皆さんは加藤清正の子孫が現在も続いているのかどうかを、ご存知でしょうか?
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 加藤清正の子孫は、直系子孫は断絶したものの、分家の子孫は現在も続いており、山形県酒田市を中心に、多くの子孫の方いる
- 清正の墓が山形県鶴岡市にある理由は、息子の忠広が庄内藩へ預けられた際に、遺骨を庄内丸岡に持ち込み、埋葬したため
- 加藤忠広の息子である加藤光広が、謀反の連判状を偽造したため、または加藤忠広が家の騒動をおさえられなかったためなど諸説あり
- 加藤清正の先祖は、藤原道長
この記事では加藤清正の子孫を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は加藤清正の子孫について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、加藤清正の子孫に詳しくなれます。
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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
加藤清正の子孫は、現在も続いているの?
子孫は現在も、山形県を中心に続いている
加藤清正の子孫は、現在も続いています。
直系子孫は断絶したものの、分家の子孫は現在も続いており、山形県酒田市を中心に、多くの子孫の方がおられます。
加藤清正の息子・忠広には2人の息子がいましたが、長男の光広は改易の原因となったあと、1633年に病死しました。
次男の正良は、真田信繁(幸村)で有名な真田家に預けられましたが、1653年に父の死を悲しんで自刃しました。(後継者はいませんでした)
また、加藤清正の娘は徳川頼宣に嫁ぎましたが、子供はいませんでした。(夫婦仲は良好だったようです)
では、なぜ加藤清正の子孫がいるのかというと、忠広が配流先の丸岡で男子と女子をもうけたからです。
加藤光秋と名乗った男子の家系の行方はわかりませんが、女子は結婚し、その子孫が山形県の庄屋として続いています。
加藤与治左衛門家は、明治時代には力のある家系で、明治天皇を屋敷に迎え入れるほどでした。
しかし後に没落したといいます。
そして、最後にこの家を継いだ「加藤セチ」という女性科学者が亡くなり、家系は途絶えました。
しかし分家の子孫は、山形を中心にして、今も日本各地にいるようです。
つまり加藤清正の子孫は、紆余曲折を経て、今現在も絶えることなく、日本各地で生活しています。
加藤清正の妻は、明智光秀の部下の娘だった
余談かもしれませんが加藤清正は、明智光秀の部下だった山崎片家の娘を妻として、子供を儲けたとされています。
加藤清正は、主君の羽柴秀吉が明智光秀を倒した1582年の「山崎の戦い」に参戦しています。
そのため光秀と清正は、ある意味で、深い因縁があります。
しかしその女性が産んだ清正の子「虎熊」は、朝鮮出兵の前後に、幼くして亡くなったといわれています。
ちなみに明智光秀の子孫は、現在も続いているといわれています。
現在の天皇陛下が、明智光秀の子孫なのです。
→→→→→【明智光秀の子孫と家系図】についてくわしくはこちら
なぜ加藤清正の墓が、山形県鶴岡市にあるの?
清正の墓が山形県鶴岡市にある理由は、息子・加藤忠広が庄内丸岡へお預けとなった際に、遺骨を曹洞宗・天澤寺の本堂の北に埋葬して墓碑を建立したためです。
加藤清正の墓は、熊本県の本妙寺にありますが、実は昭和24年に、山形県鶴岡市の天澤寺で清正の遺骨が見つかりました。
そのため、清正の墓は熊本県と山形県の2か所にあることになります。
他にも東京都の寺院には位牌や供養塔があります。
なぜ加藤清正の墓が山形県にあるのでしょうか?
実は加藤忠広が、出羽国庄内の丸岡にお預けとされた際に、清正の遺骨を熊本から持って行ったためです。
忠広は父の遺骨を移動させることを防ぐために、清正閣という建物をつくりました。
しかし実際の遺骨は、自宅の庭に埋葬したといわれています。
その後、大正10年に熊本県の調査団が訪れ、清正閣で使われている石が熊本産出のものであることが判明しました。
しかし、このときは発掘調査までは行われませんでした。
昭和24年になって本格的な発掘が行われ、清正の遺骨や、清正が使っていた鎧兜が発見されました。
加藤清正の墓が山形県にあるのは、忠広が父親の遺骨を持ち込んだためなのです。
(写真の甲冑は、東京国立博物館に所蔵されているもので、あくまで加藤清正のものと伝えられているだけで、本人のものかは不明。山形の墓で発見された鎧とは別のものです。)
清正の息子・加藤忠広は、なぜ改易されたのか?
