皆さんは「一条天皇と、藤原定子と、藤原彰子の関係」を、ご存知でしょうか?
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 一条天皇と定子そして彰子は、いとこ同士という関係で、定子と彰子は一条天皇の妻だった
- 定子の兄・伊周と、彰子の父・道長は、ライバル同士であり、権力闘争の結果は道長が勝利した
- 定子は一条天皇から寵愛されたが、後ろ盾がなかったため定子の子である敦康親王は天皇に即位できず、彰子が産んだ敦成親王が後一条天皇として即位した
この記事では「一条天皇と定子と彰子の関係」を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は「三人の関係」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、「一条天皇・定子・彰子の関係」に詳しくなれます。
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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
一条天皇・定子・彰子の関係とは?5つのポイントで解説
一条天皇と彼に関わる二人の女性、定子と彰子の関係は、日本の歴史上でも特にドラマティックなものです。
この三人の関係性を構成する重要なポイントを、わかりやすく解説していきます。
一条天皇と定子と彰子は、いとこ同士
一条天皇、定子、彰子の三者は、血縁関係にありました。
実は、三人はいとこ同士だったのです。
つまり三人の親は、兄妹関係だったということです。
- 一条天皇の母・藤原詮子
- 定子の父・藤原道隆
- 彰子の父・藤原道長
詮子・道隆・道長は、全員が藤原兼家の子供でした。
つまり三人は、血を分けた兄妹だったのです。
定子と彰子は、二人とも、一条天皇の妻となりました。
当時は一夫多妻が当たり前だったので、二人が同時に妻となることも、めずらしくありませんでした。
幼馴染で、しかも血縁関係にあったことで、彼らの間には特別な絆があったことでしょう。
定子は皇后で、彰子は中宮!
一条天皇の配偶者として、定子は皇后になりました。
彰子は中宮として、定子の後から入内します。
天皇の后つまり妻には、身分の上下があったのです。
皇后・中宮・女御など、身分に応じて、その呼び名も違ったわけです。
定子の方が、先に一条天皇に入内(結婚)したので、身分は上でした。
彰子は、あとから入内して中宮となったのです。
本来ならば、彰子は一条天皇に入内することが出来ないはずでした。
ところが彰子の父である藤原道長が、無理やり娘の彰子を、一条天皇に入内させたのでした。
彰子が台頭し、定子は没落していった
彰子の台頭は、定子の立場を脅かすものでした。
彰子は、権力者だった父・藤原道長という強い後ろ盾を持っていたため、宮廷内での彼女の影響力は急速に拡大しました。
それに対して、定子は徐々にその地位を失い、宮廷内での影響力が低下していきます。
なぜなら、定子の後ろ盾だった父・藤原道隆が病死。
その後継者となった定子の兄・藤原伊周と弟・藤原隆家は、花山法皇の袖を矢で射抜くという事件を起こし、失脚したからです。(長徳の変)
兄・伊周という後ろ盾を完全に失った定子は、一気に没落していったのです。
彰子の台頭は、定子にとって大きな転機となりました。
一条天皇から愛された定子の性格と、後継者を産んだ彰子
一条天皇にとって、定子は特別な存在で、心から愛していたといわれています。
それに対して彰子は、一条天皇との関係が、それほど良くなかったといわれています。
しかし、そんな彰子でしたが、一条天皇の皇子つまり男の子を、二人も産みました。
のちの後一条天皇と、後朱雀天皇です。
この事実は、彰子の立場を一層強固なものにしました。
