真田幸村の本名と名前の由来をカンタン解説!「二人の名将」との因縁

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大阪市三光神社の真田幸村像:TECHDさんによる写真ACからの写真

「真田幸村」という武将の名前が、「実は本名ではない」と知っている人は、意外に少なかったかもしれませんね。

実は私も『真田十勇士』にハマって「真田家」について詳しく調べるまで、その事実を知りませんでした。

「真田幸村」の本当の名は『真田 左衛門佐 信繁さなだ さえもんのすけ のぶしげ』というのです!

この記事では、「真田幸村」についてあまり詳しくない人に向けて、わかりやすく解説していきます。

これを読んで「そうだったのか、幸村の本名!」と、スッキリと疑問を解消してくださいね。


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この記事を短く言うと

  1. 名将「真田幸村」の本名は「真田 左衛門佐 信繁」であり、「幸村」という名前を名乗ったことは一度もない
  2. 「真田幸村」という名前は、江戸時代の軍記物で広まったもの。「幸村」という名前は、父「昌幸」と妖刀「村正」から一字ずつもらった・・・または兄「信幸」姉「村松殿」から一字もらった、という2つの説がある
  3. 本名の「真田 左衛門佐 信繁」という名前は、信繁の伯父「真田左衛門佐信綱」から「左衛門佐」、「武田信玄」の弟「武田信繁」から「信繁」、それぞれの名前をもらって「左衛門佐 信繁」と名乗ったという説がある

真田幸村の本名は「左衛門佐 信繁」!「幸村」と名乗ったことはない

「真田幸村」という名前、実は本名ではありません。

世間一般では「真田幸村」という名前が通用していますが、「真田幸村」の本名は

「真田 左衛門佐 信繁」

(さなだ さえもんのすけ のぶしげ)

と言います。


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NHKの大河ドラマ『真田丸』のおかげで、「真田信繁」こそが「真田幸村」の本当の名前だ・・・・ということについて、以前より認知度があがったかもしれません。

しかし私が子供の頃は「幸村=信繁」と知っている人のほうが少なかったと思います。

私は子供の頃『真田十勇士』にハマり、「真田家」について詳しく調べてみようと考えました。

さっそく、図書館で真田家の歴史について書かれた書籍を読んでみると・・・。

父「真田昌幸」、兄「真田信幸」の名前に続いて、出てくるのは「信繁(のぶしげ)」という名前・・・・。

「信繁って誰だろう・・・・。」

弟「幸村」と兄「信幸」以外にも兄弟がいたのかな?と思いながら読み進めるうちに、「信繁」という人物が「幸村」のことであると気づきました。

この記事では、ココから「幸村」のことを「信繁」と記述しますね。


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実は「信繁」、生涯ただの一度も「幸村」と名乗ったことがありません!

「幸村」という署名の入った書状が「2通」残されていますが、【後世の贋作】だと判明しています。

しかし、あまりにも「幸村」という名前が広まってしまったため、「真田家」は江戸時代に徳川幕府から「幸村というのは何者か」と問いただされてしまいました。

真田家は

「信繁のことだと思います」

と返答したという記録が残っています。


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本人が一度も名乗ったことがない「幸村」という名前が、こんなに広まってしまったのはなぜでしょう?

1571年】に「比叡山焼き討ち」をした「織田信長」。

この焼き討ちを非難した「武田信玄」からの書状に「第六天魔王・信長」と書いた返書があります。

その書状によって「信長=魔王」というイメージができてしまったような・・・そんな出来事が「信繁」に起こったわけでもないのです。

では「真田信繁」が「真田幸村」と呼ばれるようになった理由は、一体何だったのでしょう?


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「幸村」という名前はどこから来た?姉と兄から1字ずつもらった?

実は「幸村」という名前は、江戸時代に書かれた「軍記物」によって広まったのです。

「大坂夏の陣」から約60年後・・・・つまり「真田信繁」が戦死してから60年後に発行された軍記物で、信繁が「左衛門佐幸村(さえもんのすけ ゆきむら)」と名乗りを上げているシーンが、文献上の「幸村」の初出だと言われています。

軍記物の作者は、なぜ信繁に「幸村」という名前を与えたのでしょう?

「真田信繁」の名は父「真田昌幸」が、主君「武田信玄」の弟「武田信繁」のような勇猛な武将になってほしい・・・と願い名付けたものです。

ところが軍記物の作者は、「武田信繁」と「真田信繁」の名前が同じでややこしいからと、「真田信繁」に別の名前をつけて軍記物を書き進めてしまったのでした。


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「幸村」と言う名前は、どのようにして作られたのか?

