お市の方の性格を逸話で解説!織田信長や豊臣秀吉とどういう関係か?

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《柴田勝家・お市の方の墓所》
『引用元ウィキペディアより』

「お市の方」という名前は聞いたことがあっても、どういう人物か詳しく説明できる人は少ないかもしれませんね。

実は私も子供の頃、歴史に詳しい親戚に教えられるまであまり知りませんでした。

お市の方は魔王「織田信長」の妹でありながら、悲劇的な最期を遂げた人物だったのです。

この記事では「お市の方」についてあまり詳しくない方のために、その「性格」や「逸話」をわかりやすく解説していきます。

これを読んで「そうだったのか、お市の方!」と、疑問をスッキリと解消してくださいね。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. お市は「浅井長政」に嫁ぎ、長政の裏切りを信長に伝えるなどの機転を利かせる利口さと、柴田勝家とともに散る豪胆さを併せ持った女性であったと考えられる。信長から「男であれば名将」と賞されていた。
  2. 織田信長とお市の方は、同父母の兄妹。父は「織田信秀」、母は「土田御前」。お市は信長の同盟者「浅井長政」と政略結婚したが、後に浅井が織田家を裏切った際、お市は浅井に味方した
  3. 豊臣秀吉は「お市の方」に憧れていたと言われている。柴田勝家も好意を抱いていたとの逸話がある。秀吉は「お市の方」の長女「茶々」を側室にして「鶴松」「秀頼」を産ませた

お市の方の性格をエピソード・逸話で解説!

「お市の方」の前半生!夫「浅井長政」と兄「織田信長」の戦い

《お市の方》
『引用元ウィキペディアより』

「お市の方」は戦国一の美女で、非常に聡明な人物だったと言われています。しかし「お市の方」の前半生は、実は詳しくわかっていません。

1583年】に越前北之庄城で亡くなった時の年齢が【37歳】と言われているので、そこから逆算して【1547年頃】の生まれではないかと考えられています。

「織田信長」の妹ではなく、従姉妹ではないかという説もありますが、「13歳年下の信長の同母妹」というのが定説になっているのです。

1567年9月】か【1568年1月】に、「織田信長」と「浅井長政」の同盟のため、北近江の大名「浅井長政」に嫁ぎました。


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「お市の方」の夫「浅井長政」も「戦国一の美男子」と呼ばれ、2人の長女「茶々」が「長政」の17回忌に描かせた肖像画が「和歌山県・高野山」に残されています。

《浅井長政》
『引用元ウィキペディアより』

1547年】の生まれだとすれば、「お市の方」はこの婚姻の際に21歳となっています。

現代の私達の感覚では「21歳で結婚?早いな」と受け止めてしまいますが、戦国時代では逆で「21歳の輿入れ」というのはずいぶんと遅い結婚なのです。

そのため、お市の方には浅井長政の前に一度結婚しており、長女「茶々」はその最初の結婚で生まれた娘ではないか・・・・と考える学者もいるくらいです。

長政の父「浅井久政」に反対された政略結婚でしたが、「長政」と「お市の方」の仲は非常に睦まじく、2人の間には「茶々」「初」「江」と3人の娘が生まれました。(次女?の名前が「初」なのも、「茶々」が長政の娘ではないのではないか?という根拠となっている)

長政には2人の息子がいるのですが、息子たちの母が「お市の方」なのかkそれとも側室なのかもはっきりしていません。

もし「お市の方」が3人の娘だけではなく、2人の息子も生んだのなら、「長政」との間に5人の子供に恵まれたということになりますね。

しかし「お市の方」の幸せな時間は、長く続きませんでした。


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1570年】に信長が浅井氏と関係の深い、越前の「朝倉義景」を攻撃。「朝倉義景」を救援するために「長政」が「信長」を背後から攻撃したことで、織田家と浅井家は断絶します。