定子も、一条天皇の子である敦康親王を産んでいました。
ところが、定子の子の将来は、それほど明るいものではありませんでした。
なぜなら、定子の実家は没落していたからです。
長徳の変と呼ばれる事件を起こした兄・藤原伊周と、弟・藤原隆家を、定子はなんと、かくまったといわれています。
一条天皇から愛された定子は、人から愛される性格であり、とても素敵な性格だったことがうかがえます。
女房として定子につかえていた清少納言も、定子をとても慕っていたといいます。
また、伊周と隆家をかくまったことからわかることは、自分の行動が、どのような結果を招くのかを、想像することができない、つまり危機管理能力に乏しいということだとおもいます。
おそらくですが、子供のような無邪気な性格をしていたのでしょう。(ちなみに一条天皇は猫好きだったといわれています。無邪気な性格だったのかもしれません。定子と気が合ったかもしれないです。)
没落していく定子に対して、彰子の実家は栄華を極めていました。
当時は、天皇に即位するためには、母方の実家の後ろ盾が必要不可欠だったのです。
そのため、定子の子は天皇に即位できない状況だったのです。
対して彰子の子は、彰子の父・藤原道長の絶対的な権力を後ろ盾にして、天皇に即位することが約束されていました。
定子の悲劇的な最後と、一人残された彰子
定子の生涯は、悲劇的な終わりを迎えました。
一条天皇の寵愛を受けた定子は、1001年、三人目の子供を出産すると、その直後に亡くなってしまうのです。
享年25歳。
一方、彰子は父・藤原道長の権力を後ろ盾にして、長い間、宮廷内で影響力を保持し続けました。
ところがそんな彰子も、最終的には、一条天皇に先立たれて、孤独な生活を送ることになります。
1011年、定子が亡くなってから10年後、一条天皇も崩御されます。
32歳という若さでした。
このとき彰子は24歳でした。
幼い二人の子を残された彰子は、夫に先立たれ、残される形となったのです。
ちなみに定子が産んだ三人の子は、ひとりが敦康親王です。
敦康親王については、あとで詳しく解説いたします。
残る二人は娘であり、姉の方は子供を残さず50歳過ぎまで生きました。
母が亡くなったと同時に生まれた妹はというと、残念ながら数え年9歳で、亡くなっています。
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定子と彰子の歴史的な背景とは?4つのステップで解説
定子と彰子は、日本史上でも特に興味深い人物です。
平安時代の宮廷生活の中で、彼女たちの存在は重要な役割を果たしています。
ここでは、定子と彰子の背景を、4つのステップでわかりやすく解説します。
定子が中宮になった理由
定子は、父・藤原道隆が権力を握るための手段として、一条天皇に入内し、中宮(皇后)となったのです。
定子の父・藤原道隆は、藤原道長の兄にあたります。
権力の絶頂を極めた定子の祖父・藤原兼家は、後継者として、自分の長男である藤原道隆を指名したのでした。
後継者となった道隆は、自らの権力をさらに高めるために、娘の定子を、一条天皇に入内させたのです。
もともと幼馴染で年齢も近かった二人は、とても仲が良かったようです。
こうして定子は、父・藤原道隆の権力をさらに強めるために、一条天皇の子供を産み、その子を天皇に即位させるという重大な役割を担わされたのでした。
ところがそこに強力なライバルが登場します。
藤原彰子です。
彰子が中宮になった理由
彰子が中宮となった背景には、藤原道長の政治戦略があります。
彰子は道長の娘であり、道長は彰子に一条天皇の子供を産ませようと考えました。
その子を天皇に即位させることで、その後ろ盾となって権力を独占しようとしたのです。
つまり道長は、兄・道隆が定子を入内させたのと全く同じ動機で、娘の彰子を、無理やり一条天皇に入内させたのでした。
