているので、もしかしたら秀頼の首を丁重に埋葬したのは、毛利家の武士かもしれませんね。

秀頼のものと断定された頭蓋骨は、現在は豊臣家ゆかりの京都市にある「清凉寺」に埋葬されています。


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島原の乱を起こした「天草四郎」は、秀頼の息子だったのか

豊臣秀頼が大坂夏の陣で亡くなってから23年後の【1637年】。

九州の島原で、江戸幕府に弾圧されていたキリスト教徒が、「島原の乱」と呼ばれる一揆を起こしました。

一揆を指導したのは「天草四郎時貞」。「関ヶ原の戦い」で処刑された武将「小西行長」の家臣「益田好次」の子だと言われています。

益田家は主君である小西家滅亡後、九州で浪人百姓をして暮らしていました。

天草四郎は長崎で学問をし、長崎滞在時に洗礼を受けてクリスチャンになったのです。

その後、四郎は父に連れられ「島原の乱」が起きる直前に島原に行きました。


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天草四郎は乱に参加したキリスト教徒や民衆に比べ、裕福な生活を送っており、長崎で学問を修めるなど、教養の深い少年だったのです。

そのため、乱に参加した小西行長の旧家臣団や民衆から、乱の首謀者として祭り上げられてしまったのでしょう。

天草四郎には「数々の奇跡を起こした」という記録が残っているのですが、それらは「乱の首謀者」として祭り上げられていく中、新約聖書の「4つの福音書」にあるイエズス・キリストが生涯に起こした奇跡をモデルにつくられた伝承だと考えられます。

廃城となった「原城」に籠城した一揆軍は、3ヶ月も籠城戦を戦い抜きましたが、幕府軍からの兵糧攻めにあい、全滅。

幕府軍は天草四郎の容貌を知らず、先に捕らえていた「天草四郎」の母親に、原城から持って帰った四郎と同じ年頃の子供たちの首を見せていきました。その中の1つの首を見た母親が、突然号泣するのを見て天草四郎が戦死したと判断。


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さて、その天草四郎には、「豊臣秀頼のご落胤」という噂がありました。

天草四郎の馬印が「ひょうたん」で、豊臣秀吉のものと同じであることから、秀頼が「大坂夏の陣」から九州に落ち延び、そこでもうけた子供だと噂されたのです。

しかし、この説は信憑性が極めて低いものでしょう。

なぜなら前節で解説したように、豊臣時代の「大坂城二の丸」遺構から、「豊臣秀頼」のものと考えられる頭蓋骨が発掘されていますから。


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おそらく「島原の乱」に参加した「小西行長」の旧家臣団が、徳川幕府に対抗するためのシンボル的な存在に「天草四郎」を仕立て上げる際に、「秀頼のご落胤」という話をでっちあげたのでしょう。

一揆に参加したキリスト教徒や民衆は、徳川幕府に不満と反感を持っています。

そうした人たちをまとめ上げるためには、皆が納得する「カリスマ性のあるリーダー」が必要ですよね。

そういう存在がなければ、一揆勢はただの「烏合の衆」。幕府軍にあっさり蹴散らされてしまうでしょう。

天草四郎を、小西行長の旧家臣「益田好次」の子よりも、豊臣秀頼のご落胤とした方が、乱をまとめ上げるためには都合が良かったはずです。

大坂夏の陣からまだ23年しか経過しておらず、豊臣家を慕う人間はまだ相当な人数が存命していたでしょうから、そんなところに「秀頼公のご落胤」が出現すれば、幕府に反感を持つ人間をあつめるのに好都合だったはず。

天草四郎は「豊臣秀頼のご落胤」ではなく、四郎を担ぎあげて島原の乱を起こした集団によって「創造されたフィクションの人物像」が、後世に伝わったのだと私は思います。


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『豊臣秀頼』について「ひとこと」言いたい!

