皆さんは蒲生氏郷の子孫が現在も続いているのかどうかを、ご存知でしょうか?
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 蒲生氏郷の子孫は、孫の代で断絶している
- 氏郷の息子・蒲生秀行は、徳川家康の娘を妻としながらも、若くして亡くなった
- 氏郷の孫・蒲生忠郷は、徳川家康の孫であるため、幕府から助けられたものの、子供を残さず若くして亡くなった
天下統一目前まで上り詰めた豊臣秀吉も恐れた武将、蒲生氏郷。
織田信長にその才能を見出され、秀吉の天下統一に大きく貢献した名将の血脈は、その後どのように受け継がれていったのでしょうか。
若い頃から頭角を現した氏郷は、信長に重用され、数々の戦いで勝利を収めました。
信長の死後は秀吉に仕え、会津92万石を領するまでに出世します。
奥州の要として伊達政宗など反発勢力を抑え、秀吉政権を支える存在となりました。
しかし、40歳という若さで病に倒れ、その生涯を閉じます。
天下人に最も近かった男と称される氏郷。
その子孫は、現在も続いているのでしょうか。
蒲生氏郷の子孫は断絶したのか?
蒲生氏郷の子孫は、孫の代で断絶しています。
孫の蒲生忠郷・忠知の兄弟の代で、蒲生家は断絶しているのです。
伊達政宗を封じ込め、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と、三英傑に愛され恐れられた蒲生氏郷の子孫は、現代に残っていません。
しかし、蒲生氏郷と縁があり、子孫を名乗る一族がおられるという噂もあります。
もしかすると氏郷の子供が生まれていて、記録に残らない形で、子孫が続いているかもしれません。
ですが、公式には蒲生氏郷の子孫は断絶しているのです。
蒲生氏郷の子孫一覧
ここでは蒲生氏郷の子孫を一覧でご紹介いたします。
蒲生秀行(氏郷の子)
氏郷の息子・蒲生秀行は、徳川家康の娘を妻としながらも、若くして亡くなっています。
戦国屈指の名将・蒲生氏郷の跡を継いだのは、幼い息子・蒲生秀行でした。
秀行は、織田信長の次女を母に持つ血筋でありながら、病弱というハンデを抱えていました。
蒲生氏郷の死後、豊臣秀吉は、幼い秀行に会津領を任せることに不安を抱き、一度は領地を召し上げようとしたものの、周囲の説得によって思いとどまります。
しかし蒲生家は、徳川家康や前田利家たち五大老の監視下に置かれ、豊臣政権による管理下に置かれることとなりました。
家臣たちの権力争いが激化する中、秀行は家臣たちをまとめることができず、ついには秀吉の介入によって会津92万石から宇都宮12万石に大幅に領地を削減されてしまいます。
この事件は、蒲生家内部の混乱に乗じて、奥州からの敵の侵入を防ぐための要である会津を、上杉家に封じようとする陰謀だったという説もあります。
減封によって多くの家臣を抱えきれなくなった蒲生家は、多くの家臣を解雇せざるを得ませんでした。
武勇に優れた蒲生家臣たちは、次々と他の大名に召し抱えられ、その多くは関ヶ原の戦いを西軍として戦うこととなります。
1598年、豊臣秀吉が亡くなり、時代は関ヶ原の戦いへと向かいます。
徳川家康の娘婿であった蒲生秀行は東軍に属し、戦功によって旧領である会津60万石に復帰を果たします。
会津に戻った秀行は、家臣たちの争いをおさめながら藩政を確立させていきます。
しかし、1611年に会津地震が発生し、家中の争いと心労が重なった秀行は、翌年に30歳という若さで急死してしまいます。
娘婿・蒲生秀行の死は、徳川家康にとっても大きな痛手だったと伝えられています。
蒲生忠郷(氏郷の孫)
氏郷の孫・蒲生忠郷は、徳川家康の孫であるため、幕府から助けられたものの、子供を残さず若くして亡くなっています。
10歳で家督を継いだ蒲生忠郷は、徳川家康の娘である母・振姫の後見を受けながら藩政を行いました。
しかし、振姫と重臣の間に対立が生じ、仕置奉行・岡重政は家康によって処刑され、振姫も広島藩浅野家へと再嫁させられてしまいます。
重臣と母を失った忠郷は、大坂の陣での江戸留守居や改易された藩の城受け取りなど、藩主としての実績を積み重ねていきます。
しかし、重臣たちの対立は収まらず、藩政は混乱状態に陥ります。
この頃、忠郷は藤堂高虎の娘・亀姫を正室に迎えています。
藤堂高虎は、徳川家から信任を得ていた外様大名であり、政治手腕に優れていました。
高虎との良好な関係は、忠郷の母親である振姫の嫁ぎ先だった広島藩・浅野家が、重臣の粛清で改易の危機に瀕したときも、広島藩を立ち直らせることに活かされました。
つまり高虎の協力が、広島藩の改易の危機を回避できた理由の一つということです。
重臣たちの対立という火種を抱えながらも成長を続ける忠郷でしたが、26歳で疱瘡(天然痘)により病死してしまいます。