彰子は一条天皇や定子よりも10歳近くも年齢が若く、わずか13歳で入内したのでした。
一条天皇は、彰子とそれほど良い関係ではなかったといわれています。
おそらくですが一条天皇は、寵愛していた定子とのあいだに、無理やり割って入ってこようとする彰子に対して、当初は嫌悪感を抱いていたのではないでしょうか。
ところがそんな感情も、徐々に解消されて、一条天皇は彰子とのあいだに、後一条天皇と後朱雀天皇をもうけています。
道長は、彰子を一条天皇の中宮、自らの権力をさらに拡大しようと考えていました。
彰子の地位は、父・道長の野望によって支えられていたのです。
一条天皇は、道長と伊周の権力闘争の犠牲者
一条天皇の治世は、藤原道長とそのライバル・藤原伊周との権力闘争によって大きく影響を受けました。
道長の兄・藤原道隆は、娘の定子を一条天皇に入内させて、生まれた子を次の天皇として、権力を握ろうとしました。
ところが道隆は、定子を入内させた5年後の995年、43歳という若さで亡くなってしまいます。
道隆の後を継いだのが、長男で定子の兄にあたる、藤原伊周でした。
道隆の弟・藤原道長は、娘の彰子を一条天皇に入内させ、兄と同じように権力を握ろうとしたのです。
そこで、道長と伊周は、叔父と甥という関係でありながら、それぞれが彰子と定子の後ろ盾となって、権力闘争を繰り広げたのです。
結論から言えば、道長と伊周の権力闘争は、道長の勝利で終わりました。
伊周とその弟である藤原隆家は、なんと一条天皇の前の天皇だった花山法皇に矢を射かけて、袖を打ち抜くという大事件を起こしてしまうのです。
その失敗を道長につけ込まれた伊周と隆家の兄弟は、そろって左遷されます。
こうして、定子の後ろ盾だった兄・伊周は失脚。
定子の立場も、一気に弱くなっていくのです。
定子の子である敦康親王は、一条天皇の第一皇子でありながら、母方の実家という後ろ盾を失い、天皇へ即位することが難しくなりました。
この時代、天皇の長男というだけでは、天皇に即位することが難しかったのです。
かならず母親の実家という後ろ盾が必要だったのですが、定子の実家は、権力闘争に敗北して没落してしまいました。
一条天皇自身は、この政治的な対立の犠牲者とも言える存在でした。
なぜなら一条天皇は、伊周が率いる定子の実家が失脚したことにより、寵愛していた定子とのあいだに生まれた子・敦康親王を、次の天皇にすることができなくなったからです。
一条天皇の治世は、道長と伊周の間の政治的な綱引きによって揺れ動いたのでした。
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没落した定子の子と、繁栄した彰子の子
定子の子である敦康親王は、母の没落とともに皇位継承から遠ざかり、結局、皇位につくことはありませんでした。
一方、彰子の子である後一条天皇は、母の地位の向上と藤原道長の支援によって皇位を継承。
彰子の家系は一時期、宮廷で大きな影響力を持つことになります。
藤原道長は、孫の後一条天皇の後ろ盾として、政治をほしいままに操り、自分たちにとって都合の良い政治を行うようになります。
定子と彰子の子どもたちの運命は、彼女たちの背後にある政治力の強さに左右されました。
以上の4つのステップを通じて、定子と彰子の歴史的背景を理解することができます。
彼女たちの人生は、当時の政治状況と深く関わっており、平安時代の宮廷社会の複雑さを象徴しています。
一条天皇と定子の子・敦康親王の波乱の運命!その性格を知る4つのポイント
一条天皇と定子の間に生まれた敦康親王の存在は、定子と彰子の間の複雑な関係性において、特に注目されるポイントです。
彼らの間にあった思惑や愛情、そして時には権力争いの中での行動は、一条天皇・定子・彰子の性格を理解する上で重要な要素となります。
ここでは、その4つの重要なポイントを掘り下げてみましょう。
定子の子・敦康親王を育て、心から愛した彰子の性格とは?