実は「浅井家」と「朝倉家」は、浅井長政の祖父「浅井亮政」の時代から長く同盟関係にありました。

織田信長と浅井長政が同盟した際の約束で、「織田家は朝倉家を攻撃しない」と定められていたのです。

その約束を織田信長は一方的に破り、朝倉家を攻撃。その「約束違反」を口実にして、浅井長政は織田信長を裏切ったのでした。

とはいえ、信長もこの「約束違反」を心苦しく思っていた節があります。

当時、敵を攻撃するにあたって、その敵地と最も近い位置に領地を持つ武将が先陣を切るのが常でした。

「越前・朝倉攻め」の場合、普通は越前に最も近い「北近江」の「浅井長政」が先陣を切るはずなのですが、信長は浅井長政に一言の相談もなく越前へ侵攻しています。これはおそらく、朝倉と同盟を結んでいた義弟「浅井長政」への信長なりの配慮だったのでしょう。

つまり信長は無言のメッセージを浅井長政へと送っていたのです。

「朝倉攻めに長政は参加しなくて良い。律儀な長政のことなので、長年同盟を結んでいた朝倉家を攻撃はできないだろう。ただ黙殺していてほしい」

と・・・。

ところが、長政は義兄「信長」のこの配慮に気付いてか気付かずにいたのか、ともかく織田家との同盟よりも「朝倉家」との同盟を選択します。

近年の研究では、「浅井長政」はこの「約束違反」によって信長を裏切ったのではなく、信長が浅井長政を「対等な同盟者」ではなく、まるで「家臣」のように扱ったため、それに激怒して信長を背後から攻撃した・・・と考えられています。


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浅井長政の裏切り!「小豆」に込められた意味

後世の創作ではないかと言われていますが「お市の方」はこの時、手紙では怪しまれるので「袋に小豆」を入れ、その袋の両端を紐で縛ったものを陣中見舞として信長に送ったと言われています。

浅井長政が信長を裏切り、背後から攻め入ろうとしています、兄上は挟み撃ちにされます

と伝えたのですね。

小豆が袋の中に閉じ込められているのを見て、自分が「袋のネズミ」になることを悟った信長は、急遽退却を開始し、九死に一生を得たのです。(この「小豆の袋」がなぜ「浅井長政の裏切り」を表していることになるのかというと、「小豆」が信長やお市の父「織田信秀」と「今川義元」の間で行われた【1548年】の「第二次小豆坂の戦い」を示唆しているから・・という説があるようです。「小豆坂の戦い」で、織田軍は今川軍の別働隊に「背後」を突かれて大敗しています。または「小豆色」がかった「ねずみ色」を「小豆鼠(あずきねずみ)」と呼びますが、「あずき」そのものが「鼠」を暗示していた・・とも考えられます。)

こうして信長は兵を立て直し、再び近江の小谷城を攻撃。長政は「朝倉義景」とともに応戦しますが大敗し、浅井家は大きく勢力を削られました。

この時の出来事からなのかわかりませんが、信長は「お市の方」のことを「男子であれば優秀な武将になっていただろう」と評したと言われています。

1573年】、信長は「朝倉義景」を攻め滅ぼして、「小谷城」を包囲。浅井長政を攻めました。

父「浅井久政」がまず自害し、その翌日「長政」も自刃したのです。


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男であれば名将「お市の方」と「本能寺の変」

「お市の方」は「茶々」「初」「江」の3人の娘とともに織田家家臣「藤掛永勝」によって保護され、信長のもとに送られました。

この時「長政」の2人の息子は捕らえられ、長男「万福丸」は秀吉により殺され、次男「万寿丸」は出家することで許されます。

尾張に戻った「お市の方」は、娘たちとともに叔父「織田信次」の元で庇護されましたが、【1574年9月】、信次は長島の一向一揆攻めで戦死。お市たちは信長の元に移っています。

それからしばらく、信長に贅沢に過させてもらいながら、「お市の方」にとっては平穏な日々が続きました。

しかし【1582年】、本能寺で信長が「明智光秀」に攻め滅ぼされ、「お市の方」の平穏な日々は終わりを告げてしまったのです。

「本能寺の変」の後、明智光秀を討った「羽柴秀吉」が織田家家中での発言力を強めることになります。織田家の所領や家督をどうするかについて信長の次男「信雄」と三男「信孝」が争うスキに、「羽柴秀吉」と「柴田勝家」が信長の孫「三法師」を後継者に決定。

