真田幸村の生涯年表をわかりやすく解説!九度山の幽閉生活は悲惨だった

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真田信繁/真田幸村肖像:上田市立博物館所蔵品:Wikipediaよりパブリックドメイン

「真田幸村」は江戸時代に書かれた軍記物で広まった名前で、本当の名前は「真田信繁」といいますが、「幸村」という名前のほうが有名ですよね。

子供の頃、『真田十勇士』にハマった私は、真田家について書かれた本を読むまで、本名が違うと知りませんでした。

実は「信繁(幸村)」が歴史上に名を残したのは、「大阪冬の陣・夏の陣」のたった2年間の活躍によってだったのです。

この記事では、「真田信繁(幸村)」についてあまり詳しくない人に、その生涯を解説していきます。

これを読んでそうだったのか、「真田信繁(幸村)」と、スッキリしてくださいね。


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この記事を短く言うと

  1. 「真田信繁(幸村)」は【1567年】に、甲斐国の甲府で誕生。【1615年】「大坂夏の陣」で戦死した
  2. 「関ヶ原の戦い」で敗北した後の「紀伊国・九度山」での幽閉生活は、貧しく苦しいながらも、穏やかなものだったのではないか
  3. 「徳川宗英」氏が、「真田信繁は、家康が大坂に送り込んだスパイ」と主張しているが、信憑性に乏しい

真田幸村の年表!49年の生涯を一覧まとめ

「真田信繁(幸村)」は、「武田信玄」の家臣だった「真田幸隆(別名・真田幸綱)」の三男「昌幸」の次男として生まれました。

ちなみに、【1988年】に俳優の「中井貴一」さんが主演を務めたNHKの大河ドラマ『武田信玄』では、俳優「橋爪功」さんが「真田幸隆(幸綱)」を若干コミカルに演じておられます。

真田信繁(幸村)の生涯を簡単に年表にまとめると、以下の通りになります。

1567年 1歳 「真田昌幸」の次男として、甲斐・甲府で生まれる。

幼名は「弁丸」、通称は「源次郎」。

1573年 7歳 「武田信玄」が西上作戦の途中で、信濃国「駒場」で病没。
1575年 9歳 父「真田昌幸」の主君である「武田勝頼」率いる武田軍が「長篠の戦い」で織田・徳川連合軍と激突。

