MENU

松下村塾塾生・門下生一覧!吉田松陰の教えは超過激で弟子は優秀だった

吉田松陰の塾・松下村塾の「門下生」と「教育方法」を、わかりやすく解説いたします。

久坂玄瑞・高杉晋作・吉田稔麿・入江九一など「松下村塾四天王」と呼ばれた秀才たちを輩出した「松下村塾」

教育方法は「行動を重視させること」「自らの志を見つけさせること」

歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 吉田松陰は、松下村塾で「一君万民」「草莽崛起」などの思想を教えていた
  2. 松下村塾では、明治政府を支える数々の偉人が学んでいた
  3. 塾生たちは、その後「元老」や「日本の首脳(首相や大臣)」となっていった

スポンサーリンク


目次

松下村塾塾生一覧

松下村塾には「門人帳」のような明確な記録が残っていないため、明確な数字を得ることができません。

ですが、松陰が指導した松下村塾の塾生数が、92名であったことは京都大学名誉教授・海原徹氏の調査で明らかにされています。

吉田松陰
引用元ウィキペディアより

その門下生や塾生の氏名を、【松下村塾四天王】以下は順不同で、合計29名を紹介します。

高杉晋作たかすぎしんさく

1839年〜1867年。

高杉晋作
引用元ウィキペディアより

松下村塾の四天王の一人。また、松下村塾三秀の一人にも数えられています。

久坂玄瑞と並び「松下村塾の双璧」と呼ばれるほど、同塾を代表する人物。

松下村塾出身者の中でも、もっともその名を知られた人物でしょう。

身分や階級にこだわらず、志ある者を集めて『奇兵隊』を結成。

長州藩が、四カ国連合艦隊に敗れた『馬関戦争』では、彦島の租借そしゃくを要求するイギリスに対して、【日本は神の国であるからそれはできない】ということを、古事記を暗唱することで伝えるとともに煙に巻き、彦島租借の阻止に成功。(このとき高杉は急遽名前を宍戸桂馬ししどけいまに変え、家老に就任して交渉に当たった)