彰子は、定子の死後、彼女が残した子のうち唯一の皇子である敦康親王を、母代わりになって育てたといいます。
とはいえ、定子が亡くなった時、彰子はわずか13歳だったといいます。
そのため、彰子とその母で藤原道長の妻でもあった源倫子が、敦康親王を育てたのです。
その後、彰子も二人の皇子を産み、藤原道長は自分の孫を天皇に即位させようとします。
ところがなんと、これに強く反対し、敦康親王を即位させようとしたのが、他ならぬ彰子だったのです。
彼女は、定子の子・敦康親王を心から愛し、我が子を差し置いて天皇に即位させるべきだと主張したのです。
また、一条天皇も、定子とのあいだに生まれた敦康親王を、天皇に即位させたいと願っていました。
おそらく定子が敦康親王を即位させようとしたのは、最愛の夫・一条天皇が、敦康親王の即位を望んでいたことも理由の一つなのでしょう。
彰子は、とても心の優しい、そして愛情深い性格であることがわかります。
心から、夫の一条天皇を想っていたことがわかります。
定子は、敦康親王を即位させたいという夫・一条天皇の望みを、かなえたいと考えていたかもしれません。
ところがこれは、父である藤原道長によって阻まれてしまいました。
そのため彰子は、父・道長のみならず、一条天皇のことさえ恨んだといわれています。
彰子が敦康親王を育て、心から愛したという事実は、平安時代の女性たちの間の関係性が、一概に権力争いだけに基づいていなかったことを示しています。
彰子が敦康親王に対して抱いた愛情は、宮廷内の女性たちの間にも温かい人間関係が存在したことを物語っています。
彰子にとって、敦康親王は政治的な計算を超えた存在だったのでしょう。
彰子のこの行動は、宮廷内の複雑な人間関係において、人間性と深い愛情が根底にあったことを示しています。
天皇になれなかった定子の息子と、天皇になった彰子の息子
定子は敦康親王の即位を望んだものの、父・藤原道長によって阻止されてしまいました。
一条天皇も、敦康親王の即位を望んだものの、周囲からの説得によって断念しています。
なぜ断念したのかというと、一条天皇は側近である藤原行成から、このように説得されたといいます。
定子の子・敦康親王には、後ろ盾となる母親の実家がない。
ところが彰子の子供達には、彰子の父・藤原道長という絶対権力者が後ろ盾になっている。
後ろ盾のない天皇は、たとえ即位できたとしても、即座に位から引きずり下ろされるだろう。
(一条天皇の先帝である花山天皇がその良い例で、後ろ盾がなかったため、わずか2年で位を失っている)
今は藤原道長の世であるので、敦康親王を即位させたら、花山天皇のように追い落とされるどころか、政変が起きる可能性すらあるのではないか。
結局、一条天皇は定子との子である敦康親王の即位を断念しました。
そして、彰子とのあいだに生まれた敦成親王を次の天皇とするため、皇太子に指名。
敦成親王は、こうして後一条天皇として即位したのです。
一条天皇の死後、敦康親王と彰子はどうなった?
一条天皇の死後、敦康親王は芸術の道に生きたといわれています。
- 1001年、母・藤原定子がこの世を去ります。
- 1010年、伯父である藤原伊周も亡くなります。
- 1011年、父・一条天皇が崩御。
こうして次々と後ろ盾を失った敦康親王は、優秀ではあったものの、天皇に即位できず、風流の道へ生きるしかなかったのです。
彰子はというと、敦康親王を天皇に即位させなかった夫・一条天皇と父・道長を恨んでいました。
夫の一条天皇が亡くなった後、彰子の息子である後一条天皇が即位。
孫が即位し、摂政に就任した藤原道長は、その翌年には出家して政界を引退。
彰子は弟の藤原頼通と協力して、藤原一門を統率。
実質的に、父・道長のあとを引き継ぐような立場になったのかもしれません。
彰子はその後、ひ孫にあたる白河天皇の時代に、1074年、87歳で亡くなっています。
敦康親王の生涯と、その娘(定子の孫)の不思議な最期
父・一条天皇が亡くなった後、敦康親王は芸術や風流の道に没頭したといいます。
藤原道長の息子で、後継者となった藤原頼通は、敦康親王と大変仲が良かったといわれています。
ところが、1018年、敦康親王は突然の発病で、わずか20歳という若さで亡くなってしまいます。
