源義経の性格は最悪だった!悲惨で無残な最期は【性格】が原因?

巧みな戦術で「平家」を滅ぼした名将「源義経」の性格を、わかりやすく解説いたします。

悲劇の名将として人気のイケメン武将「源義経」。

しかしその実態は、「性悪」だった?

義経・・・・兄「頼朝」を慕う「健気な武将」と言われているが・・・。

実はかなり「野心的」で「性格が悪い人物」だった


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この記事を短く言うと

  1. 源義経は、兄「源頼朝」を慕い、兄に気に入られたい一心で平家を倒した・・・という健気な人物ではなく、かなり野心的な人で、兄『頼朝』をバカにしていた
  2. 義経は、頼朝とは違った野望を抱いていた。兄「頼朝」は、「鎌倉幕府」を開こうとしていたが、義経は「平清盛」のように、「朝廷」の役職を独占して栄華を極めようとしていた
  3. 義経は、藤原泰衡から裏切られ、あっけなく亡くなった。もしかしたら泰衡は、義経を嫌っていたのではないか?

「源義経」の性格は最悪!兄「頼朝」をバカにしていた

兄「頼朝」を慕う健気な美男子にして、悲劇の名将「源義経(みなもとのよしつね)」。

《源義経》
「引用元ウィキペディアより」

しかしその性格は、どうやらかなり「野心的」だったようです。

「平家物語」には、野心的な義経の発言が残されています。

「命がけで平家を倒したのだから、関東は当然ながら私のものだ。

西国ももらえると思っていた」

こんなに頑張っているのに、兄上はなぜ喜んでくれないのか?・・・・

義経は、こんな健気なことを思う弟ではなかったようです。


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のちに「鎌倉幕府」を開き、明治維新までの「700年にわたる武士による政権」の基礎を作り上げた大政治家「源頼朝」。

《源頼朝》
「引用元ウィキペディアより」

脳機能学者の「中野信子」さんは、義経についてこんなことを言っています。

「戦術の天才であった義経は、武将として戦いの才能に乏しい兄・頼朝をバカにしていたと思う」

さらに、歴史学者の「磯田道史」さんも、同じようなことを言っています。

「私も義経は頼朝をバカにしていたと思う。

義経は、全くと言っていいほど、頼朝に対して『報告・連絡・相談』がない。」

源義経は、主君であり兄である『頼朝』に対して無断で、後白河法皇から「官位」をもらっています。

《後白河法皇》
「引用元ウィキペディアより」

頼朝の、いわばライバルでもある「後白河法皇」から、官位を無断でもらう・・・。

こんなことをすれば、義経は頼朝に怒られることがわかっていたはず。

にもかかわらず、無断で官位をもらったということは、やはり義経は頼朝を軽く見ていたのでしょう。

「兄を慕い、兄のために尽くし、兄に殺害された悲劇の武将」

義経に対して、現代人がもっているこれらのイメージは、どうやら現実とはかなり違っているようです。

「兄を軽蔑し、兄と対立し、兄を殺害しようとした野心家」

権力欲にまみれた武将。それが源義経だったのです。


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「義経」は兄「頼朝」を倒して、自分が権力者になろうした!

