幕末の長州藩主「毛利敬親(もうりたかちか)」の名君ぶりを示すエピソードをご紹介します。
「吉田松陰」ら優秀な人材を次々と輩出した長州藩の殿様「毛利敬親」。
強烈な個性を発揮する高杉晋作・木戸孝允や、「薩摩藩」の名君「島津斉彬」に比べると影が薄いが、実は相当な名君だった!
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
幕末の長州藩主「毛利敬親」とはどんな人?

毛利敬親
『引用元ウィキペディアより』
毛利敬親は幕末期の長州藩13代藩主で、安芸毛利家25代当主です。
1819(文政2)年、毛利家一門・福原房昌の長男として萩藩の江戸麻布邸で誕生。
1837年 (天保8年)、18歳で家督を継ぎます。
その後、中級武士であった「村田清風」を抜擢して藩政改革を行わせ、財政難により困窮する長州藩を雄藩に引き上げました。
藩校である「明倫館」を移転・拡張し教育を充実させ、新しい藩校「有備館」を建設しています。
家柄や身分、年齢などにとらわれず、若くて優秀な人々を多く輩出し、藩主に発表する機会が与えられたことで有名です。
明治維新では、有能な藩士と共に倒幕を成し遂げた功労者の1人です。
1869(明治2)年に隠居し、2年後の満52歳で亡くなりました。
明治維新に大きな役割を担った毛利敬親ですが、なぜかその評価は人によって様々です。
「そうせい候」と呼ばれ、政治的にはあまり賢明な藩主ではなかったも言われています。
吉田松陰は毛利敬親が育てた?
毛利敬親と言えば、藩内の優秀な人物を次々と抜擢した事で有名な人物です。
彼に抜擢された吉田松陰や高杉晋作が歴史上で大きな役割を果たしたため、このような評価をされることが多いようです。
吉田松陰が11歳の時、藩主・毛利敬親の前で講義をすることになりました。
松陰は山鹿流『武教全書』戦法篇を講じ、敬親を含め居並ぶ重臣たちを驚かせたといいます。
その後、敬親は藩主でありながら、11歳も年下で下級武士の息子である吉田松陰に師事し、学問を学んだと言われています。
松陰15歳の時には、講義中に敬親が「孫子の話をしろ」と突然命じ、それを難なくやり遂げてたという逸話も残されています。
松陰は19歳で藩校「明倫館」の独立師範(兵学教授)に就任します。
それからも敬親は松陰の事を色々気にかけており、松陰脱藩の際には本来死罪になるところを「十ヶ月の遊学願い」で済ませています。
また国を憂うあまりに、松陰は罪になることを承知で意見書を藩に送ります。
これを知った敬親は
「寅次郎(松陰のこと)の心を慰めてやらねばならぬ。
思うことをすべて書かせ、余に見せるようにせよ」
と言ったそうです
松陰が脱藩した時も意見書を出したときも、敬親は寛容な態度で接していますね。
こうした敬親に松陰は感謝をしており、後に高杉晋作に宛てた手紙の中で「身に余る処遇をしてもらった」と述べています。
松陰が叔父・玉木文之進から引き継いだ「松下村塾」の教育方針は、長所をのばし自覚を促すこと。
松陰は人を疑わず、人の善を見ることを大切にしていました。
「誰にも一つや二つは得手がある」といって、一人ひとりの子どもの良いところを見つけて褒め、やる気を引き出し伸ばす教育を行いました。
こういった教育方針は、毛利敬親から受けた恩や感謝の思いから生まれたのかもしれませんね。
この松下村塾からは、尊王攘夷・倒幕の旗頭となった吉田松陰の義弟「久坂玄瑞」や初代内閣総理大臣になった「伊藤博文」などが輩出されています。
幕末に何をしていた?実は人使いの名人だった
先ほども書きましたが、敬親は「そうせい侯」と呼ばれることがあります。
これは敬親が家臣の意見に対して意義を唱えることが無く、常に「そうせい」と答えていたことから称されたものです。
「君臨すれども統治せず」という政治姿勢を美徳とする風潮が強かった時代です。
毛利敬親の人柄というよりも、当時の日本の藩主たちの、もっともポピュラーなあり方だったようですね。
ですが、版籍奉還など将来を左右する重要な事柄には、敬親自身が最終判断を下したいたと言われています。
長州藩は人材育成に力を入れており、優秀な人間が適材適所で活かされていることが特徴です。
そのような優秀な藩士からの提案があれば、ダメ出しをすることなく「そうせい」と言うことになったのではないでしょうか。
「版籍奉還」の逸話
1868年、毛利敬親はかつての家来であり、明治政府の重鎮である木戸孝允(桂小五郎)から版籍奉還を促されます。
天皇に対して、全国の諸大名が領地(版図)と領民(戸籍)を返還するという改革です。
木戸孝允ら明治政府は、中央集権の強い国にするため、日本全土を直接治めることを目指しました。
これを実現するために、かつての主君であった毛利敬親に対し、全国の諸大名に模範を示して欲しいと、版籍奉還を依頼しにいきます。
毛利敬親は、あっさりと版籍奉還を受け入れました。
退出しようとする木戸孝允を毛利敬親は呼び止め
「これほどの変革を行なうには、その時機を見計らうことが大事だ」
と述べたそうです。
これを聞いた木戸孝允は、毛利敬親が恐ろしく聡明な人物だと痛感した、といわれています。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・明治維新に大きな役割を担った、幕末期の長州藩13代藩主である。
・藩内の優秀な人材を抜擢し、吉田松陰に師事した。
・「そうせい候」と言われるが、実際は非常に聡明な人物であった。
これで幕末の長州藩主 毛利敬親に少し詳しくなりましたね。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
「吉田松陰」「高杉晋作」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
↓↓↓↓↓↓
コメント