この織田家の所領と家督をどうするか・・という話し合いを「清州会議」と言いますが、この「清州会議」で「お市の方」は「柴田勝家」と再婚することが決定したと言われています。

《柴田勝家》
『引用元ウィキペディアより』

お市の方の前半生は不明な点が多く逸話も少ないのですが、「戦国一の美女」であり、兄「信長」に「男であれば優秀な武将になった」と言われるほど、聡明で豪胆な性格だったと考えられます。


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織田信長との関係とは?二人は兄妹だったが敵味方に別れて戦った

「お市の方」・・夫の死と同時に「織田家」へ帰還

学者によっては、信長の従姉妹ではないかとも言われる「お市の方」ですが、恐らくは信長の同母妹です。

「浅井長政」との同盟のため、信長は政略結婚でお市の方を嫁がせました。

しかし越前の「朝倉義景」を信長が攻めた際、浅井長政は政略結婚による義兄弟の関係より、長年にわたる浅井家と朝倉家との同盟関係を重視。織田信長を背後から攻めたのです。

こうして織田家と浅井家の同盟関係は終わりましたが、それ以降も「長政」と「お市の方」の間には子供が生まれており、「お市の方」の浅井家での扱いや立場が悪くなることはなかったのです。

その後【1573年7月】、信長は朝倉義景を攻め滅ぼし、ついで浅井長政の居城である小谷城を包囲しました。

同年8月27日】に父「久政」が自害し、「長政」も【9月1日】に自害したと、近年の研究で判明しています。

小谷城の落城によって、織田家家臣に保護された「お市の方」は尾張に戻りました。


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「お市の方」は兄「信長」を恨んでいたのか?

さて、実の兄妹で敵味方に分かれて戦うことになってしまった信長とお市の方ですが、「お市の方」は信長のことを恨んでいたでしょうか?

私は恨んではいなかっただろう、と思います。

現代の私達の感覚から考えれば、夫を殺した兄を許せるはずもありませんよね。

しかし戦国の乱世で生きた武将やその家族の価値観は、現代の私達のそれとは全く異なるものでした。

戦国の武将やその家族にとって、まず「家系の存続」が大切だったはずです。

今日の味方が明日は敵・・・という戦国の世に、兄が夫を殺したからと恨み続けていたのでは、自分だけでなく浅井家の血を引く娘たちも危険に晒しかねません。

お市の方は、浅井家の血を絶やさないためにも、娘たちを守る必要があったのです。

生き延びるために、兄「信長」をいつまでも恨み続けてはいられなかったでしょう。

また、政略結婚で嫁いだ女性たちは「実家の外交官」であると同時に「スパイ」でもありました。

例えば「伊達政宗」の母「義姫」も、夫「伊達輝宗」と兄「最上義光」が戦を起こした時、戦場の夫の元に駕籠で乗り込み、夫に撤兵をさせ、兄と実家「最上家」の窮地を救っています。

後世の創作とも言われる「お市の方」が信長に小豆袋で「袋のネズミ」状態を伝えたのも、実家と兄の窮地を救うためでした。

婚家のほうが大切なら、信長の窮地を知らせてやる必要はなかったのではないでしょうか。


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「お市の方」は夫「浅井長政」にあきれていた?

お市の方は、恐らく夫「長政」と兄「信長」の関係を修復しようとしたのでしょうが、それが叶わず、後に小谷城は落城しました。

小谷城落城の際に、信長は再三使者を送り、長政に降伏を迫りました。しかし長政はその「降伏勧告」を一切受け入れようとしませんでした。

これは私個人の考えですが、お市の方は内心、「朝倉義景を攻めない」という約束を破った信長を、朝倉亡き後もいつまでも意固地に拒み続ける「長政」に対して、あきれていたのかもしれません。