おそらくですが、信繁の父「昌幸」から「幸」の一字を取り、さらに徳川家に対抗するアイテムとして妖刀「村正」が作中で採用されているため、その「村正」の「村」の一字を取り、あわせて「幸村」と名付けられたのではないか・・・と言われています。

つまり父「真田昌幸」の「幸」と、妖刀「村正」の「村」をあわせて「幸村」というわけです。

一説には、信繁の愛刀は「村正」だったとも言われています。しかし当時の史料からは確認できていません。

逆に実際に村正を愛用していたのは、「徳川家康」の方なのです。

家康は、太刀と脇差の両方を「村正」で揃えていました。

家康愛用の「村正」は、家康の九男「徳川義直」の尾張徳川家が相続。村正の「脇差」は大正時代に売却されましたが、太刀は今でも尾張徳川家が所蔵。名古屋の「徳川美術館」に展示されることもありますよ。

徳川家康の愛刀から一文字、というのは・・・なんだか変な話ですよね。


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「幸村」という名前の由来について、もう一つの説があります。

その説では、父「昌幸」と兄「信幸」の「幸」の字と、信繁の姉で通称「村松殿」の「村」の字を取って「幸村」と名付けたのではないか・・・というものです。

軍記物の作者が、家康の愛刀が「村正」だったことを知らなかったのかもしれませんが、妖刀「村正」よりもこちらのほうが納得できる気がします。

真田家は「関ヶ原の戦い」で父「昌幸」と「信繁」が西軍の「石田三成」に味方しています。対して兄「信幸」が東軍の「徳川家康」に味方することで、どちらが勝っても真田家が存続するように図りました。

「関ヶ原の戦い」で西軍が敗北し、「昌幸」と「信繁」も処罰されそうになりましたが、「信幸」必死の助命嘆願により、「昌幸・信繁」親子は和歌山に流罪とされることで赦(ゆる)されたのです。

和歌山に流刑となった父と弟のため「信幸」は、家康の監視の目をかいくぐり、経済的に支援し続けました。

しかし「徳川家康」に恭順を示すため、信幸は父からもらった「幸」の字を「之」と変え、「信之」と改名。

それでも和歌山流刑中に亡くなった父「昌幸」の葬儀を営むことを、最期まで赦されなかったのです。

東軍の武将として生き残り、家康のつくった幕府で大名の1人となった後も、「信之」は辛い思いをし続けたのです。


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本名「真田左衛門佐信繁」!名前の由来となった『二人の名将』

「真田 左衛門佐 信繁」の名前の由来となった武将は、2人います。

「真田信綱」と「武田信繁」の2人です。

真田信綱

1人は「信繁」の伯父にあたる「真田 左衛門佐 信綱」。

信綱は「武田信玄」とその子「武田勝頼」父子2代にわたって仕えた武士。武田二十四将の1人でもある勇猛果敢な武将です。

武田信玄に仕えた信綱の父「真田幸隆」から家督を受け継ぎ、真田家の頭領となりました。

しかし【1575年】、武田軍と織田・徳川軍が激突した「長篠の戦い」で、次兄の「真田昌輝」とともに戦死。

信繁の父「昌幸」は「真田幸隆」の三男で、家督を継ぐ可能性もなかったことから、真田家血縁の武藤家の養子となっていました。

しかし長兄「信綱」と次兄「昌輝」の戦死により、急遽真田家に戻り、家督を相続。

昌幸は長兄「信綱」を強く尊敬していました。そのため我が子「信繁」にも、兄「信綱」のような武将になってほしいという願いを込めて「左衛門佐」の名を与えたのです。


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武田信繁

さらに昌幸は、次男のために「武田信玄」の弟「武田信繁」の名をもらいました。

「武田信繁」もまた、勇猛果敢な優秀な武将として知られています。

もともとは「武田信玄」「武田信繁」兄弟の父「武田信虎」は、兄「信玄」を廃嫡し、弟「信繁」に家督を継がせるつもりでいたようです。

しかし廃嫡を実行する前に、信虎は信玄によって追放されています。

1561年】・・・「第4時川中島の戦い」で弟「武田信繁」は戦死。

『武田信玄』は、弟『信繁」の遺体を抱きかかえ号泣。信繁を討ち取った『上杉謙信』も、「武田信繁」の死を惜しみ悼んだと言われています。

昌幸は息子「真田信繁」に、伯父「信綱」のように・・・・また「武田信繁」のように、立派な武将となってほしいと願い、二人の名前をあわせて「左衛門佐 信繁」と名付けたのです。

後世、尊敬する人にあやかった名前をつけられた次男が、「幸村」という似ても似つかない名前で呼ばれるようになります。

それが定着することなど、父「昌幸」は夢にも思っていなかったことでしょう。


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『真田幸村』について「ひとこと」言いたい!