昌幸の長兄「真田信綱」、次兄「真田昌輝」ともに戦死。

真田家の親戚「武藤氏」の養子となっていた「真田昌幸」、兄たちが戦死したため、真田家に戻り家督を継ぐ。

昌幸、兄「信綱」「昌輝」が行っていた「上杉家の監視」という仕事を引き継ぐため、上野国「岩櫃城」に移転。

信繁(幸村)も父とともに甲府から岩櫃城に移る。

1582年 16歳 3月、真田家主君の武田家、織田・徳川連合軍に敗北、「天目山の戦い」で「武田勝頼」が自刃。武田家滅亡。

昌幸、織田家に仕える。

信繁(幸村)は関東管領となった織田四天王の一人「滝川一益」のもとに人質として厩橋城(前橋城)へ。

旧暦6月2日、「本能寺の変」勃発。「織田信長」が「明智光秀」に攻め滅ぼされる。

旧武田家領地「甲斐・信濃・上野」を巡り「徳川家康」「上杉氏」「後北条氏」で争いが起きる(天正壬午の乱)。

結果「甲斐・信濃」は家康が、「上野」は北条氏直が領有することで和睦。

和睦の証に家康の娘「督姫」が氏直に嫁す。

このとき真田昌幸の領地である上野「沼田城」が北条家へ引き渡される約束がされたが、この一件がのちに「北条征伐」のきっかけとなる。

「滝川一益」、関東から離れる際に「信繁(幸村)」を同行させ、信濃国【木曽福島城】で「信繁(幸村)」を「木曽義昌」に引き渡す。

1584年 18歳 真田家、上杉家に帰属。

信繁(幸村)、上杉家の人質として越後に移される。

1585年 19歳 真田家と「徳川家康」との戦い勃発(第一次上田合戦)。徳川軍の敗北。

冬、昌幸、「豊臣秀吉」に仕える。信繁(幸村)、豊臣秀吉の人質として越後から大坂城に移される。

信繁(幸村)、「豊臣秀頼」の馬廻衆(親衛隊)の1人となる。

1589年 23歳 豊臣秀吉により「小田原征伐(北条征伐)」の命令が下る。

ことの発端は【1582年】「沼田城引き渡し」の約束が果たされないことに怒った北条軍が、沼田の支城「名胡桃城」を攻撃したこと。

これにより、北条家は豊臣秀吉に「北条征伐」の大義名分を与えることになってしまった。

1590年 24歳 信繁(幸村)、「小田原征伐」に参陣。「石田三成」の「武州忍城攻め」に参加。豊臣秀吉の天下統一なる。
1592年 26歳 信繁(幸村)、秀吉の「朝鮮出兵」に父「昌幸」、兄「信之」と参加、肥前名護屋城に赴く。
1594年頃 28歳? 信繁(幸村)、「大谷吉継」の娘「竹林院」を正妻に迎える。

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1594年 28歳 信繁(幸村)、従五位下「左衛門佐」に任じられ、豊臣姓を賜る。
1598年 32歳 「豊臣秀吉」死去。
1600年 34歳 豊臣政権五大老の1人だった「徳川家康」、同じ五大老の「上杉景勝」に挙兵。信繁(幸村)、家康側に従軍。

石田三成、家康に対して挙兵

9月 「関ヶ原の戦い」勃発。

昌幸と信繁(幸村)は西軍に、「本多忠勝」の娘「小松殿」を正妻にしていた信之、東軍に従軍、真田家が東西に別れて戦うことに。

関ヶ原の戦いは東軍「徳川家康」が勝利。

「石田三成」「小西行長」ら処刑され、「宇喜多秀家」は八丈島に島流しされる。

昌幸と信繁(幸村)も処刑されるはずだったが、「信之」と舅「本多忠勝」の取りなしで減刑され、紀伊国「高野山」に流される。

真田家の所領は信之が相続。

12月 信繁(幸村)、父・昌幸と正妻・竹林院を伴い、高野山に流される。

のち、信繁(幸村)が妻帯していたため、女人禁制の高野山から九度山に移る。

1603年 37歳 徳川家康が「征夷大将軍」になり、江戸幕府がひらかれる。
1611年 45歳 赦されて国に戻る希望を抱いていた昌幸、果たせず病没。
1612年 46歳 信繁(幸村)、出家して「好白」と号す。
1614年 48歳 7月、「方広寺鐘銘事件」が起き、徳川家と豊臣家の関係急速に悪化。

信繁(幸村)、長男の「幸昌(真田大助)」を連れ九度山を脱出、大坂城に入城。

大阪城に入場した信繁(幸村)、大坂城の弱点を指摘、籠城ではなく討って出る戦法を進言するが聞き入れられず、豊臣方の大坂城籠城が決まる。

信繁(幸村)、最も守りの弱い部分(大坂城・南)を徳川方に悟られないため、大坂城の南に「真田丸」と呼ばれる出城・曲輪(砦)を築く。

10月、「大坂冬の陣」勃発、信繁(幸村)、勇猛果敢な戦ぶりで武名を轟かす。

1614年 48歳 12月、「大坂冬の陣」、徳川方の兵糧不足により和睦。大坂城の堀が埋め立てられ、真田丸取り壊される。

徳川家康、豊臣方の弱体化のために、信繁(幸村)の叔父「真田信尹」を使者に立て交渉しようとするが失敗。

1615年 49歳 4月、「大坂夏の陣」勃発。

5月、信繁(幸村)、堀を埋められ籠城作戦が取れない大坂城から討って出て、「道明寺の戦い」で徳川軍と激突しようとするも、濃霧で進軍が遅れ、豊臣方の武将「後藤又兵衛基次」が戦死。

信繁(幸村)、兵の士気を高めるため、豊臣秀頼の出陣を願い出るも、秀頼の母「淀殿」が拒否する。

5月7日、信繁(幸村)、「大野治長」「大野治房」「毛利勝永」「明石掃部(あかし かもん)」と作戦会議を行い、徳川軍の本陣を攻める作戦を立てたが、毛利軍が徳川軍に発砲したため、戦闘が激化し、作戦断念。