長政の意固地な姿勢は「家系の存続」「戦国の乱世を生き延びる」という目的と全く真逆。まさに「滅びの道」なのですから。

この「家系の存続のため」という動機は、後の「お市の方」の最期にも見ることができます。

尾張に戻ったお市の方は、初め叔父「信次」に保護され、信次の戦死後は信長の元に身を寄せ、約9年の間、贅沢に過させてもらい、穏やかな時間を過ごしました。

初めは兄「信長」に対しわだかまりも抱いていたでしょうが、「お市」は聡明な女性でもあったそうですから、頭を切り替え、娘たちを守ることを第一に考えるようになっていたのでしょう。

信長に恨みを抱かず、穏やかに過ごしていた「お市の方」の運命は、「本能寺の変」でまたしても、大きく狂い始めます。


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豊臣秀吉との関係とは?秀吉や柴田勝家は、お市の方に恋をしていた?

「本能寺の変」で兄「信長」が重臣「明智光秀」に滅ぼされました。その明智光秀を討ち取った「羽柴秀吉」が織田家家中で発言力を増す中、「お市の方」は清須会議で柴田勝家に嫁ぐことが決まりました。

本能寺の変の4ヶ月後、岐阜城で勝家との婚儀を行った「お市の方」は、勝家のすすめにより京都「妙心寺」で兄「信長」の百か日法要を執り行っています。

勝家の居城である越前「北之庄城」に移り住んだ後、勝家と秀吉が対立するようになってしまいました。

「勝家」は「お市」をどう思っていた?2人の辞世の句とは

1583年4月】、織田家家臣団を二分する大きな戦が起きます。

「賤ヶ岳の戦い」と呼ばれるこの戦いで、勝家と秀吉が激突。羽柴秀吉が勝利しました。

勝家は賤ヶ岳から居城「北之庄城」に逃げましたが、秀吉に包囲されます。

勝家は「お市の方」に城から出るように勧めますが、「お市の方」は首を縦に振りませんでした。

三人の娘たちを助命するよう秀吉に書状を送り、自らは勝家とともに自害する道を選んだのです。


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3人の娘に「織田と浅井の血を絶やしてはならない」と言い聞かせ、北之庄城から逃した後、お市の方と勝家は辞世の句を残します。

「さらぬだに 打ちぬる程に 夏の夜の 夢路を誘う ほととぎすかな」

一方、夫の柴田勝家が残した「辞世の句」は以下の通り

「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲居にあげよ 山ほととぎす」

どちらが先に詠んだのかはわかりませんが、どちらかが先に詠み、その句に対する返歌として詠まれたものでしょう。

どちらの歌にも「夢路」「ほととぎす」「夏の夜」という言葉が入っていますね。

柴田勝家とお市の方は「25歳」ほど年齢が離れています。

ここまで年齢差があると、夫婦というより親子ですね。

この再婚は、柴田勝家の織田家家中での発言力を高めるためのものでした。勝家が織田家の中で特別扱いされていた「お市の方」の庇護者となることで秀吉に対抗する、という政治的な意味合いが強かったのかもしれません。

しかし勝家がお市の方と再婚したのは、主君である「織田信長」亡き後、その後の身の処し方に困っていた主君の妹を、庇護者として引き取る・・・という同情の意味合いも強かったのでしょう。

年齢差がありすぎるので夫婦関係があったのかどうかはわかりませんが、それでも運命を共にし、辞世の句に共通した言葉を使った「勝家」と「お市の方」の間には、精神的な結びつきは強くあったのでしょう。