1615年】の「大坂夏の陣」・・・・・「真田信繁(幸村)」は、宿敵「徳川家康」の本陣に2度も攻め込みました。それに対して「家康」は2度自害を覚悟したと言われています。

しかし「豊臣秀頼」に出馬を要請するため大坂城へと向かった「大野治長」が、「秀頼の馬印」を持ったまま大坂城に戻ろうとしたことで、大坂方(豊臣軍)に「秀頼公が退却を開始したのか?敗戦したのか!」と動揺が走りました。

家康はこの機会を逃さず、反撃を開始。

「真田信繁」は、2度も家康を追い詰めながら、逆に撤退せざるを得ない状況になります。真田軍が撤退するのを見た「毛利勝永」軍も撤退。豊臣軍は総崩れとなって敗北が決定。

このとき逃れた信繁は、四天王寺近くで越前松平家「松平忠直(家康の孫)」の家臣「西尾宗次」に見つかり討ち取られた・・・と言われています。


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しかし「別の説」もあります。

実はこのとき、家康は信繁に討ち取られていた・・・・というのです。【1616年】まで生きていたのは「家康の影武者」で、「真田信繁」は「西尾宗次」に討ち取られることなく逃亡。鹿児島で島津家の庇護のもと子孫を残した、というものです。

大坂にはその時、真田信繁に討ち取られた「家康の墓」が存在し、その墓がある寺院には江戸時代、家康の子「徳川秀忠」と孫「徳川家光」が参拝したという記録が残っているそうですよ。

また鹿児島には「真田信繁」のものと伝えられる『名前が刻まれていない墓標だけの墓』があるのだとか。

滅ぼされた武将には、このように落ち延びたという伝承が何かしら残っているものです。

しかし信繁の場合、地元「信州」の女性との間に隠し子が生まれ、その子が嫁いだ先で子孫を残し、そこから始まった家系が今現在も続いていると言われています。

その家系の墓所には、真田家の家紋である『六文銭』が刻まれているのだとか。

「源義経」や「明智光秀」などの他の武将が生き延びた話より、信繁が生き延びた話は、信憑性が高いように思えるのですが、さてどうでしょう?


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 「真田幸村」の本名は「真田 左衛門佐 信繁」であり、「幸村」という名前は後世の創作
  2. 「真田幸村」という名前は、江戸時代の軍記物で広まったもので、「真田昌幸」「村正」から一字ずつ、または兄「信幸」姉「村松殿」から一字ずつもらったというせつがある
  3. 「真田幸村」の本名「真田 左衛門之佐 信繁」という名前は、伯父「真田 左衛門佐 信綱」と「武田信繁」からもらった名前・・・という説がある。

この記事を短くまとめると、以下のとおり

『真田幸村』という名前は本名ではありません。

本当は『真田左衛門佐信繁』といい、本人が生前「幸村」と名乗った事実もないのです。

「幸村」という呼び名がこれだけ世間に広まったのは、江戸時代に刊行された軍記物で信繁のことを「幸村」と呼び習わしたからでした。

「幸村」という呼び名は、おそらく信繁の父「真田昌幸」と、妖刀と噂された刀の「村正」から1文字ずつとって名付けられた、と言われています。

別の説では、兄「信幸」と姉「村松殿」の字を1字ずつとって名付けられた、とも言われています。

信繁の名の由来は、伯父の「真田 左衛門佐 信綱」と、祖父「真田幸隆」の主君「武田信玄」の弟「武田信繁」。この2名の勇猛果敢な武将にちなみ名付けられました。

信繁には「大坂夏の陣」後に鹿児島に落ち延び、そこで子孫を残した・・・・という説があり、子孫だと言われている家系は今も続いています。

大阪市天王寺公園茶臼山:kimtoruさんによる写真ACからの写真

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

「【真田幸村】最後の地『安居神社』はどこ?最後の戦いは超壮絶だった」の記事はコチラ

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