幕府の若き指導者「阿部正弘」の「死因」や「ストーカー行為」をわかりやすく解説いたします。
イケメンだったおかげで、一気に出世できた「阿部正弘」だったが、お茶屋さんの「アイドル」に「ストーカー行為」をしてしまって、一気に失脚!
「阿部正弘」の最期は「暗殺」を疑われるような、突然死だった!
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この記事を短く言うと
・「阿部正弘」はイケメンだったため、大奥から人気があり、それが原因なのか異例の速さで出世していった
・彼は、隅田川のお茶屋で働く美少女に対して「ストーカー行為」を繰り返していた
・最期は、譜代大名によって暗殺された可能性がある・・・と指摘されている
イケメンだったおかげで大出世!
幕末の備後福山藩主「阿部正弘」
ペリー来航に際して、日米和親条約を締結し、200年以上続いた鎖国政策を終わらせた張本人。
実は阿部正弘・・・・わずか25歳で、「老中首座」という幕府で最高の地位に就いている、かなりできる男・・・。
ちなみに「老中」とは、臨時職である「大老」を除けば幕府最高の位で、常時4名前後の人数が任命される役職のこと。
普通はこの老中という役職・・・早くても30代後半・・・50~60歳になって就任する人も珍しくありません。
その老中・・・しかも首座つまりトップに「25歳」という若さで就任した阿部正弘・・・かなりできる男だったのでしょう。
阿部正弘・・・女好きで有名だった「オットセイ将軍・徳川家斉」が亡くなったあとで起こった「僧侶と大奥」のスキャンダルを鮮やかに処理したことで、12代将軍「徳川家慶」に気に入られ、大抜擢されたのだとか。
しかし、徳川家慶から気に入られただけで、一気に「老中首座」に駆け上がれるものでしょうか?
この阿部正弘・・・・当時としては相当な「イケメン」だったと評判のお方。
「女の園」である「大奥」から、そのイケメンぶりで、相当な人気があったと言われています。
大奥の人気が乏しいと、当時の幕臣たちは出世が出来ないと言われていました・・・。
老中「松平定信」は、大奥の出費を軽減したおかげで大奥に睨まれ、あっという間に失脚してしまいました。
水戸藩主・徳川斉昭は、当時の大奥への「セクハラ発言」と「女好き」が災いして、大奥から嫌われてしまい、「14代将軍に息子の徳川慶喜を擁立する」という計画が失敗に終わりました・・・。
大奥に睨まれると出世出来ない・・逆に大奥の支持があれば、出世できる!
8代将軍・徳川吉宗は、6代将軍「徳川家宣」の妻で大奥のトップ「天英院」から支持されたおかげで、8代将軍に就任できていますしね。
イケメンで大奥の支持が強かった・・・・阿部正弘の抜擢は、そのルックスのおかげなのかもしれません。
ストーカー行為が発覚して、一気に失脚
阿部正弘・・・実は相当な女好きで有名でした。
イケメンなのですから当然なのかもしれませんが、その女好きっぷりはすごかったのです。
なんでもストーカー行為までやらかしてしまったのだとか。
当時、隅田川の近くに「桜もち」で有名なお茶屋「山本屋」というお店がありました。
そこで働く美少女「おとよ」さんは、当時の江戸では大変な人気を誇る、現代で言うところの「アイドル」的な存在だったのだとか・・・。
行列ができるほどの繁盛を誇っていた「山本屋」さん。
そんな「おとよ」さんに目をつけた「太っちょ」がいました。肥満体だった阿部正弘です。
阿部正弘は、頻繁に「山本屋」を訪れたり、遠くから彼女を見守ったりと、まさに「ストーカー行為」を繰り返します。
それだけでは飽き足らず、ついに阿部正弘は、「おとよ」さんを強引に自宅へと連れ去り、愛妾としてお屋敷内に軟禁するという暴挙にでたのでした。
この時、「おとよ」さんはおそらく「17~18」歳くらいだったと考えられています。
これによって、阿部正弘の人気は一気に地に落ちてしまいました。
「おとよ」さんへのストーカー拉致事件が起こった前後、阿部正弘は「老中首座」の地位を「堀田正睦」に譲ったと言われています。
まぁ・・・ストーカー行為が原因で失脚したのかどうかはわかりませんが、その前後に、阿部正弘が最高職である「老中首座」から転げ落ちたのは確かです。
そして、ストーカー事件から数年後、1857年夏・・・・老中に在任したまま、江戸で急死・・・39歳の若さでした・・・。
・・・ストーカーやらかして一気に転落・・・・・今で言う一発屋だったのかもしれませんね・・・。
最期は暗殺された?
さて、ストーカー行為で人気を失い、あっという間に「老中首座」という最高の座から転げ落ちた「イケメン阿部正弘」
最期は肥満体だった身体をみるみる細らせて、あっという間に亡くなってしまった・・・と言われています。
死因については諸説あり、最も有力なのが「肝臓がん」・・・・または諸外国との交渉によって疲労を募らせた「過労死」という説もあります。
ただ・・・・そんな中で、「暗殺された」という説もあるのです。
どういうことなのか?
実は「阿部正弘」・・・200年以上続いた鎖国を終わらせただけではなく、幕藩体制を崩壊させて幕府の崩壊を早めた張本人でもあるのです。
当時の「幕藩体制」は、1600年の「関ヶ原の戦い」以前から家臣だった「譜代大名」が、中央・幕府の政治を担当し、「関ヶ原の戦い」以後に家臣となった「外様大名・・つまり、よそ者大名」は、幕府の政治に携わることが出来ない・・・という形の政治体制でした。
しかし阿部正弘は、ペリー来航で混乱する政局をおさめるために、外様大名や朝廷にも意見を求めてしまったのです。
これにより、「薩摩藩主・島津斉彬」たち外様大名による政治介入を招いてしまい、幕藩体制は崩壊・・・。
結局「長州」や「薩摩」のような「外様の雄藩」による「倒幕運動」を早めてしまったのです。
話を戻しましょう。
外様大名を幕府の政治に参加させることに、当然ですが譜代大名たちは強烈な不満を持っていました。
そんな矢先、阿部正弘は急死。
譜代大名からすると、溜飲が下がる思いだったことでしょう。
そのタイミングがあまりにも良すぎたため、「暗殺」を疑われてしまったのです。
真偽の程はわかりません・・・。しかし肥満体であった阿部正弘が、みるみる痩せていったという記録がある以上、薬物による毒殺ではなく、「がん」などの病死なのではないでしょうか。
もちろん暗殺の可能性も、否定できないですけども・・・。
「阿部正弘」について、よろしければ、以下のリンク記事もお役立てくださいませ
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まとめ
本日の記事をまとめますと
・阿部正弘は、イケメンだったため大奥からの支持を得て、出世できた
・隅田川「山本屋」の人気者「おとよ」さんに対して、ストーカー行為を繰り返していた
・暗殺されて亡くなった・・・という説がある
以上となります。
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