功山寺決起での奇跡的な勝利は、明治維新を大きく加速させています。

第二次長州征伐で幕府軍を撃破したものの、肺結核のため、明治という新しい日本を目の当たりにすることなく、亡くなっています。

享年27歳。

→→→→→【高杉晋作の死因と最期】についてくわしくはこちら


スポンサーリンク

久坂玄瑞くさかげんずい

1840年〜1864年。

久坂玄瑞
引用元ウィキペディアより

松下村塾四天王の一人。また、松下村塾三秀の一人でもあります。

高杉晋作と並び「松下村塾の双璧」と呼ばれた秀才で、松下村塾を代表する重要な人物でした。

吉田松陰の妹である「文」の最初の夫であり、吉田松陰の義弟にあたります。

学問や剣術に優れ、美男子としても知られる秀才でした。

早くから松陰先生と手紙のやり取りをしており、その才能を見込まれ「長州第一の俊才」と呼ばれていたほどです。

久坂玄瑞は、下関戦争・八月十八日の政変・池田屋事件などで力を失った長州藩を立て直す必要に迫られます。

八月十八日の政変で、京都を追われた長州藩の汚名返上のため、久坂玄瑞たち長州軍は京都へ進軍。

しかし、禁門の変(蛤御門の変)で薩摩・会津連合軍に敗れ、同じく松下村塾四天王の一人である入江九一らとともに自害。

享年25歳。

→→→→→【久坂玄瑞の子孫と家系図】についてくわしくはこちら

吉田稔麿よしだとしまろ

1841〜1864年。

松下村塾四天王の一人。松下村塾三秀の一人。

高杉晋作の「奇兵隊」に参加。

高杉は吉田を高く評価し、山縣有朋と吉田稔磨を比較して

『吉田が座敷にいるのならば、山縣は玄関番ですらない。クソも味噌も一緒にするとは、このことだ』

と言って笑ったといいます。

彼は幼少期から真面目で無口であり、また、眼光鋭い少年だったと伝わっています。

「高杉晋作は、野牛。誰も止められない。

久坂玄瑞は、烏帽子。公家のような風格がある。

入江九一は、木刀。斬れぬが脅しにはなる。

山縣(有朋)は、棒切れ。何の取り柄もない」

と言って各人を評価した逸話は有名です。

暴走した長州藩・奇兵隊が、幕府の軍艦・朝陽丸を襲撃し占拠した『朝陽丸事件』が勃発した際に、吉田は活躍しています。

烏帽子えぼし直垂姿ひたたれすがたで船内に乗り込み、船を占拠した奇兵隊を説得することに成功し、朝陽丸は解放しているのです。

新選組による襲撃である池田屋事件では、会津藩兵と遭遇し、激しい斬り合いの末、討死。

享年24歳。

初代首相・伊藤博文は、のちに吉田のことを「天下の奇才」と評価しています。


スポンサーリンク

入江九一いりえくいち

1837年〜1864年。

松下村塾四天王の一人。高杉晋作の「奇兵隊」にも所属していました。

野村靖の兄。

松陰先生が弱腰の幕府の老中である間部詮勝の 暗殺を企てた際、他の四天王が猛反対する中、入江だけは賛成し、松陰先生から『度胸ある者』と評されました。

禁門の変では、久坂玄瑞部隊の一員として参戦。

久坂が自害した後、久坂から長州藩の若殿様への伝言を頼まれたため、入江は脱出を試みました。

脱出の際に、塀を乗り越えたところで越前藩兵の槍で顔を突かれて戦死。

享年28歳。

伊藤博文いとうひろぶみ

1841〜1909年。

伊藤博文
引用元ウィキペディアより

日本の初代・内閣総理大臣。

常に高杉晋作の側で協力した、高杉の信頼厚い仲間でした。

功山寺挙兵の際には、高杉のもとに一番最初に駆けつけたのが、伊藤博文。

大久保利通が倒れた後、内務省を引き継ぎました。

そして、大日本帝国憲法の発布にも尽力。

現在の中国・黒竜江省のハルピン駅で、韓国の民族運動家・安重根の凶弾に倒れ、亡くなりました。

享年68歳

→→→→→【伊藤博文暗殺の真相】についてくわしくはこちら


スポンサーリンク

山縣有朋やまがたありとも

1838〜1922年。

山縣有朋
引用元ウィキペディアより

久坂玄瑞の紹介で松下村塾に入塾。

入塾が遅れたため、在籍期間はわずか1ヶ月程度。

高杉晋作の功山寺決起では、最後に駆け付けるなど、いつも遅れてやってくる人物でした。(高杉の功山寺決起は、ほとんど自殺行為だったため、一番遅れてきた山縣は、ある意味で常識人であったともいえる)

明治政府では、内閣総理大臣を含む要職を歴任。

天才兵学者・大村益次郎や山田顕義の後継者として、日本陸軍の発展に尽力。

1922年2月1日に亡くなりました。

享年83歳。

品川弥二郎しながわやじろう

1843〜1900年。

品川弥二郎
引用元ウィキペディアより

高杉晋作らと共にイギリス公使館を焼き討ちし、禁門の変にも参戦。

師である吉田松陰からは

『温厚正直、人情に厚く、抜きんでた能力はないが、心が広く奥深い』

と評されていました。

桂小五郎(木戸孝允)とともに、薩長同盟の締結に尽力。

明治新政府の要職も務めましたが、後に選挙に過度に干渉したために辞職を余儀なくされました。(ちなみにこの選挙干渉は失敗に終わった)

