巧みな戦術で平家を滅ぼした名将・源義経の性格を、わかりやすく解説いたします。
悲劇の名将として人気のイケメン武将・源義経。
しかしその実態は、性悪だった?
義経・・・・兄・頼朝を慕う健気な悲運の武将と言われているが・・・。
実はかなり野心的で、性格が悪い人物だった
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この記事を短く言うと
源義経の性格は最悪!兄・頼朝をバカにしていた
兄・頼朝を慕う健気な美男子にして、悲劇の名将・源義経(みなもとのよしつね)
しかしその性格は、どうやらかなり野心的だったようです。
歴史書・平家物語には、野心的な義経の発言が残されています。
「命がけで平家を倒したのだから、関東は当然ながら私のものだ。
西国ももらえると思っていた」
こんなに頑張っているのに、兄上はなぜ喜んでくれないのか?・・・・
義経は、こんな健気なことを思う弟ではなかったようです。
のちに鎌倉幕府を開き、明治維新までの700年にわたる武士による政権の基礎を作り上げた大政治家・源頼朝。
脳機能学者の中野信子さんは、義経についてこんなことを言っています。
「戦術の天才であった義経は、武将として戦いの才能に乏しい兄・頼朝をバカにしていたと思う」
さらに、歴史学者の磯田道史さんも、同じようなことを言っています。
「私も義経は頼朝をバカにしていたと思う。
義経は、全くと言っていいほど、頼朝に対して『報告・連絡・相談』がない。」
源義経は、主君であり兄である頼朝に対して無断で、当時の最高権威だった後白河法皇(ごしらかわほうおう)から官位をもらっています。
頼朝の、いわばライバルでもある後白河法皇から、義経は官位を無断でもらったのです。
つまりわかりやすく言えば義経は、頼朝のライバルである後白河法皇の部下となったのです。
こんなことをすれば、義経は頼朝に怒られることがわかっていたはず。
にもかかわらず、無断で官位をもらったということは、やはり義経は頼朝を軽く見ていたのでしょう。
「兄を慕い、兄のために尽くし、兄に殺害された悲劇の武将」
義経に対して、現代人がもっているこれらのイメージは、どうやら現実とはかなり違っているようです。
「兄を軽蔑し、兄と対立し、兄を殺害しようとした野心家」
権力欲にまみれた武将。それが源義経だったのです。
義経は兄・頼朝を倒して、自分が権力者になろうした!
義経と頼朝は、平家という共通の敵が壇ノ浦の戦いで滅びた後は、互いに憎み合い、争うようになります。
2人は全く違うものを目指していたのです。
源義経は平清盛のように、朝廷という政府のなかで重職を、自分の身内で独占しようとしていました。
つまり平清盛のマネをして、平氏政権のような栄華を極めようとしたわけです。
対して、源頼朝は違う政権構想を抱いていました。
武家政権(ぶけせいけん)
つまり頼朝は、天皇や上皇、そして公家による支配を受けない「武士の、武士による、武士のための政権(鎌倉幕府)」をつくろうとしたのです。
後白河法皇から、【源頼朝を倒せ】という命令をもらった義経でしたが・・・。
しかし、そんな義経についてくる人は誰もいませんでした。
なぜなら義経について行っても、なんの利益もないだろうと考えられていたからです。
頼朝は、反対に朝廷から【源義経を倒せ】という命令をもらい、逃亡する義経を追跡。
この頼朝には、たくさんの武士たちがついていきます。
なぜなら、武士の棟梁(ボス)として関東に君臨して支配していた頼朝についていけば、褒美として土地をもらえると考えられるからです。
武士たちを引きつけるリーダーとしての能力に乏しい源義経。
義経は、戦争はとても上手でしたが、政治は全くできない人だったのです。
無残なる最期!藤原泰衡からも見捨てられた
頼朝から追跡された義経は、東北地方・・・奥州の藤原秀衡のもとへ逃げます。
秀衡は義経のことを高く評価していました。
秀衡は義経を、戦争が上手で、とても戦争が強い武将だと思っていました。
そして近い将来・源頼朝が、奥州へ攻め込んでくることもわかっていたのです。
そのため秀衡は、息子の藤原泰衡に対して、こんな遺言を残しています。
「源義経を大将軍に任命して、源頼朝と戦え」
しかし、藤原秀衡が亡くなったのち、泰衡はあっさりと義経を殺害しています。
頼朝から「義経をかくまっていること」について脅された藤原泰衡は、脅しに屈して義経の首を頼朝に差し出しているのです。
衣川の戦い(ころもがわのたたかい)
義経が亡くなった戦いの名前です。
わずか数十人しかいなかった義経は、泰衡の軍団に攻められて、あっけなく敗北。
この戦いで、義経は22歳の妻・郷御前と、まだ4歳の娘を殺害した後に、みずからも自害。
享年31歳。
名将・源義経の最期は、かなりあっけないものでした。
義経を殺害した藤原泰衡は、その後「義経をかくまっていた罪」を口実にして、源頼朝がひきいる27万の大軍団により攻め滅ぼされます。
義経は泰衡から、かなりあっけなく見捨てられています・・・。
若い頃からともに平泉で生活していた義経と泰衡・・・。
泰衡は、義経に対して、何か思うところでもあったのでしょうか?