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秀吉の「お市の方」への想い。娘「茶々」を側室にした執念

一方「羽柴秀吉」は「お市の方」に恋い焦がれていた・・・・と言われています。

それならば、清州会議の時に自分が「お市の方」の再婚相手として立候補すれば良いではないか・・・と思われるかもしれませんね。

しかし羽柴秀吉は浅井長政の長男「万福丸」を槍で串刺しにして殺した男です。

しかも身分の低い階級に生まれた秀吉を、「お市の方」はもともと快く思っていなかったと言われています。

清州会議のとき、秀吉と再婚・・・などと言われたら、「お市の方」は全力で拒否したかもしれません。

それでも夫「勝家」が「秀吉」に攻め滅ぼされるにあたり、3人の娘を秀吉に託したのは、織田家家中で一番力を持ったのが「秀吉」だと認めざるを得なかったからでしょう。

3人の娘に流れる織田と浅井の血を絶やさないためには、秀吉のことを「嫌いだ」とか言っている場合ではなかったのです。

「お市の方」が娘たちを助けるために選んだ最善の策。それは「大嫌いな秀吉に託すこと」でした。

お市は、勝家からの「城から出るように」という勧めにも、秀吉からの「城を出るように」という勧めにも従わず、勝家とともに滅びることを選んだのです。

織田と浅井の血を絶やさぬために娘たちは託しても、自身は大嫌いな秀吉に身をあずけることを潔しとしなかったのだと考えられます。


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「側室えらび」に見える秀吉の「コンプレックス」

ちなみに「秀吉」は「お市の方」を諦めることが出来なかったのでしょう・・・。「賤ヶ岳の戦い」の後、お市の方の長女「茶々(淀殿)」を側室とするのみならず、主君であった「織田信長」の2人の娘を側室としています。

一説によると、秀吉は自分が身分の低い出であることを自覚していたのだとか・・・。そのため「信長」や「お市」の娘を側室として、自身の子供に「高貴な血」を継がせようとしたのではないでしょうか。

秀吉の側室には、あの「足利尊氏」の親友「佐々木道誉(京極高氏)」の末裔である「松の丸殿」もいます。京極家といえば、名門中の名門ですからね。(「松の丸殿」は、秀吉の家臣「京極高次」「京極高知」の姉。しかも母は「浅井長政」の姉「京極マリア」。つまり「松の丸殿」は「浅井長政」や「お市の方」の姪にあたり、「茶々(淀殿)」とはいとこ同士)

秀吉は自分の出自に強烈なコンプレックスを抱いていたのでしょうね。


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『お市の方』について「ひとこと」言いたい!

北之庄城の落城にあたり、3人の娘を「羽柴秀吉」に託した「お市の方」・・・。その3人の娘の中で、一番顔立ちが「お市の方」に似たと言われているのは「茶々」でした。

茶々は長じて、【1588年】に秀吉の側室となります。

よりにもよって・・・という感想が浮かびますが、「茶々」は「秀吉」との間に「秀頼」をもうけ、豊臣家の中で実権を握っていきました。

しかし秀吉は正室の「ねね」との間だけではなく、他の側室との間にも子供は生まれていません。

このことから「秀頼は秀吉の実子ではなく、茶々の乳兄弟・幼馴染である『大野治長』の子ではないか」と考えられています。


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実際に「茶々」が「秀頼」を身ごもったとき、秀吉は「朝鮮出兵」のため、九州の名護屋城に滞在していました。しかも秀吉が朝鮮出兵から畿内へ戻ると、大坂城内の人間が何人も処分されています。秀吉自身にも「秀頼」は実子ではない・・という自覚はあったのでしょう。

しかし、かつて恋い焦がれた「お市の方」によく似た「茶々」を身代わりのように娶っていた秀吉には、信長の姪でもある「茶々」を処分することなどできなかったのだと思います。

一方、茶々は義父「勝家」の敵である天下人「秀吉」の政権に深く食い込み、実権を握ります。

しかし「関ヶ原の戦い」以後の「茶々」の動きを見ると、結果として豊臣家に不利な状況を作り出す行動が多くなっていきました。

筆者が子供の頃「関ヶ原の戦い」から「大坂冬の陣・夏の陣」にかけての歴史を読んでいて「茶々は豊臣家を滅ぼしたかったのかしら・・・」と思ったことがあります。

「織田と浅井の血を絶やすな」とお市の方に言い含められたことを忘れたのかな?・・とも思ったものです。

あくまでも私見ですが、「茶々」が別の男性との子供を「実子」として秀吉に認めさせたのは、秀吉に対する復讐だったのかもしれません。


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こうして、茶々に伝わった「織田と浅井の血」は絶えました。