1900年、肺炎で病死。

享年57歳。


スポンサーリンク

山田顕義やまだあきよし

1844〜1892年。

山田顕義
引用元ウィキペディアより

近代日本の法整備に尽力。

日本大学と國學院大学の基礎をつくった人物でもあります。

吉田松陰を指導したことでも有名な兵学者・山田亦介やまだまたすけの甥で、叔父から兵学を教えられたといいます。

大叔父は、長州藩の藩政改革に成功した村田清風。

子供の頃のあだ名は「はなたれダルマ」。

禁門の変、馬関戦争、功山寺決起など、長州藩が関与した数々の戦争に従軍。

戊辰戦争でも従軍し、西郷隆盛は山田のことを以下のように評価していました。

  • あの小わっぱ、用兵の天才でごわす
  • 神算鬼謀の将
  • 用兵の妙、神の如し

その兵術の巧みさから、【小ナポレオン】と呼ばれていました。

高杉晋作が亡くなる直前、奇兵隊を任せるべきは大村益次郎、次に山田顕義と指名したといいます。

ナポレオン法典と出会い、法律の重要性を理解し、日本の法整備に力を尽くしたといいます。

明治新政府でも要職を歴任し、1892年11月11日に亡くなりました。

享年47歳。

野村靖のむらやすし

1842〜1909年。

兄は松下村塾四天王の一人である入江九一。

高杉晋作らとともに、イギリス公使館焼き討ちに参加。

その後、明治新政府で要職を歴任しましたが、明治42年には脳溢血により逝去。

享年66歳。


スポンサーリンク

松本鼎まつもとかなえ

1839〜1907年。

松本は明治時代に内務官僚・政治家として活躍した人物です。

長州藩の周防国で生まれ、農家出身。

松下村塾で吉田松陰に学び、長州藩士として禁門の変や御楯隊への参加、第二次長州征伐・戊辰戦争などに従軍。

明治時代には和歌山県知事や衆議院議員、貴族院議員など要職を歴任。

地方の発展や災害復旧事業に尽力。また、男爵に叙爵されています。

享年68歳。

岡部富太郎おかべとみたろう

1840〜1895年。

長州藩士で、尊皇攘夷派の志士。

木戸孝允が幾松と結婚する際に、幾松の養父役を務めた人物。

藩校の明倫館で学び、吉田松陰の松下村塾に入塾しました。

彼は衛撃隊を組織し、馬関戦争や四境戦争、戊辰戦争にも従軍しました。

維新後は山口、大阪、兵庫の各県へ出仕し、明治28年(1895年)に逝去しました。

享年56歳。

正木退蔵まさきたいぞう

1846〜1896年。

教育者であり、松下村塾で学び、維新後にはイギリスに留学しました。

その後は教育に専念し、晩年にはハワイ王国の総領事に就任しました。

明治29年にこの世を去りました。

享年49歳。


スポンサーリンク

前原一誠まえはらいっせい

1834〜1876年。

前原一誠
引用元ウィキペディアより

維新十傑いしんじゅっけつの一人。

高杉晋作や久坂玄瑞たちと共に松下村塾に入塾。

彼の家系は、戦国時代初期に山陰地方を制した戦国大名・尼子家の武将・米原綱寛よねはらつなひろ佐世清宗させきよむねの子孫だといいます。

米原綱寛は、尼子の本拠である月山富田城を守るための、通称【尼子十旗あまごじっき】とよばれる十個の支城の一つである高瀬城の城主だったのだとか。

前原は、高杉晋作の功山寺挙兵や戊辰戦争などにも従軍し、討幕運動においても活躍しました。

明治新政府では徴兵令に反対し、木戸孝允や山縣有朋と対立し、下野。

士族反乱【萩の乱】を起こしましたが鎮圧され、乱の首謀者として処刑されています。

享年42歳。

→→→→→【前原一誠の生涯と子孫】についてくわしくはこちら

飯田俊徳いいだとしのり

1847〜1923年。

日本の鉄道敷設に大きく貢献した明治時代の官僚。

松下村塾だけでなく、大村益次郎からも蘭学を学ぶなど、幅広い教養を身につけました。

また、高杉晋作の奇兵隊にも参加していました。