加藤家改易の理由は諸説あるものの、加藤忠広の息子である加藤光広が、徳川幕府への謀反を計画する連判状を偽造したため、または加藤忠広には熊本藩を支配する能力がなく、家の騒動をおさえられなかったためともいわれています。
加藤清正の子孫を語る上で、最後に息子の加藤忠広がなぜ改易されたのか、について説明したいと思います。
清正は、主君であった豊臣秀頼と徳川家康の二条城での対面を実現した直後、1611年に亡くなりました。
この二条城対面により、秀頼は家康の臣下になったとか、または家康が秀頼を危険視して、豊臣家を滅ぼすことを決意したなどといわれています。(4年後の1615年、豊臣家は家康に滅ぼされている)
その後、長男の加藤忠広が、わずか11歳で家を継ぎました。
しかし、21年後の1632年、忠広は改易されてしまいます。
改易の理由は諸説あります。
忠広の長男である加藤光広が諸大名の名前や花押を偽った反乱の文書を作ったことが表向きの理由です。
他には、忠広が家をまとめられなかったために、重臣同士が対立して騒動が起こり、忠広はそれを治めることができなかったため、改易したという説もあります。
他にも以下の3つの説があります。
- 駿河大納言・徳川忠長と親しかったため
- 幕府は、もともと加藤家を改易するつもりで、機会を狙っていた
- 豊臣家の親戚だったため警戒されて改易された
しかし近年の研究で、この3つの説はすべて否定されています。
近年もっとも有力な説は、家中での騒動を、加藤忠広がおさめられなかったためといわれています。
その後、忠広は出羽国(現在の山形県鶴岡市丸岡)に1万石の堪忍料を与えられ、その地で22年間を過ごしました。
忠広は、京都にいた旧家臣団からの仕送りなどもあり、文学や音楽、和歌、水遊びなどに親しんで、お預けでの生活を悠々自適に楽しんでいたようです。
そのため、歌日記なるものを残し、300以上の歌を残したとされています。
余談ですが、清正の子孫が東北・山形に続いているのと同じように、石田三成の子孫も同じ東北の青森で続いているとされています。
清正は、秀吉の側近である石田三成を毛嫌いし、関ヶ原の戦いで福島正則たちとともに徳川家康に味方したといわれています。
石田三成は関ヶ原の戦いで処刑されたものの、その子供たちは津軽(青森県西部)へ逃げて生き延びたとされているのです。
ちなみに三成の血筋も、さきほどの明智光秀と同じく、現在の天皇陛下に受け継がれています。
→→→→→【石田三成の子孫の現在と家系図】についてくわしくはこちら
加藤清正の先祖は誰?
加藤清正の先祖は、平安時代の絶対権力者である藤原道長です。
藤原道長と、その妾妻である源明子のあいだに生まれた子・藤原長家の子孫が、加藤清正なのです。
加賀国へ赴任した藤原氏が、加賀の加の文字と、藤原氏の藤の文字をとって、加藤と名乗ったのが、加藤氏の始まりといわれています。
また、藤原道長の子・長家の子孫には、加藤清正だけではなく、同じく戦国時代に活躍した武将・藤堂高虎もいます。
さらに、藤堂高虎とは別系統で、あの三井財閥で有名な三井家も、藤原道長の子・長家の子孫といわれています。
道長の子孫は、五摂家や皇室のみならず、各方面につながって、今も続いているのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 加藤清正の子孫は、直系子孫は断絶したものの、分家の子孫は現在も続いており、山形県酒田市を中心に、多くの子孫の方いる
- 清正の墓が山形県鶴岡市にある理由は、息子の忠広が庄内藩へ預けられた際に、遺骨を庄内丸岡に持ち込み、埋葬したため
- 加藤忠広の息子である加藤光広が、謀反の連判状を偽造したため、または加藤忠広が家の騒動をおさえられなかったためなど諸説あり
- 加藤清正の先祖は、藤原道長
以上となります。
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