豊臣秀頼は、おそらく豊臣秀吉の実子ではありません。

秀吉には、正妻の「北政所」だけではなく、数多くいる他の側室との間にも子供ができませんでした。

正確に書くと「長浜城主」時代、秀吉の側室に男子が生まれたのではないかと、言われています。(石松丸秀勝)。しかし、生母が誰かもはっきりせず、歴史学者の中にはその実在を疑う人もいます。

そのため、この【「ひとこと」いいたい】では、秀吉には「淀殿以外に子供を産んだ配偶者がいなかった」という前提で進めます。

秀吉は子宝に恵まれませんでした。

そればかりか、秀吉との間に子供ができなかった側室たちには、「前夫との間に子供がいた者」、あるいは「別の男性と再婚後に子供が生まれた者」もいます。

ということは、子宝に恵まれなかった原因は、「秀吉にあった」と考えるのが自然ですよね。(一説によると秀吉は、幼い頃に「おたふく風邪」にかかって生殖機能を失っていたらしい)

淀殿が妊娠した時、秀吉は朝鮮出兵のため、九州の名護屋城にいたのです。

妊娠の時期に、大坂に秀吉がいなかったことから考えると、「秀頼は秀吉の子ではない」と考えるのが妥当ではないかと思います。

さらに、淀殿の懐妊後、大坂城の女中方で問題が起こり、「武将が成敗された記録」があります。

このことから歴史学者の「磯田道史」氏は

「秀頼の出生を疑った秀吉の処置ではないか」

と指摘しているのです。


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一説によると豊臣秀吉は、織田信長の妹である「お市の方」がずっと好きだったのだと言われています。

お市の方の夫「浅井長政」が、織田信長に攻め滅ぼされた後、お市の方は「茶々(淀殿)」「初」「江」ら三人の娘たちを伴い、「柴田勝家」に嫁ぎました。

その柴田勝家を滅ぼしたのが豊臣秀吉だったのです。

お市の方とその娘たちを落城から救い出し、お市の方を今度こそ我が妻に、と秀吉が思ったのかどうかはわかりませんが、お市の方は柴田勝家とともに自刃。運命をともにしたのでした。

こうして、秀吉は「お市の方」の3人の娘を庇護。成長した長女の茶々(淀殿)を側室に迎えたのです。

ずっと恋い焦がれた人の忘れ形見「淀殿」が、他の男性と関係を持ち、子供を懐妊したとしても、秀吉は淀殿を責める気にはなれなかったのではないでしょうか。

それどころか、生まれた男子は憧れ続けた「お市の方」の孫でもあるのです。

秀吉は、秀頼が我が子ではないと知りながらも、自分がこの世で手にしたものすべてを相続させよう、と思ったのかもしれませんね。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 1615年、豊臣秀頼は「大坂夏の陣」で亡くなった。最期は「籾蔵」の中で「毛利勝永」の介錯により自刃した。
  2. 昭和55年、大坂城から「頭蓋骨」が発掘された。それは「豊臣秀頼」のものであると考えられている
  3. 1637年に起こった「島原の乱」。その首謀者である「天草四郎時貞」は、「豊臣秀頼の遺児」であると噂されたが、それはおそらく「天草四郎」を祭り上げた者たちのでっちあげ

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この記事を短くまとめると、以下のとおり

豊臣秀頼は豊臣秀吉が「57歳」の時に生まれた子供です。

「大坂夏の陣」の際、江戸幕府軍に攻め込まれ、もはやこれまでと覚悟し、大坂城の籾蔵で自刃しました。

その際の介錯は、「毛利勝永」がつとめたと言われています。

豊臣秀頼には大坂夏の陣から落ち延び、真田信繁(幸村)に伴われて鹿児島に逃げ、そこで暮らしたという民間伝承がいくつかありました。

しかし、【1980年】に追手門学院の校舎建て替え工事の時に発見された頭蓋骨が、年齢や歯の咬耗状況と副葬品、ともに発掘された大型の馬の骨から、豊臣秀頼のもの考えられたのです。

「島原の乱」の首謀者とされる「天草四郎時貞」は、九州に逃れた豊臣秀頼のご落胤、と言われていますが、これは一揆に参加した者をまとめ上げるため、小西行長の旧家臣団が天草四郎に箔付けしたのでしょう。

淀殿が秀頼を解任した時、秀吉は朝鮮出兵で九州の名護屋城にいました。

秀吉の正妻「北政所」や他の側室も子宝に恵まれなかったことから、秀頼は秀吉の実子ではないでしょう。

それでも、憧れ続けた「お市の方」の孫にあたる秀頼を実の子として迎え入れ、自分が築き上げたすべてを秀吉は与えようとしたではないでしょうか。

豊臣秀頼と淀殿自刃の地:WikipediaよりSaigen Jiroによる撮影、パブリックドメイン

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

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「豊臣秀吉の末裔・子孫は現在タレント?茶々の血を引く有名人って誰だ」の記事はコチラ
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