信繁(幸村)、死を覚悟し徳川家康の本陣を急襲、家康に2度も自害を覚悟させる。

「大野治長」、秀頼に出陣を促すため大坂城に戻ろうとするが、その際に秀頼の馬印を持ったままだったため、豊臣軍に退却か、という動揺を引き起こしてしまう。

家康、豊臣軍の動揺を見逃さず、全軍に進撃を命令、徳川軍が形成を逆転する。

真田軍、「越前松平家(松平忠直)」の攻撃を受け、戦死者を多数出し、撤退を始める。

それを見た毛利軍も撤退を始め、豊臣軍敗北が決定する。

信繁(幸村)、疲れて四天王寺近くの安居神社で休んでいたところを越前松平家家臣(西尾宗次)に見つかり、討ち取られる。享年49歳。

大坂城落城、豊臣家滅亡。「豊臣秀頼」は自害、介錯を「毛利勝永」がつとめる。

1616年 徳川家康、駿府城で病没。享年75歳

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幼少の頃、何度も人質として他家に預けられていた真田信繁(幸村)は、豊臣秀吉に人質として預けられたのち、秀吉の寵愛を受けるようになりました。

秀吉から寵愛を受けたことによって、徳川家康から誘われても豊臣家を裏切ろうとはせず、ひたすら秀頼に忠誠をつくしたのです。

家康は、武将としての信繁(幸村)の力量をよく知っていたので、豊臣家の弱体化を図るため、というよりも、心から家臣にほしかったのではないか、と思います。

「関ヶ原の戦い」後、「真田信之」「本多忠勝」らの取りなしによって死罪を免れた信繁(幸村)は、大坂から近い和歌山で幽閉生活を送ることになりました。


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死罪を免れた豊臣五大老の一人「宇喜多秀家」も流罪となったのですが、秀家が流されたのは絶海の孤島である「八丈島」です。

信繁(幸村)は、父・昌幸と正妻・竹林院を伴って流刑されたのですから、同じ流罪でも、ずいぶんと待遇が違いますよね。

家康は、将来的に自分を攻める危険がある人物ではあっても、信繁(幸村)を家臣としたかったので、父親や妻と引き離さず、自分の間者の目が届く畿内に流刑したのでしょう。

人質暮らしが長かった信繁(幸村)は、兄・信之に比べ、父・昌幸とともに過ごす時間は短かったと思います。

そんな父子にとって、九度山の生活は辛い流刑生活だったとはいえ、初めて父子でじっくり会話を交わせる時間だったのかもしれません。

では、そんな九度山での流刑生活はどんなものだったのでしょうか?

次節で見てみましょう。


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九度山での14年の幽閉生活は悲惨!金に困って「真田紐」を売っていた

真田信繁(幸村)と昌幸父子の九度山での幽閉生活は大変悲惨なものだった、と考えられています。

信繁(幸村)の正妻・竹林院は、金銭的に厳しい幽閉生活を支えるため、信州の上田地方に伝わる技術を応用して「真田紐」を考案しました。

真田紐は縦糸と横糸を使い、織り機で作る平たい紐のことです。

正絹や木綿を素材として使い、茶器の桐箱の紐や鎧兜の紐、帯締めなどに使われているものです。

真田昌幸・信繁(幸村)が考案した、という伝承もあるのですが、信繁(幸村)の正妻の竹林院が考案した、と考えたほうがしっくりくるような気もしますね。

経済的に厳しかった幽閉生活を支えるため、竹林院が真田紐を作り、それを家臣に行商させていたと言われています。

しかし、そもそも真田紐が真田家考案によるもの、というのは、どうやら単なる伝承に過ぎないようです。

実は真田紐の起源はもっと古く、和歌山に近い「伊賀上野」などでも作られていました。

また、九度山も織物生産地として有名な地域であったので、名産品の真田紐に箔をつけるため、真田家考案という伝承をつけ、販売の宣伝にしたのではないか、と指摘されているのです。


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では、真田昌幸と信繁(幸村)の幽閉生活は、実際どんなものだったのでしょう?

真田昌幸と信繁(幸村)の幽閉生活は、流刑と呼ぶには恵まれた状況だったようです。

信繁(幸村)は妻帯をゆるされていますし、徳川家による厳しい監視をつけられながらも、正妻・竹林院との間には幽閉生活でありながら、子供も生まれています。

また、竹林院は信繁(幸村)の側室の子たちを九度山に引き取り、一緒に暮らしていました。

それだけではなく、流刑された幽閉生活でありながら、家臣もつけてもらえ、さらに、昌幸と信繁(幸村)の屋敷を別々に建てることもゆるされているのです。

親子2人の屋敷だけではなく、家臣の屋敷をすぐ近くに建てることまで許されています。


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とはいえ、流刑による幽閉生活は経済的には厳しかったようで、昌幸が国元の長男・信之に「金を送ってほしい」とうったえる書状を送っています。