あまりにもあっさり義経を裏切っている泰衡・・。
あくまでも想像でしかないですが、もしかしたら泰衡は、野心的だった義経を、嫌っていたのではないでしょうか。
秀衡から、【義経を総大将にして頼朝と戦え】と遺言された泰衡ですが、あっさり義経を討ち果たしたということは、泰衡は少なくとも
「義経を総大将にしても、頼朝には勝てない」
と考えていたということでしょう。
後世の我々からすれば
「義経を総大将にすれば頼朝に勝てたのに。泰衡は何をやっているんだ」
と思いたくなるところですが、泰衡から見れば、義経の実力はその程度だったのかもしれません。
源義経についてひとこと言いたい!
とにかく戦争が強い源義経
この義経にそっくりな人物が、古代中国に存在していました。
項羽(こうう)
みずから覇王(はおう)を名乗り、生涯70以上の戦い全てに勝利し、軍神と呼ばれた猛将です。
項羽も義経と似た境遇なのです。
源氏(げんじ)という名門一族の出身で、源氏のボス・源義朝を父に持つ義経。
項羽もまた、項燕(こうえん)という名将を祖父に持つ名門の生まれでした。
項羽の祖父・項燕は、秦の始皇帝の部下・李信や蒙恬を撃破したものの、名将・王翦に負けて戦死しました。
- 項羽は没落して、各地を転々と逃げ回る日々をおくります。
- 義経も、父・義朝を平清盛に殺害されて没落し、鞍馬寺で幽閉生活を送っています。
名門出身でありながら、没落した項羽と源義経。
戦いをやらせたら、無敵の強さを誇った項羽ですが、義経と同じく、まったく政治力がありませんでした。
味方を集めることができず、次から次へと敵が増え続け、最終的には戦争がめちゃくちゃ弱いことで有名だったライバルの劉邦(りゅうほう)に負けて戦死してしまいます。
いくらケンカが強くても
- 戦争を終らせる能力
- 味方を引き止める能力
つまり政治力・調整能力・交渉力・外交力がないことには、戦争を終わらせて天下を支配することはできないのです。
言いかえれば、戦争が弱くても、政治力や外交力が優れていれば、逆転することは十分に可能なのです。
義経に敗北した猛将・木曽義仲(きそ よしなか)も、戦争は強いものの、政治力・外交力がゼロ。
そのためあっけなく滅びています。
それに対して、項羽を倒した劉邦は、何度敗北しても立ち直って戦いを継続できています。
そして義経の兄・頼朝も、挙兵直後の石橋山の戦いで惨敗。
ところがその数ヶ月後には、数万の大軍団を率いて鎌倉へと戻ってきています。
このように、政治力・交渉力さえあれば、いくら敗北しても復活できるのです。
義経のそばに、もしも政治力をもつ家来が一人でもいたら、もしかすると頼朝を倒して、義経政権が京都に誕生していたかもしれません
ちなみに、源義経を【戦上手・戦いの天才】と呼ぶ声も、あるにはありますが、どうやらその評価も、眉唾もののようです。
- 「孫子の盲点」
- 「信玄の戦争」
などの著書を出版されておられる日本経済大学の海上知明(うながみ ともあき)先生が、源義経の強さを酷評しておられるのです。
どうやら六韜(りくとう)という古代の兵法書に記されている戦い方に照らし合わせてみると、義経の戦い方は、決して上手ではないのだとか。
海上知明先生は、後世の名将・上杉謙信を高く評価しておられますが、源義経は、謙信とは比べ物にならないと言っています。
- 「源義経と上杉謙信公を比べるなんて、謙信公に失礼だ」
- 「源義経は愚かな将である」
- 「ナポレオンのイギリス侵攻を阻止した名将・ネルソン提督が源義経の戦い方を見たら、『何やってんだコイツ』と言うだろう」
とまでおっしゃっておられました。
では、なぜ源義経は勝利できたのか?