塾生の中では最年少でありながら、その卓越した才能は師である吉田松陰から、とても称賛されていました。

大正時代まで生き抜き、最後は愛知にある息子の自宅でこの世を去りました。

松下村塾塾生で最年少。

享年76歳。


スポンサーリンク

渡辺蒿蔵わたなべこうぞう天野清三郎あまのせいざぶろう

1843〜1939年。

幼い頃は勉強が嫌いだったとされ、塾生たちからの評判はかんばしくありませんでした。

しかし、その頑固で自説を曲げない姿勢を、師である吉田松陰はおおいに評価したといいます。

幼い頃に天野家へ養子入りし、天野清三郎と名乗っています。

明治維新ののちに渡辺家へ戻って、渡辺蒿蔵と名乗ったようです。

高杉晋作の『奇兵隊』の一員として活躍し、禁門の変にも参戦。

その後、船大工を志し、アメリカへ留学。操船技術者として活動。

松下村塾生の中で最も長寿で、昭和14年まで生き、97歳でこの世を去りました。

松下村塾の塾生の中で、唯一昭和まで生きた人物であり、最後の生き残りです。

松浦松洞まつうらしょうどう

1837年から1862年までの26年間、この人物は魚商人の家に生まれました。

1858年、渡米を試みましたが、師・吉田松陰から

『勤皇倒幕の大事は目前に迫っており、今、海外に出るのは正しい策ではなく、時機ではない』

と反対され、断念。

その後、久坂玄瑞らと共に『長井雅楽』暗殺計画を立てますが断念し、京都の粟田山で自害。

享年26歳。

画家であったためか、師である吉田松陰の絵を残したとのことです。


スポンサーリンク

増野徳民ましのとくみん

1841〜1877年。

医師であり、その後は松下村塾で学びました。

もともと吉田松陰の門人で、松下村塾の創立に協力した人物です。

久坂玄瑞と協力して『長井雅楽』の暗殺計画を試みましたが、計画は失敗に終わりました。

その後は攘夷・倒幕にはあまり積極的に参加することはなかったといいます。

故郷で医師・軍医として活躍し、明治10年に生涯を終えました。

享年37歳。

有吉熊次郎ありよしくまじろう

1842年から1864年までの22年間、この人物は高杉晋作らとともに、イギリス公使館焼き討ちに参加しました。

池田屋事件では新選組の襲撃を受けつつも、なんとか逃亡。その際の様子を長州藩に報告しています。

禁門の変では、久坂玄瑞とともに自害しました。


スポンサーリンク

時山直八ときやまなおはち

1838〜1868年。

高杉晋作の指導のもとで『奇兵隊』に参加し、各地で活動しました。

戊辰戦争で、長岡藩との戦闘中に、顔面に銃弾を受けて討たれました。

享年30歳。

駒井政五郎こまいまさごろう

1841〜1869年。

松下村塾で学び、戊辰戦争にも従軍しました。

その後、戊辰戦争の奥羽および箱館方面で転戦。

箱館戦争で、新選組の生き残りである土方歳三が率いる歩兵隊300人との激しい戦闘の末、銃弾に倒れて討死しました。

享年28歳。


スポンサーリンク

中村精男なかむらきよお

1855〜1930年。

明治・大正時代の気象学者で、中央気象台の第3代台長でした。

気象事業の整備や科学的な気象学の発展に尽力し、日本の理科教育にも寄与。

彼は長州藩士の家に生まれ、若い頃には松下村塾で学び、その後、東京大学の物理学科を卒業。

ドイツ留学を経て、気象学の専門家としての道を歩みました。

公務のかたわら、エスペラントとメートル法の普及にも努め、日本エスペラント学会の初代理事長を務めました。

享年74歳。

現在、多磨霊園にお墓があります。

玉木彦助たまきひこすけ

1841年から1865年まで生きた人物で、玉木文之進の長男として知られています。

吉田松陰のいとこであり、とても仲が良かったといいます。

その縁から元服時から松下村塾に入塾しました。

高杉晋作に従い、功山寺挙兵にも参加しました。