しかし、これは昌幸が生活レベルを下げることができなかったために、経済的に厳しかったのかもしれません。

大名として暮らしていた昌幸にとって、流人としての幽閉生活は、お金も自由に使うことが許されない、過酷なものだったことでしょう。

過酷な生活は、徐々に昌幸の気力と体力を奪っていき、晩年は病気がちになっていきます。

流刑によるものとはいえ、父子の水入らずの時間は、1611年の昌幸の死によって終わりを告げました。

経済的には厳しかったかもしれませんが、昌幸にとっても、信繁(幸村)と竹林院の間に生まれた子(昌幸にとっては孫)と交流したりすることで、一家水入らずの穏やかな時間を過ごしたのではないでしょうか。

子供の頃から人質生活を送り、親と離れて暮らした信繁(幸村)にとっては、父を間近に感じられる、初めての親子水入らずの生活だったかもしれませんね。


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しかし昌幸の葬儀を行うことは、幕府により許可されることはありませんでした。

父・昌幸は徳川家康に恐れられるほどの名将でしたが、死後も徳川家にゆるされなかったのです。

信繁(幸村)が後年、家康からの懐柔説得に応じなかったのは、豊臣家に忠誠を誓うとともに、父の葬儀を行うことを赦さなかった家康に恭順するのを拒んだからかもしれません。

しかし近年、信繁(幸村)は家康が大坂城に送り込んだスパイだったという説が提唱されています。

次節で、信繁(幸村)スパイ説について、解説しますね。


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異説!真田幸村は、徳川家康が大坂城へおくりこんだスパイだった

真田信繁(幸村)が、実は徳川家康によってスパイとなり、大坂城に送り込まれたという説が提唱されています。

この説を唱えたのは、田安徳川家の子孫で現当主の「徳川宗英」氏で、『徳川家が見た「真田丸」の真実』という書籍をPHP新書で発表しました。

宗英氏が信繁(幸村)を、徳川家康によってスパイだったと考えた論拠は、以下のようなものです。

⦁ 宇喜多秀家は八丈島に遠島になったのに、真田父子は大坂から近い和歌山に流刑されているのがおかしい
⦁ 真田家はもともと情報収集に長けた一族で、家康がその能力を利用しようとした
⦁ 和歌山の九度山での流刑・幽閉生活の待遇が良すぎる
⦁ 信繁(幸村)の娘が「石川光吉(別名・石川貞清)」に嫁ぎ、「石川光吉」の兄弟の元妻が家康に見初められ、側室となっていて、縁戚関係があるとも言える

石川光吉とは、大坂の陣で信繁(幸村)が亡くなった際、その妻「竹林院」を京都に引き取り、余生の面倒をみたという元「尾張犬山城主」。


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さて、信繁(幸村)は本当に家康のスパイとして、大坂城に入ったのでしょうか?

豊臣家の重臣である「大野治長」は、和歌山の九度山を脱出して大坂城に入城した真田信繁(幸村)を「徳川の間者ではないか」と疑っていました。

しかし、徳川氏の論拠を1つずつ見ていくと「真田信繁スパイ説」は、残念ながら推論に過ぎないと思います。

真田家が情報収集に長けていたのは、事実であったようです。それは昌幸の前の代から続いていたお家芸でもありました。


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では、豊臣五大老の一人であり「関ヶ原の戦い」で敗れた『宇喜多秀家』に比べて流刑の扱いが寛容すぎる、というのはどうでしょうか。

宇喜多秀家は確かに遠島になりましたが、八丈島での暮らしは厳しくて不自由ではあっても、一方で楽しいものでもあったようです。

1616年】の家康死後、流刑が解かれ、大名への復帰を促されても「宇喜多秀家」はその申し出を断り、八丈島で暮らすことを選びました。

島民たちから高貴の出であると慕われ、不自由しないように厚遇された「宇喜多秀家」は、八丈島で領主の宴会にも招かれ、流刑から50年以上、八丈島で暮らしたのです。

昌幸と信繁(幸村)父子は、九度山で別々に屋敷を建てることを許可されただけではなく、家臣の屋敷をそばに建てることを許されています。


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しかし、八丈島に遠島になった「宇喜多秀家」に比べて「厚遇された」、と言えるでしょうか?

