【河井継之助とは】新政府軍を最も苦しめた名将!その強さの秘密は港?

戊辰戦争で「薩長・新政府軍」を最も苦しめた名将「河井継之助(かわいつぎのすけ)」の、強さの秘密を、わかりやすく解説いたします。

戊辰戦争で最大の激戦となった「北越戦争」。

新政府軍が苦戦した理由は「新潟港」という国際港から、長岡藩らが最新兵器を次々輸入したからだった


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この記事を短く言うと

  1. 名将「河井継之助」と、最新兵器で武装された「長岡藩」に、新政府軍は大苦戦した
  2. 一度は陥落した「長岡城」を奪い返すという、離れ技をやってみせた河井継之助。しかしガトリング砲は役に立たなかった
  3. 継之助は、長岡から会津藩へ退却する途上で、怪我からの感染症により亡くなった

河井継之助とは?新政府軍を苦しめた名将!

《河井継之助》
「引用元ウィキペディアより」

河井継之助とは、幕末の日本・長岡藩(現在の新潟県にあった藩)の武士・家老を務めた人。

非常に勉強熱心な方で、江戸・長崎などに留学し、徹底的に勉強・修行を重ねます。

佐久間象山・・・・・勝海舟の義弟にして師でもあった洋学・軍学の第一人者。

その弟子には「吉田松陰」「坂本龍馬」「山本覚馬(新島八重の兄)」「橋本左内」などの英傑を育てあげた佐久間象山。河井継之助もまた、そんな佐久間象山の弟子の一人でした。

そんな秀才「河井継之助」は、身につけた知識を武器にして、「山県有朋」「黒田清隆」ら、後の「内閣総理大臣」達、そして西郷隆盛が「天才」を称した「山田顕義」が率いる「薩長・新政府軍」を、おおいに苦しめることとなるのです。


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落城した城を奪還した長岡藩!ガトリング砲は役立たず?

戊辰戦争最大の激戦「北越戦争」において、新政府軍は「河井継之助」率いる奥羽越列藩同盟の連合軍に苦戦します。

河井継之助は、米を転売した資金と、日米修好通商条約で開港された「新潟港」を利用。輸入した「ガトリング砲」「アームストロング砲」などの最新兵器で、次々と新政府軍を撃破します。

長岡城・・・・長岡藩の拠点です。新政府軍はその圧倒的な武力でこの城を陥落させます。しかし河井継之助らの凄まじい奮戦により、長岡城を奪還!!

長岡藩の武士たちは、新政府軍相手に、一歩も引かない戦いを繰り広げます。

しかし、河井継之助や長岡藩の戦力も無限ではありませんでした。長岡城は再び陥落。河井継之助らは「会津藩」へと退却していくのでした。

長岡藩といえば、「ガトリング砲」で有名ですよね。

当時日本に「3つ」しかなかったガトリング砲のうち「2つ」を長岡藩が持っていました。

しかしこのガトリング砲・・・あんまり役にたたなかったと言われています。

ぐるぐるハンドルを回せば次々銃撃できるガトリング砲・・・しかし銃本体・弾丸ともに重量があまりにもありすぎたため、「迎撃」しかできず、しかも敵が弊社物に身を隠せば、何もできないのです。

ドラマなどでは、河井継之助がこの「ガトリング砲」で次々敵を倒す様子が描かれていますが、実際にはそれほど役にたっておらず、長岡藩の強さを支えていたのは、長岡武士の強さと、国際貿易港「新潟港」を使って手に入れた「最新銃」の力だったのです。


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河井継之助の最期!「会津戦争」前、静かに亡くなった

河井継之助は、北越戦争で敗北した後、会津藩に向けて敗走していきます。

まだ戦意は衰えていなかったのです。しかし左膝に銃弾を受け、「破傷風」に感染した継之助に残された時間は、あまりにも乏しいものでした。

「石原莞爾」・・・昭和の時代に満州事変を引き起こした、戦前の天才的な軍人です。河井継之助の戦術を徹底的に研究したことでも有名な人物です。

それほど後世にその名を残した河井継之助でしたが、会津藩への退却の途中で静かに亡くなります。

1868年10月1日、河井継之助・死去。享年42歳。長岡から退却した約半月後のことでした。

この約三週間後「1868年10月23日」、元号が「慶応」から「明治」に改められます。

後に「明治維新」と呼ばれる「ご一新(いっしん)」・・・継之助はその「時代の転換」を見届けることなく、世を去ったのでした。


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『河井継之助』について、レビュー(評論)!

河井継之助・・・彼がもしも新政府軍に味方していたら、日本はどうなっていたでしょうか?

新政府軍は「北越戦争」で1000名を超える犠牲を出しています。戊辰戦争最大の激戦だったと言われています。

継之助がもしも、新政府軍に参加していたら、「北越戦争」での被害はかなり少なかったはず。

おそらく「戊辰戦争」はもっと早く集結していたはずです。

実は長岡藩、同じ新潟の「新発田藩」という藩が新政府軍に寝返ったことが原因で敗北したとも言われています。

新発田藩からすれば、脅されて無理やり「奥羽越列藩同盟に参加箚せられていた」と言っているのですがね。

そんなこんなで泥沼化していった「戊辰戦争」ですが、長岡藩と河井継之助が新政府軍に協力していたら、後に続く「会津戦争」の悲劇も、それほど深いものとはならなかったのかもしれません。

いや・・・・「禁門の変」で会津藩主・松平容保にやられた怨みを、長州藩が忘れるはずもないかな・・。

継之助ら長岡藩も、簡単にゆずることなどできなかったことでしょう。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 河井継之助とは、長岡藩家老にして、新政府軍を戊辰戦争で苦しめた名将
  2. 長岡藩は、新政府軍を散々苦しめた。しかしそれは「ガトリング砲」の力ではなく、最新銃と長岡武士の力
  3. 河井継之助は、明治改元の直前に、会津藩へ退却する途中、破傷風で亡くなった

以上となります。

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