しかし戦闘で負傷し、最終的には自害しました。


スポンサーリンク

飯田正伯いいだしょうはく

1825〜1862年。

34歳で絵松下村塾に入塾。

桂小五郎や伊藤博文とともに、安政の大獄で亡くなった師・吉田松陰の遺骸を引き取ることに尽力。

長州藩の分析掛として銃の管理に携わりましたが、軍用金調達を名目に富豪から金品を強奪。

罪人として幕府に捕縛され、獄中で病死。

享年38歳。

杉山松助すぎやままつすけ

1838〜1864年。

1858年、師である吉田松陰の尊皇攘夷運動に参加。

1862年には京都で活動し、功績が藩主に認められて長州藩士の身分を手に入れています。

1864年、池田屋事件で重傷を負いながらも危険を知らせ、翌日亡くなりました。

享年27歳。


スポンサーリンク

久保清太郎くぼせいたろう

1832〜1878年。

幕末の長州藩士であり、明治時代の官僚。

松下村塾で吉田松陰や玉木文之進に学びました。

1857年、富永有隣の出獄を支援し、吉田松陰を含め3人で、松下村塾を独立させました。

のち藩務に復帰し、要職を歴任。

明治維新の後、山口藩権大参事となり、藩の廃藩置県後は山口県少参事に任命。

その後は日本各地で要職を歴任。

1876年に退官し、東京に転居。

2年ごの1878年に亡くなっています。

享年46歳。

墓は青山霊園にあります。

生田良佐いくたりょうすけ

1837〜1861年。

幼少期から聡明で、妙円寺の勤王僧である月性に指導を受けました。

1858年に吉田松陰の松下村塾に入塾。

安政の大獄で、松陰が計画した暗殺に賛同していたために捕らえられ、弘道館に監禁されました。

松陰の死後、1859年に釈放。長州藩の藩校・明倫館に入学。

しかし、5か月後に眼病にかかり失明し、1861年に亡くなりました

享年25歳。


スポンサーリンク

境二郎さかいじろう

1836〜1900年。

長州藩士であり、明治時代には島根県令を務めた人物です。

斎藤家の次男として生まれ、後に境与三兵衛の養子となり、明治初年に境二郎と改名。

吉田松陰の門人であり、長州藩の権大参事や島根県令などを歴任。

享年65歳。

松陰神社の祭神として敬われています。

宍戸璣ししどたまき

1829〜1901年。

長州藩士から政治家・官僚へ転身し、明治時代には島根県令などを務めました。

吉田松陰の塾に学び、国事に奔走。

尊王攘夷運動への参加や外交交渉、琉球処分における活躍があり、明治維新後も政府で要職を務めました。

晩年は貴族院議員として帝国議会に参加し、明治34年(1901年)に亡くなりました。

享年73歳。

寺島忠三郎てらしまちゅうざぶろう

1843〜1864年。

寺島は、航海遠略策(他国と貿易して富国強兵を目指す策)を主張する長州藩士・長井雅楽ながいうたの暗殺を試みましたが、失敗に終わりました。

その後、禁門の変に従軍し、久坂玄瑞と刺し違える形で自害。

享年21歳。


スポンサーリンク

松下村塾の関係者

木戸孝允きどたかよし桂小五郎かつらこごろう

維新三傑の一人。

吉田松陰の弟子であるとともに、友人でもありました。

木戸は松下村塾生ではありませんが、藩校「明倫館」で松陰から指導を受けていたといいます。

吉田松陰の死後は、藩の若手を率いるリーダーとして活躍。

坂本龍馬や西郷隆盛とともに、薩長同盟を締結させています。

逃げの小五郎という異名を持つ、逃げ上手。

柔術の達人でもあり、悪酔いした黒田清隆を縛り上げたという逸話があります。

最後は、西南戦争で挙兵した西郷隆盛を救うため、病身であるにもかかわらず鹿児島へ向かっています。

「西郷も大概たいがいにせんか!」

と、夢の中で西郷を叱り飛ばして亡くなったといいます。

楫取素彦かとりもとひこ小田村伊之助おだむらいのすけ