子がいなかったため蒲生家は断絶の危機に陥りましたが、振姫が家康の娘であったことから、弟の忠知が跡継ぎとなることが許されました。
蒲生忠知(氏郷の孫・忠郷の弟)
氏郷の孫で、先代藩主の蒲生忠郷の弟である蒲生忠知は、長男を授かったものの、幼くして亡くしてしまい、直後に自分も急死しています。
兄・忠郷の急死により、出羽上山藩主だった蒲生忠知は本家を継ぐこととなりました。
しかし、本来ならば改易されるべきところを、徳川一門の情けにより伊予松山24万石への減封で許されます。
忠知は松山城の建設に力を入れ、藩政確立に尽力しますが、重臣たちの争いに巻き込まれてしまいます。
家老たちは忠知の義兄である蒲生郷喜を訴え、結果的に家老全員が追放されることとなりました。
この騒動で政治の中心となる重臣を失った蒲生家は、深刻な人材不足に悩まされます。
待望の嫡男が誕生しますが、3歳という幼さで亡くなっています。
その後を追うように、忠知も31歳という若さで急死します。
忠知の正室である正寿院が身ごもっていたため、幕府は男の子であれば改易を考え直そうと出産を待ちましたが、生まれたのは女の子でした。
徳川家との縁を考慮し、将来婿を迎えて蒲生家を再興する道も
模索されましたが、女の子も幼くして亡くなり、名門・蒲生家はここに断絶を迎えたのです。
蒲生氏郷の娘一覧
他の家へ嫁いだ蒲生氏郷の娘たちの血筋が、どのようにつながっているのかをご紹介いたします。
籍(前田利政の妻・氏郷の娘)
氏郷の娘である籍の血筋も、子供にめぐまれなかったため断絶しています。
氏郷の娘・籍は、前田利家の次男・前田利政に嫁ぎました。
しかし二人の間に子供が生まれることはありませんでした。
そのため、前田利政の家系である前田土佐守家は、利政の側室の子が引き継いでいます。
武姫(南部利直の妻・氏郷の娘)
氏郷の次女・武姫は、子どもをを産んだものの、その子が子孫を残さず若くして亡くなっています。
盛岡藩主・南部利直に嫁いだ蒲生氏郷の次女・武姫は、利直との間に嫡男となる南部重直をもうけます。
しかし、重直には子供がいませんでした。
重直は子供をつくれないままに、病に倒れ早世してしまいます。
跡継ぎは重直の異母弟たちが継ぎ、氏郷の血は南部家にも受け継がれませんでした。
崇法院(加藤忠広の妻・氏郷の孫娘)
蒲生氏郷の孫・崇法院は、加藤清正の息子である加藤忠広に嫁ぎ、光広という子を産みましたが、その光広が若くして亡くなったため断絶しています。
蒲生秀行の娘・崇法院は、熊本藩主・加藤忠広に嫁ぎ、嫡男・加藤光広をもうけます。
しかし、光広は遊びで謀反の連判状を作ったことが発覚するなど、様々な問題行動が原因で、加藤家は1630年に改易されてしまいます。
改易の責任を一身に背負い、深い絶望感に襲われた光広は、配流先で病死または自害したと伝えられています。
子宝にも恵まれなかったため、氏郷の血は加藤家にも受け継がれませんでした。
余談ですが、加藤清正の子孫は、現在も山形県を中心にして日本各地に続いています。
蒲生氏郷の子孫が途絶えた理由
蒲生氏郷の子孫が途絶えた理由は、氏郷とその息子・秀行と、二代つづけて天下人の娘を妻としているからでしょう。
氏郷は、織田信長の娘を妻としました。
息子の秀行は、徳川家康の娘を妻としました。
天下人二人の娘を妻にしたため、氏郷も秀行も、信長・家康に遠慮して、側室をもてなかったのでしょう。
なぜなら、正室が世継ぎを産まず、側室が世継ぎを産んだ場合、政略結婚の意味がないことになります。
そんなことになったら、織田信長も徳川家康も、激怒します。
実際に、徳川四天王のひとり・井伊直政は、家康の養女を妻としたものの、恐妻家で、側室に産ませた子を必死に隠しています。
家康の息子・秀忠は、娘である和子を後水尾天皇に嫁がせる際に、後水尾天皇が「四辻与津子」という女性に子供を産ませたことを知ると、激怒して彼女とその子供達を御所から追放しています。
蒲生氏郷も秀行も、側室を持たなかったことが、一門衆が増えなかった理由でしょう。
一門衆がいなかったため、重臣を抑える存在が育たず、家内混乱を招いたことも事実です。
こうした反省からか、忠郷・忠知の代には側室が迎えられました。
しかし、いずれも当主が子を残す前に亡くなり、蒲生家はついに滅亡を迎えてしまうのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 蒲生氏郷の子孫は、孫の代で断絶している
- 氏郷の息子・蒲生秀行は、徳川家康の娘を妻としながらも、若くして亡くなった
- 氏郷の孫・蒲生忠郷は、徳川家康の孫であるため、幕府から助けられたものの、子供を残さず若くして亡くなった
以上となります。
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