皆さんは「花山天皇の子孫の現在」を、ご存知でしょうか?
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 花山天皇の【現在の子孫】加賀藩品川家、白川伯王家(昭和に断絶)
- 【有名人・芸能人の子孫】有名人や芸能人として活動している子孫はいない
- 花山天皇の【主要な子孫】清仁親王、昭登親王、覚源、深観、白川雅朝王、品川雅直、品川蔵人、白川資長
この記事では「花山天皇の子孫」を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は「花山天皇の子孫」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、「花山天皇の子孫」に詳しくなれます。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
花山天皇の子孫の現在
ここでは、現在までつづいている花山天皇の子孫について解説いたします。
加賀藩・品川家
加賀藩・品川家とは、前田利家を祖とする加賀前田藩100万石に仕えた武士の一家のこと。
花山天皇の子孫は、後述する白川伯王家として、子孫を続けていた。
ところが白川伯王家の21代目の三男である品川雅直が、前田利家の子で3代藩主の前田利常につかえて、加賀藩品川家が始まった。
その後も、品川家は加賀藩に仕えたらしい。
明治以降の消息は、調査したものの不明。
しかし子孫は、今も続いていると考えられる。
白川伯王家
花山天皇の孫にあたる延信王を祖とする一家。
神祇官という役職を代々つとめてきた一家で、昭和の時代までつづいた。
後述するが、白川伯王家は、昭和の時代に断絶しているため、現在もつづいているわけではない。
花山天皇の子孫に有名人・芸能人はいるのか?
花山天皇の子孫に、現在活躍している芸能人や有名人がいないかどうか、徹底的に調査いたしました。
しかし、芸能人または有名人とされる子孫は、発見できませんでした。
ただし、花山天皇の子孫は、加賀藩品川家など複数枝分かれして、現在も続いている可能性があります。
その中に芸能人や有名人がいないとも限りません。
また、花山天皇は、とても女性好きで派手な一生を送った方です。
そのため、一般に知られている以外にも、子孫がいる可能性も否定できません。
花山天皇の主要な子孫一覧
ここでは、花山天皇の主要な子孫を一覧でご紹介いたします。
清仁親王
花山天皇の子。
第二皇子。
延信王の父。
通称・母腹宮。
花山天皇は、中務と平子という母と娘を、同時に愛妾とした。
そしてほぼ同時に子を産ませたとされる。
そのため民衆は、母の中務が産んだ子を、母腹宮と呼んだ。
一方、娘の平子が産んだ子を、女腹宮と呼んだ。
母腹宮こと清仁親王の父は花山法皇だが、母・中務は出自が低く、異母兄で女腹宮とよばれた昭登親王と共に、祖父・冷泉上皇の子として育てられた。
一条天皇の時代、寛弘元年(1004年)に昭登親王と共に親王宣下を受け、寛弘8年(1011年)に元服。
三条天皇と後一条天皇の即位式で侍従を務め、弾正尹を歴任した後、長元元年(1028年)に出家。
長元3年(1030年)に薨去。
昭登親王
花山天皇の子。
第一皇子。
通称・女腹宮。
愛妾である母娘のうち、娘の平子が産んだ子。
異母弟の清仁親王と共に、祖父にあたる冷泉上皇の子として育てられた。
一条天皇の寛弘元年(1004年)に、清仁親王と共に親王宣下を受け、元服後は兵部卿、中務卿などの官職を歴任。
兵部卿に在任中の万寿4年(1029年)に親王の邸宅が焼失し、長元8年(1035年)に38歳で薨去。
覚源
花山天皇の子。
第三皇子。
深観の兄。
母は一説によると平子といわれているので、昭登親王の同母弟ということになる。
醍醐寺の明観という僧侶に師事して、出家。
- 伝法阿闍梨
- 醍醐寺座主
- 東寺長者
- 権大僧都
- 東大寺別当
などの要職を歴任。
後冷泉天皇の護持僧を務めるなど、皇室との関係も深かった。
66歳で亡くなった。
深観
花山天皇の子。
清仁親王、昭登親王、覚源の弟。
東寺長者をつとめ、その後任者として兄・覚源が補任されたという。
1000年に誕生。
1065年に亡くなった。
上東門院彰子の女房
花山天皇の娘。
母親は、昭登親王を産んだ平子。
昭登親王の同母妹。
一条天皇の中宮で、藤原道長の娘でもある彰子に、女房として仕えていた。
