勝海舟の性格と名言をご紹介!最期に口にした言葉がかっこよすぎる!

幕府の家臣「勝海舟」について「名言」と「最期の言葉」を、わかりやすく解説いたします。
「坂本龍馬」の師匠であり、「西郷隆盛」と渡りあって「江戸城無血開城」を実現した「勝海舟」
残した名言は江戸っ子らしく、最期の言葉はとてつもなくかっこいいものだった!
「コレデオシマイ」さらば勝海舟!
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この記事を短く言うと
・勝海舟の性格は、「弱さ」と「強さ」を持ち合わせた、味のあるものだった
・勝は徳川幕府が滅びた後、明治政府に務め、徳川慶喜の名誉回復に力を尽くした
・彼が残した名言は、かなり人間味があり、今でも役に立つ価値あるものが多い
・最期の言葉は、勝海舟らしいものだった。「コレデオシマイ」と言って亡くなった
目次
勝海舟の性格とは?エピソード付きでご紹介!

勝海舟
『引用元ウィキペディアより』
少年の頃、睾丸を咬まれて生死の境をさまよう
勝海舟は7歳の時に道で野良犬に睾丸を咬まれ、瀕死の重傷を負い、父の『勝小吉』の献身的な看護命の危機を脱出します。
ただ、その恐怖のせいでトラウマになり、犬に出くわすと震えて動けなかったそうです。
英語辞書を手に入れる為に、毎日医師宅に通いつめる
これからは英語の時代だと考えた青年の頃の勝海舟は、3,000ページもある蘭和対訳辞書『ドゥーフ・ハルマ』を筆写しました。
この辞書は蘭学を学ぶ者にとってベストな1冊ですが、幕府は出版を禁じていました。
価格は600両(今のお金で数千万)と高額で、とても手が出せない勝海舟は、赤城という医師にレンタル料30両を払って辞書を写させてくれるように頼みこみます。
1847年(弘化4年)から雨の日も風の日も毎日夜中になると赤城宅を訪ねて、1年掛けて2部の写し作業を終えました。
1部は売り払いレンタル料にあて、1部は手元に置いたわけです。
これがどれほどオランダ語の勉強に繋がり、勝海舟がハイスペックな頭脳だったかおかりいただけると思います。
幕府が倒れた後も徳川家を支え続けた勝海舟
大政奉還から王政復古を経て「鳥羽伏見の戦い」が起こると、早々に退却した徳川慶喜から幕府側の交渉責任者に任命されます。
江戸を戦火から救った海舟ですが、彼の苦難は明治に入ってからも続きました。
江戸幕府が倒れてからは徳川家ゆかりの静岡で暮らしていましたが、明治政府にたのまれて東京に移住します。
旧幕府の代表的な人物でありながら新政府で外務、兵部、海軍などの重要なポストを務め、日本の近代化に努めています
勝海舟は晩年の人生を、逆臣となった旧主 徳川慶喜を明治政府に赦免させることに費やしました。
その努力が実り、徳川慶喜は明治天皇に拝謁(はいえつ)を許され、「公爵」という最高のくらいを叙爵します。
職にあぶれた幕臣の就職支援や生活保護、さらには、西南戦争で反逆者にされた西郷隆盛の名誉回復にも努めています。
明治政府でも要職を歴任した勝海舟は、その権力と人脈を最大限利用し、徳川家と旧幕臣達を守り抜いたのです。
晩年は、伯爵の爵位を賜ったほか、洋酒を嗜み、幕末維新期の執筆作業におわれていたようです。
短気と根気強さが混ざり合う性格
一方で勝海舟は、非常に癇癪持ちだったといわれます。
機嫌が悪い時は、家族を家から追い出し、来客があっても放置したそうです。
その一方で、勝海舟は万物に優しい性格でもあったと言われます。
狩りに行ってもわざと鉄砲を外して獲物を取らず庭の草もわざと手入れをせずに虫が飛びまわるに任せていました。
刀の鍔をこよりで縛り、剣の達人ながら生涯人を斬らなかった事でも有名です。
勝海舟が残した名言と、その意味
・行いは俺のもの、批判は他人のもの。私の知れた事ではない。
失敗を恐れて、人目ばかり気にして、自分を押し殺してしまうことがありませんか。
自分の行いと他人の評価(批判)を切り分けて考え、自分の行いに集中でしましょう。
・自分の価値は自分で決めることさ。つらくて貧乏でも自分で自分を殺すことだけはしちゃいけねぇよ。
どんなつらい時も、自分で自分の値打ちを下げることはないはずですよね。
・事を成し遂げる者は愚直でなければならぬ。才走ってはうまくいかない
才能があるのは素晴らしいけれど、ずる賢く小手先に走ってはうまくいかなくなる。
何かを成し遂げるには、周りに応援される正直さが必要。
・世の中に無神経ほど強いものはない
こまごましたことを気にせず、いざというときにはドンと構えている人間が世の中を渡り歩いていけるものだ。
最期の言葉とは?
明治32年1月19日午後5時頃、勝海舟は風呂から上がると座り込んで「胸が苦しいからブランデーをもって来い」と家人に命じます。
それをグラスに入れ「今度はどうもいけないかもしれんぞ」といって一口飲んだとたん、倒れて意識を失ったと伝えられています。
今でいう脳溢血です。
勝海舟が息をひきとったのは2日後の午後5時だそうです。
享年は76歳。
亡くなった後、正二位に叙されています。
危篤状態だった勝は臨終の間際
「これでおしまい」
言って亡くなったそうです。
枕に付き添っていた妹が聞いたと言われています。
死ぬことは夢から覚めたときのようなものと語っていた、勝海舟らしい言葉です。
日本の近代化に多大なる貢献を果たした人生をあっさり締め括ろうとする姿勢に、江戸っ子らしい潔さと粋を感じますね。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・勝海舟は明治維新の立役者であり、新政府でも要職をつとめていた。
・勝海舟が残した名言集・かなり人間味のある名言を残してくれている
・最後の言葉は「これでおしまい」
最後の幕臣 勝海舟について簡単にご紹介いたしました。
以上となります。
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