幕末「戊辰戦争」、その中でも最大の激戦が「長岡藩」らの死闘「北越戦争」
長岡藩はもともと、新政府と戦うつもりなどなかったのです。にもかかわらず、どうして戦争になったのでしょうか?
実は薩長「新政府」が、長岡藩を相手に無理やり開戦したのです。
「真珠湾攻撃」を成功させた、昭和の名将「山本五十六」が目にした「長岡の戦火」「北越戦争」について、簡単に理解できるように、わかりやすく解説いたします。
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この記事を短く言うと
- 長岡藩は、当初「新政府軍」と戦うつもりはなかったが、無理やり戦争に追い込まれた
- 新潟港という国際貿易港を利用し、長岡藩は最新兵器で武装をし、しかも名将「河井継之助」がいたため強かった
- 北越戦争のとき長岡藩には、のちの連合艦隊司令長官「山本五十六(やまもといそろく)」がいた
長岡藩は元々新政府と戦うつもりはなかった
戊辰戦争において、新政府軍と激戦を繰り広げた長岡藩。
長岡藩は当初、新政府(薩長)と戦うつもりはありませんでした。
その証拠に長岡藩は、会津藩が頼んだ「奥羽越列藩同盟」への参加を拒絶しています。
「河井継之助」・・・・・「蒼龍」と呼ばれた長岡藩の家老上席・軍事総督です。
元々、長岡藩は「新政府」「幕府」どちらにもつかず、いわば「中立」のような立場をとろうとしたのですが、新政府がそれを「時間を稼ぐための嘘」と判断し、開戦。
長岡藩は、やむを得ず「奥羽越列藩同盟」に参加し、新政府軍と戦うこととなったのです。
戊辰戦争最大の苦戦!河井継之助と最新兵器
長岡藩と開戦した「新政府軍」でしたが、予想以上に苦戦。
苦戦の理由は2つありました。「河井継之助」と「最新兵器」です。
日米修好通商条約・・・・・大老「井伊直弼」がアメリカと結んだ不平等条約。その条約で、長岡藩の近く「新潟港」が開港。国際貿易港となっていたのです。
「イタリア」や「プロイセン(ドイツ)」などの西欧列強は、新潟港を利用して「長岡藩」に
「アームストロング砲」
「ガトリング砲」
「スナイドル銃」
「エンフィールド銃」
「シャープス銃」
などの最新兵器を次々と輸入。
ガトリング砲は、世間で言われているほどの効果を発揮しませんでしたが、それでも「最新式の銃」は効果絶大でした。
さらに「吉田松陰」「勝海舟」「坂本龍馬」らも学んだ軍学者「佐久間象山」の弟子「河井継之助」。彼の采配も、新政府軍を苦しめました。
記録によると、「北越戦争」での新政府軍の死傷者は「1000名超」、対して奥羽越列藩同盟の死傷者は「400名ほど」・・・
戦火に滅ぶ長岡にいた、幼き名将「山本五十六」
戦火に燃える長岡・・・この事態を、名もなき幼い男の子が眺めていました。
彼は後年、「北越戦争」の戦火に滅ぶ故郷の光景を、うっすらと覚えていると言っています。
山本五十六(やまもと いそろく)・・・・後の大日本帝国・連合艦隊司令長官。
第二次世界大戦中、「アメリカとの開戦」に最後まで反対しておきながら、「真珠湾攻撃」で対米開戦の火蓋を切った猛将。
彼は「北越戦争」での戦火を胸に刻み、故郷「長岡」の子どもたちに、こんな言葉を残したと言われています。
「私は皆さんに、戦争へ行けなどとは決して申しません。
ただただ、飽くまで勉学に励んでほしいのです。」
戦争に反対した山本五十六・・・「北越戦争」の悲劇を繰り返したくないと、考えていたのでしょう。
『長岡藩』について「ひとこと」いいたい
長岡藩と新政府軍の戦いは、甚大な被害をもたらしたと言って良いでしょう。
よく「北越戦争」をテーマとするドラマなどでは「新政府軍が無理やり開戦し、長岡藩を戦火に巻き込んだ」というストーリーが語られます。
確かにそれは間違っていないのですが、新政府にも事情がありました。
「中立」・・・戊辰戦争で「長岡藩」がとった「中立」という立場。
これは
「どちらの味方もしない」
という意味だと勘違いされがちですが、実際には
「どちらに対しても敵対する」
という宣言でもあります。
新政府からすると、長岡藩がいつ敵方についてしまうかわからず、心配だったのです。
江戸時代初期に、日本は諸外国に対して「鎖国」をしましたが、あれも一種の「中立」でした。
しかし、中立には「軍事力」と、それを下支えする「経済力」が必要なのです。
江戸時代初期の日本は、製鉄技術に裏打ちされた鉄砲生産「世界の鉄砲シェア80%」と、「黄金の国」と称されるほどの「資源大国」でした。
しかし長岡藩には、新潟港を利用した「軍事力」はあったものの、それを支える圧倒的な財力がなかったのです。
長岡藩・・・悲しいことですが、軍事力はあったものの、外交力は乏しかった気がします。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 長岡藩は、もともと新政府軍と戦うつもりなどなかった
- 新潟港を利用し、ガトリング砲などの最新兵器を輸入していた長岡藩は、非常に強かった
- 北越戦争の戦火を、後の連合艦隊司令長官「山本五十六」が記憶していた
以上となります。
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