花山天皇の娘の中で、ゆいいつ成長した女性だが、怪事件に巻き込まれて亡くなっている。
万寿元年(1024年)12月6日に、彼女は夜中の路上で殺害され、翌朝、野犬に食われた姿で発見されたという。
捜査により、法師隆範という人物が容疑者として逮捕され、藤原道雅の命令で、皇女を殺害したと自白した。
この藤原道雅とは、長徳の変で花山天皇に矢を射かけた藤原隆家の兄・伊周の息子にあたる人物だった。
伊周とその家・中関白家は、隆家が花山天皇に矢を放ったことが原因で、一気に没落した。
そのためこれは、中関白家の、花山天皇に対する復讐という見方もできる。
また、中関白家を没落へ追い込んだのは、伊周のライバル・藤原道長とその娘である彰子ともいえるため、女房の暗殺は、彰子への精神的な攻撃ともなる。
ところがその直後、盗賊の首領が、自分が犯人であると自首してきた。
そのため藤原道雅が真犯人という件は、うやむやになったという。
真相は、今も謎のままである。
ちなみに藤原道長は、藤原伊周の娘を息子の妻として受け入れ、子孫は現在も続いている。
藤原忯子の子
花山天皇が寵愛した藤原忯子に宿した子。
寵愛した藤原忯子の子であるため、花山天皇も喜んだが、生まれることはなかった。
身重であるにもかかわらず、花山天皇は、実家で養生していた忯子を無理に呼び出したという。
そのため無理を強いられた忯子は、子供を身ごもったまま亡くなった。
花山天皇は嘆き悲しみ、後年、忯子が忘れられなかったのか、その妹である四の君と呼ばれる女性の家へ通った。
それがきっかけで花山天皇は、藤原伊周の弟・隆家に、矢で袖を射抜かれたという。(長徳の変)
延信王
花山天皇の孫。
花山天皇の第一皇子である清仁親王の子。
白川伯王家の祖。
父は清仁親王、母は源頼房の娘。
万寿2年(1025年)に二世王の蔭位によって、従四位下に叙位、同年12月に源朝臣姓を与えられて臣籍降下した。(臣籍降下とは、皇族の身分を捨てて、一般市民となること)
神祇伯(神祇官という官職の長官)を歴任し、子孫は代々神祇伯を世襲する白川伯王家となる。
この白川伯王家は、昭和まで続くこととなる。
白川雅朝王
戦国時代から江戸時代にかけての白川伯王家の当主。
養子入りにより、白川伯王家を継承する。
本能寺の変に巻き込まれたことで有名な人物。
1582年、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれた事件が起こった際、白川雅朝王は、正親町天皇の嫡男・誠仁親王とともに、二条新御所という邸宅にいたという。(二条御新造・または二条新御所は二条城とも呼ばれたが、現在の二条城とは違う別の邸宅のこと)
この二条新御所は、織田信長が誠仁親王に献上したものだった。
織田信長の子・信忠は、本能寺の変が起こると、この二条新御所に立てこもり、明智光秀の軍に対抗。
しかし敗北して亡くなった。
白川雅朝王は、二条新御所から誠仁親王を脱出させたという。
この話を、白川雅朝王は、のちに後水尾天皇によく聞かせていたらしい。
品川雅直
花山天皇の子孫。
白川伯王家21代目の三男として生まれたという品川雅直。
その品川雅直を祖として、白川伯王家から枝分かれして「加賀藩士品川家」が生まれた。
品川雅直は、100万石を有する加賀前田藩に、武士として仕えた。
前田利家の息子で、加賀藩3代藩主・前田利常につかえたという。(利常は、前田利家と側室の子)
その前田利常が亡くなると、品川雅直はあとを追って殉死を遂げた。
その後も子孫は代々加賀藩に仕え、重臣として3000石を有した。
品川蔵人
花山天皇の子孫。
品川雅直の子孫でもある。
加賀藩につかえた。
白川資長
花山天皇の子孫。
白川伯王家の最後の当主。
大正から昭和にかけての貴族院議員。
戦後、神社本庁の参与をつとめたが、子供に恵まれることがなかったため、養子をとったという。
しかし養子縁組を解消したため、白川資長氏の死をもって、白川伯王家は断絶した。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 花山天皇の【現在の子孫】加賀藩品川家、白川伯王家(昭和に断絶)
- 【有名人・芸能人の子孫】有名人や芸能人として活動している子孫はいない
- 花山天皇の【主要な子孫】清仁親王、昭登親王、覚源、深観、白川雅朝王、品川雅直、品川蔵人、白川資長
以上となります。
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