秀吉の武将「京極高次」に嫁いだ次女「初」は実子に恵まれず、「初」に伝わった「織田と浅井の血」も絶えたのです。

しかし3女「江」だけは姉たちと違いました。最初の結婚相手「佐治一成」とは秀吉により離縁させられてしまいます。

「江」が次に結婚したのが秀吉の甥「羽柴秀勝」。

この「羽柴秀勝」との間に「完子(さだこ)」という子供をもうけますが、夫「羽柴秀勝」が朝鮮出兵で戦死。死別してしまいます。

その後「江」は「徳川家康」の三男にして後継者「徳川秀忠」と再婚。

「秀忠」との間に「2男5女」の子宝に恵まれています。「江」は三代将軍「徳川家光」を産んでいます。しかも「江」の五女「和姫」は「後水尾天皇」へ嫁ぎ、のちの女帝「明正天皇」を産んでいます。

江が産んだ「徳川家光」の血筋は、徳川幕府7代将軍「徳川家継」を最期に断絶します。


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しかし「お市の方」から「江」へと繋いだ血統は「江」と「羽柴秀勝」との間に生まれた娘「完子」を通じて現代にもつながっています。

「完子」の血筋は五摂家のひとつ「九条家」に受け継がれているのです。

大正天皇の皇后陛下はその「九条家」出身ですから、「お市の方」は昭和天皇の祖先の1人ということです。

お市の方が願った「織田と浅井の血を絶やすな」という願いは、末娘の「お江」が見事に果たしたのです。

「家系図の引用などはご遠慮くださいませ」

 

「家系図の引用などはご遠慮くださいませ」

 


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 「お市の方」は、織田信長に似て頭脳明晰で豪胆さをあわせ持った女性。兄・信長からは「男だったら優秀な武将になれた」と評価されるほどだった
  2. 織田信長とお市の方は、同父母の兄妹。お市は信長の同盟者「浅井長政」に嫁いだが、後に織田・浅井が戦うことになると、お市の方は浅井についた
  3. 秀吉は「お市の方」に好意を抱き、憧れていたといわれている。「柴田勝家」も好意を抱いていたとか。秀吉は「お市」と「浅井長政」の長女「茶々」を側室にして「鶴松」「秀頼」を産ませた

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この記事を短くまとめると、以下の通り

「お市の方」は、「織田信長」の13歳年下の同母妹です。

戦国一の美女と言われ、兄「信長」から「男なら優秀な武将になった」と言われるほどに聡明で豪胆な性格でした。

前半生ははっきりしていませんが、21歳のとき、織田家と浅井家の同盟のため、「浅井長政」に嫁ぎます。

政略結婚でしたが、長政とお市の方の仲は睦まじく、3人の娘に恵まれました。

しかしその幸せは長く続かず、夫と兄が争う事態となり、長政は信長に攻め滅ぼされます。

長政亡き後、「お市の方」は信長の元で9年ほど平穏な日々を過ごしましたが、「本能寺の変」で信長が「明智光秀」に滅ぼされたことで、その平穏な生活は一変します。


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本能寺の変の直後、「お市」は清州会議を経て「柴田勝家」と再婚することに・・・。

再婚から1年後、「羽柴秀吉」と織田家家中での覇権争いをした夫「勝家」は、「賤ヶ岳の戦い」で秀吉に敗北。北之庄城に逃げ込みました。

勝家は「お市の方」に三人の娘を連れて城を出るように勧めますが、お市の方は拒絶。娘3人を「織田と浅井の血を絶やすな」と言い含めて逃したものの、自らは勝家とともに自害します。

享年37歳。

お市の方の「織田と浅井の血を絶やすな」という願いは、3女「江」によって体現され、現代の皇室にその血が受け継がれています。

《浅井長政・自刃の地》
『引用元ウィキペディアより』

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

「お市の方の家系図まとめ!娘や子供たちのその後と旦那・結婚相手について」の記事はコチラ
「織田信長の家系図と子孫を解説!「きちょう」こと濃姫との子供とは?」の記事はコチラ
「浅井長政の子孫は現在東京にいる!織田信長に戦いを挑んだ2つの理由」の記事はコチラ
「徳川秀忠の母や正室・子供達をご紹介!なぜ側室がいなかったのか?」の記事はコチラ

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