理由は簡単です。
当時、後白河法皇が平家に対して、源氏と講和するようにと命令を出していたのです。
義経は、武装解除した平家を急襲したのです。
つまりは、完全なる騙し討ち。
それが義経大勝利の勝因なのだとか。
実は、義経にはこういった、ルール違反というか卑怯というか、そういうエピソードがたくさんあります。
- 一の谷の戦いにおいて、義経は味方を出し抜いて抜け駆けし、味方が手柄をたてるチャンスを奪い取った
- 屋島の戦いにおいて、平家がかかげた扇の的を那須与一(なすのよいち)が矢で射抜いた際に、一人の平家武者が那須与一をたたえて踊ったところ、義経はなぜかその武者を射殺し、平家を激怒させた。この仕打ちに、味方の軍も「そこまでしなくても」とドン引きした
- 壇ノ浦の戦いでは、当時としてはマナー違反とされていた【非戦闘員だった船の操舵手を弓で狙い撃ちにする】ということをやっていた
源頼朝の側近・梶原景時が、源義経を酷評していますが、梶原景時(かじわら かげとき)の意見は、まともだったということなのでしょう。
源義経の最期については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 源義経は、「兄・頼朝を慕い、兄のために必死に尽くしながらも、最期は兄に裏切られて殺害された悲劇の名将」ではなく、かなり野心的な人物だった
- 義経は、兄「源頼朝」と違い、京都に「平清盛」のような「政権」を誕生させて、栄華を極めようとしていた。
- 最期は藤原泰衡に裏切られて殺害された。もしかすると、義経は泰衡に嫌われていたのかもしれない。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
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コメント
コメント一覧 (6件)
非常に洞察が浅いです。
幼少期から彼の生き方を見てると平家嫌いになる理由もわかるし後白河と切っても切れない関係だったのがわかります。
また、頼朝を馬鹿にしてきたというのは全然違います。腰越まで行って懇願しても入れなかった事実は何を物語るかよく考えて下さい。
その自称科学者の一方的な見方なのでまとめとしてのせるのは本人が生きてたらまさに名誉棄損だと思います。
この度は当サイトをご利用いただき、誠にありがとうございました。
また、貴重なご意見・ご感想をいただきましたことにも、深く御礼を申し上げます。
もしよろしければ、またぜひ当サイトへお越しいただきく存じます。
何卒、よろしくお願いいたします。
ありがとうございました。
[…] 『源義経の性格は最悪だった!悲惨で無残な最期は【性格】が原因?』の記事はコチラ […]
「源義経 野心」のキーワードで検索してたらこのサイトを見つけました。
ウィキペディアも見ましたが、義経は、あまり人望がなかったようですね。
劉邦に疑われて殺された漢帝国の大功労者韓信と同じく、あまりにも政治的な兄によって追い詰められた悲劇の武将だとばかり思ってましたが、そうではないんですね。
今やってる大河ドラマ(鎌倉殿の13人)における菅田義経は、結構実像に近そうな感じがしますね。
天才で若くして史上に稀なる大成功を収めたら、奢り高ぶるのも当然であって、抑制が効かなくなるのも無理はないでしょうね。
よく、頼朝は身内を大切にしなかった、清盛のように身内を大切にしていたら北条氏に政権を奪われずに源氏の政権が続いた、という意見を見ますが、頼朝が大切にしたのは端から身内より坂東武者(関東武士団)で、清盛のように身内を大切にしていたら坂東武者に反感を持たれて北条氏云々以前に失脚していたというのが正しいと思います。
あれだけ石橋山で大敗した敗軍の将が房総半島を北上しただけで大した戦勝もないのに多勢の坂東武者が帰参したのは、平家の身内びいきへの反感が大きく、また、身内びいきは命取りというのを頼朝も実感していたと思います。
本記事のおっしゃるとおりで、坂東武者の利益を最優先した頼朝が慕われ、自分の旧体制での栄達を最優先した義経に人望がなかったのは、当時の坂東の力関係・人間関係を見れば当然の帰結と思います
この度は当サイトへお越しくださいましてありがとうございます。
また、貴重なコメントを頂きましたことも感謝申し上げます。
おっしゃることごもっともかと思います。
なんの権力地盤も持たない頼朝が、宿敵である平家を倒し、一気に天下へ賭け上がれたのは、まさに坂東武者という圧倒的な武力をもつ集団から支持されていたからだと思います。
頼朝や自分たちの権力基盤が弱いものだと理解できなかった義経は、残念ながら当時の武士たちの支持を得られなくて当然だったのだと思います。
もしよろしければ、また当サイトへお越しくださいましたら嬉しく存じます。
ありがとうございました。
失礼致します。