残された一人娘の嫄子女王は、友人だった藤原頼通の養女となっています。
そして嫄子女王は、一条天皇と彰子のあいだに生まれた後朱雀天皇の中宮となり、二人の娘を産んでいます。
おそらくこの敦康親王が残した娘が、自分の息子である後一条天皇へ入内したことを、彰子は喜んだことでしょう。
そして後一条天皇と嫄子女王のあいだには、二人の娘が生まれています。
祐子内親王と、禖子内親王という娘です。
祐子内親王も禖子内親王も、子供を残さずに亡くなったので、敦康親王の子孫は断絶しています。
さて嫄子女王は、なんとも不思議な最期を遂げているのです。
なんと沐浴つまり身体を洗っている最中に、雷が鳴り響き、大雨が降り、そのままお風呂で亡くなったというのです。
当時は、源氏出身でありながら、藤原頼通の養女となって、天皇の中宮となったため、藤原氏の守り神である春日大社の怒りを買ったと噂されたようです。
定子と彰子の文化と政治への影響!2つの点で解説
平安時代の宮廷社会において、定子と彰子は単なる皇后や中宮以上の役割を果たしました。
彼女たちは政治的な舞台だけでなく、文化的な側面においても大きな影響力を持っていました。
以下で、その政治的役割と文化への影響について解説します。
政治的役割【権力闘争に利用された定子と彰子】
定子と彰子は、平安時代の政治的権力闘争の中で、重要な役割を果たしました。
定子は藤原伊周の妹として、彰子は藤原道長の娘として、それぞれが宮廷内の政治勢力と深く関わっていました。
伊周も道長も、定子と彰子を一条天皇へ入内させて、息子を産ませることが目的でした。
その生まれた子を天皇とすることで、その後ろ盾になって天皇を操り、自分にとって都合の良い政治を行おうとしたのです。
つまり、定子も彰子も、二人とも権力闘争に利用されたのです。
二人とも、重要な駒として扱われ、それぞれの思うままに生きることはできなかったのです。
実際に彰子は、義理の子である敦康親王を即位させることを望んだものの、父・道長に阻止されてしまっています。
定子と彰子は、伊周と道長のあいだで起こった権力闘争の、代理戦争をさせられたような形だったのです。
しかし彰子はおそらく、定子を憎んでいたわけではないでしょう。
定子もまた、自分よりも10歳近くも若く、幼い彰子を憎んでいたとは思えません。
立場が違っていれば、二人は、良好な関係となっていたかもしれません。
文化的役割【定子につかえた清少納言】と【彰子につかえた紫式部】
定子と彰子のもとで仕えた清少納言と紫式部は、日本文学史上でも特筆すべき人物であり、彼女たちが仕えた主君のもとで多大な文化的影響を残しました。
清少納言は『枕草子』を残しています。
紫式部は『源氏物語』を著して、平安時代の女性の生活や心情、宮廷社会の様子を色鮮やかに描き出しました。
定子と彰子の文化への影響は、彼女たちが支援した女性作家たちを通じて、日本の古典文学の発展に大きな寄与をしました。
このように、定子と彰子の文化的影響は、彼女たちに仕えた文学者たちの作品を通じて、後世に大きな足跡を残しました。
平安時代の宮廷文化の華やかさと複雑さを、今日に伝える貴重な文化遺産が、彼女たちの支援によって生み出されました。
これらの点から、定子と彰子は政治的な面だけでなく、文化的な側面においても平安時代の日本に大きな影響を与えたことがわかります。
彼女たちの生きた時代の政治と文化は、彼女たちと彼女たちが支援した人物たちによって形作られたと言えるでしょう。
余談ですが、紫式部の子孫は、その後の平家一門に引き継がれ、現在は天皇家にその血が引き継がれています。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 一条天皇と定子そして彰子は、いとこ同士という関係で、定子と彰子は一条天皇の妻だった
- 定子の兄・伊周と、彰子の父・道長は、ライバル同士であり、権力闘争の結果は道長が勝利した
- 定子は一条天皇から寵愛されたが、後ろ盾がなかったため定子の子である敦康親王は天皇に即位できず、彰子が産んだ敦成親王が後一条天皇として即位した
以上となります。
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