義経と頼朝は、「平家」という共通の敵が「壇ノ浦の戦い」で滅びた後は、互いに憎み合い、争うようになります。

2人は全く違うものを目指していたのです。

源義経は「平清盛」のように、「朝廷」という政府のなかで重職を、自分の身内で独占しようとしていました。

つまり「平清盛」のマネをして「平氏政権」のような「栄華を極めよう」としたわけです。

対して、「源頼朝」は違う政権構想を抱いていました。

「武家政権」・・・・天皇や上皇、そして公家による支配を受けない、「武士の、武士による、武士のための政権(鎌倉幕府)」をつくろうとしたのです。

後白河法皇から、「頼朝を倒せ」という命令をもらった義経・・・。

しかし、そんな義経についてくる人は誰もいませんでした。

なぜなら義経について行っても、なんの利益もないだろうと考えられていたからです。

頼朝は、反対に「朝廷」から「義経を倒せ」という命令をもらい、逃亡する義経を追跡。

この頼朝には、たくさんの武士たちがついていきます。

なぜなら、「武士の棟梁」として関東に君臨して支配していた頼朝についていけば、褒美として「土地」をもらえると考えられるからです。

「武士」たちを引きつける「リーダー」としての能力に乏しい「源義経」。

義経は、「戦争」はとても上手でしたが、「政治」は全くできない人だったのです。


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無残なる最期!藤原泰衡からも見捨てられた

頼朝から追跡された義経は、東北地方・・・奥州の「藤原秀衡」のもとへ逃げます。

秀衡は、義経の「強さ」がわかっていました。

そして近い将来「源頼朝」が、奥州へ攻め込んでくることもわかっていたのです。

そのため秀衡は、息子の「藤原泰衡」に対して、こんな遺言を残しています。

「源義経を大将軍に任命して、源頼朝と戦え」

しかし、藤原秀衡が亡くなったのち、泰衡はあっさりと義経を殺害しています。

頼朝から「義経をかくまっている」ことについて脅された藤原泰衡は、脅しに屈して義経の首を頼朝に差し出しているのです。


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「衣川の戦い」

義経が亡くなった戦いです。

わずか数十人しかいなかった義経は、泰衡の軍団に攻められて、あっけなく敗北。

この戦いで、義経は22歳の妻「郷御前」と、まだ4歳の娘を殺害した後に、みずからも自害。

享年31歳。

名将「源義経」の最期は、かなりあっけないものでした。

義経を殺害した藤原泰衡は、その後「義経をかくまっていた罪」を口実にして、源頼朝がひきいる「27万」の大軍団により攻め滅ぼされます。

義経は泰衡から、かなりあっけなく見捨てられています・・・。

若い頃からともに「平泉」で生活していた「義経」と「泰衡」・・・。

泰衡は、義経に対して、何か思うところでもあったのでしょうか?

あまりにもあっさり義経を裏切っている泰衡・・。

あくまでも想像でしかないですが、もしかしたら「野心的」だった義経を、嫌っていたのではないでしょうか。


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『源義経』について「ひとこと」言いたい!

源義経・・・・・この「義経」にそっくりな人物が、古代中国に存在していました。

「項羽(こうう)」

みずから「覇王」を名乗り、生涯70以上の戦い全てに勝利し、「軍神」と呼ばれた猛将です。

項羽も「義経」と似た境遇なのです。

「源義朝」という名門出身の「義経」。

項羽も「項燕」という名将を祖父に持つ、名門の生まれでした。

「項羽」の祖父「項燕」は、「秦の始皇帝」の部下である猛将「李信」や「蒙恬」を撃破したものの、名将「王翦」に負けて戦死。

項羽は没落して、各地を転々と逃げ回る日々をおくります。

父「義朝」を平清盛に殺害され、鞍馬寺で幽閉生活を送っていた「義経」。

「名門出身」でありながら、没落した「項羽」と「源義経」。

 

戦いをやらせたら、無敵の強さを誇った項羽ですが、義経と同じく、まったく「政治力」がありませんでした。

味方を集めることができず、次から次へと敵が増え続け、最終的にはライバルの「劉邦」に負けて戦死してしまいます。

いくらケンカが強くても、それに「政治力」・・・つまりは「戦争を終らせる能力」「味方を引き止める能力」がないことには、「天下を取ることはできない」のです。

言い換えれば、「戦術」が多少まずくても、「戦略」が優れていれば、逆転することは十分に可能。

義経に敗北した猛将「木曽義仲」も、戦争は強いものの、政治力がゼロ。

そのためあっけなく滅びています。

義経・・・彼のそばに、「政治力」をもつ家来が一人でもいたら、もしかすると「頼朝」を倒して、「義経政権」が京都に誕生していたかもしれません


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 源義経は、「兄・頼朝を慕い、兄のために必死に尽くしながらも、最期は兄に裏切られて殺害された悲劇の名将」ではなく、かなり野心的な人物だった
  2. 義経は、兄「源頼朝」と違い、京都に「平清盛」のような「政権」を誕生させて、栄華を極めようとしていた。
  3. 最期は藤原泰衡に裏切られて殺害された。もしかすると、義経は泰衡に嫌われていたのかもしれない。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

「【巴御前とは】最強の逸話と家紋の真実!彼女の武器・刀が今も使われてる」の記事はコチラ
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