流刑を許されても八丈島に残ることを選んだのは、そこでの生活が本人にとって厳しくても楽しいものだったからでしょう。

ですから、【真田親子の流刑が宇喜多秀家より厚遇されている】とは言えないのではないかと思います。

また、「大坂」に近い「和歌山」に流刑したのは、家康が昌幸と信繁(幸村)の動向を逐一監視、報告させやすかったからだとも考えられるのです。

それだけ、真田父子を危険視していたのではないでしょうか。

信繁(幸村)が娘を介して家康と関係があったとしても、実際の姻戚関係ではありませんし、関係性としては薄いものです。

信繁(幸村)が家康のスパイだったという説は、史料によって関係性が証明されているわけではありませんから、あくまでも「面白い説」として捉えておいたほうが良いでしょう。


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『真田幸村』について「ひとこと」言いたい!

東京大学の「山本博文」教授は、「真田信繁(幸村)」が長男で、「真田信之」が次男だったのではないか、と主張しています。

徳川家康を追い詰めた「信繁(幸村)」が長男だと、徳川幕府にとって都合が良くないだろう、という理由で、真田家が2人の出生順を入れ替えたのではないか、というのです。

さらに、山本教授は、2人の幼名に着目しました。

信之は「源三郎」、信繁(幸村)は「源次郎」なのです。

出生順から考えれば、長男のほうが若い数字、次男がその次の数字、となるはずだから、2人の出生順は逆なのではないか、と考えたのですね。

信之は生年がわかっていますが、信繁(幸村)は生年が実は定かになっておらず、【1567年】とも【1570年】とも言われているのです。


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しかし、ここで彼らの父「真田昌幸」の幼名を見てみましょう。

昌幸は真田幸隆の3男ですが、幼名は「源五郎」と言いました。

3男であれば「源三郎」となりそうですよね。

ちなみに、昌幸の長兄「真田信綱」の幼名は「源太」、次兄「真田昌輝」の幼名は「徳次郎」、昌幸の弟「真田信尹」の幼名は「源次郎」と言います。

次男だから次郎になっているのは、昌輝1人だけですね。

こうして見ると、真田家の幼名は生まれた順に太郎、次郎、三郎・・・となっていないことがわかります。


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信之は「源三郎」、信繁(幸村)は「源次郎」だから2人の出生順が違うのではないか、というのは、父「昌幸」の兄弟の幼名を見ると、そう考えるのは性急ではないかと思われます。

信之は幼少時、武田家に人質として出されていた時期があり、元服した際に武田信玄の「信」の字を1字もらって信幸と名乗った、と言われています。

一方、信繁は年表を見るとわかるように、各家に人質として差し出され、転々と居場所を変えていますよね。

大切な跡取り息子である長男に、こんなに転々と移動する人質生活を送らせるものでしょうか。

私はやはり、「信之」が兄で「信繁(幸村)」が弟だったのだろう、と思います。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 「真田信繁(真田幸村)」・・・1567~1615年。享年49歳。「大坂夏の陣」で徳川家康の孫「松平忠直」の家臣「西尾宗次」に討ち取られて戦死した
  2. 「真田信繁(幸村)」と父「真田昌幸」の「九度山」での生活は、とても困窮したものだった。しかし、穏やかで平和な時間だったと考えられる
  3. 「真田信繁(幸村)」は徳川家康が大坂城に送り込んだスパイだった・・・・という面白い説が唱えられている

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この記事を短くまとめると、以下の通り

真田信繁(幸村)は【1567年】に生まれ、幼少時人質生活を送りながら、豊臣秀吉の人質となったあと、武将としての頭角を現し始めました。

関ヶ原の戦いで真田家は「父と弟」が「西軍(石田三成軍)」、「兄」が「東軍(徳川軍)」と別れて戦うことになったのです。

負けた西軍側の昌幸、信繁(幸村)は処刑されるはずでしたが、「和歌山」への流刑となりました。

1611年】に昌幸が亡くなった時、徳川家康に葬儀を行うことを許されず、信繁(幸村)の心には家康に対する恨みをつのらせたことでしょう。

1614年】、豊臣家と徳川家の関係が悪化し、「大坂冬の陣」、「大坂夏の陣」が勃発。

信繁(幸村)は、大坂城の外に討って出て、徳川家康の本陣を脅かし、家康に自害の覚悟をさせるところまで追い詰めましたが、豊臣軍武将のミスで軍が総崩れになってしまいました。

信繁(幸村)は、四天王寺近くの「安居神社」で討ち取られたと伝えられています。

そして、豊臣家は滅亡したのです。

その翌年【1616年】、「徳川家康」も亡くなりました。

『大坂軍記之内』歌川豊宣:Wikipediaよりパブリックドメイン

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

「【真田幸村】最後の地『安居神社』はどこ?最後の戦いは超壮絶だった」の記事はコチラ

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