吉田松陰の友人であり、義弟。

松蔭の妹・ふみの再婚相手。

ふみの夫である久坂玄瑞が亡くなった後、ふみと結婚。

明治維新後は、群馬県の県令を務めています。

井上馨いのうえかおる

長州藩士。長州ファイブの一人。

明治政府において、大蔵大臣・内務大臣・外務大臣を歴任。

よく勘違いされているようですが、井上馨は松下村塾には入塾していません。

同じく長州ファイブの一人である伊藤博文と仲が良かったといいます。

総理大臣になるよう、天皇から大命が下されたが、大蔵大臣に指名しようとした渋沢栄一がこれを拒絶したため、総理大臣就任を断念。

渋沢栄一がいないと、政権運営に自信がないと言っていたとのことです。

一度も総理に就任せず亡くなっています。

玉木文之進たまきぶんのしん

吉田松陰の叔父であり師。松下村塾の創立者。

幼い頃の松蔭を指導していた人物です。

授業中、顔に蚊が止まったため、顔を叩いた幼い松蔭を叱り飛ばした逸話は有名です。

吉田松陰先生はこの叔父を、生涯にわたって恐れ続けたといいます。

1876年、前原一誠が萩の乱を起こして処刑されると、松下村塾の塾生が多数参加していることの責任を取って切腹しています。


スポンサーリンク

吉田松陰が松下村塾で教えていた思想とは?

松下村塾は松本村という地域において、道徳的に優れた人間を育てることが第一の目的とされていました。

吉田松陰が開いたと思われがちですが、実は天保13(1842)年、松陰の叔父・玉木文之進が開きました。

松陰は、教育の使命について

「君臣の義」(君主と臣下との間で守るべき正しい道)

「華夷の弁」(日本と外国との違いを明確にすること)をわきまえた「奇傑非常の人」(人並み外れた優秀な人物)

を育成することにあると説いています。

松陰が信じていたのは

「いかに生きるかという『志』さえ立たせることができれば、人生そのものが学問に変わり、後は、生徒が勝手に学んでくれる」

というものでした。

そのためか、集団学習を奨励しており「集団でお互いの学習効果を高めるためには、最初にお互いの気持ちや意思が接し、心を通い合わせることが大切で、そうすれば道理や義理も自然と理解できる」と説いています。

集団の一体化による心の通じ合いを重視し、みんなの人間的成長を押し上げることを大切にしました。

それを立証するように、松下村塾ではお互いが意見を出しあう「グループ学習」や「集団作業」「兵学演習」などが頻繁に行われたそうです。

松陰の教えは、明治維新実現の思想的な原動力となりました。


スポンサーリンク

松下村塾は僅か2年間、弟子90人余り。

短い期間にも関わらず、幕末から明治維新において、政治、軍事、学問などの分野において、「維新回天」や「明治の富国強兵」の原動力となる優れた人物を数多く輩出しました。

吉田松陰の思想は、主に下記の4つです。

一君万民論
「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」

飛耳長目
「情報を常に収集し将来の判断材料にせよ」

草莽崛起
「在野の人よ、立ち上がれ」

「草莽(そうもう)」は「孟子」においては草木の間に潜む隠者を指すが、この場合一般大衆を指す。
「崛起(くっき)」は一斉に立ち上がることを意味する。

対外思想
北海道を開拓し、カムチャッカからオホーツク一帯を占拠し、朝鮮を属国として満州、台湾などを領有すべきという、侵略肯定の膨張主義の思想。

松陰は入塾する者に必ず「何のために学ぶのか」を問い、学ぶだけでは駄目で「実行が第一」と伝えました。

「知識」や「やり方」を教えたのではなく、本質とは何か、どう行動すべきか、どう生きるべきかについて、自分の力で考えることを教えました。


スポンサーリンク

 

塾生たちのその後は?

主だった塾生のその後の功績や最期をご紹介します。

伊藤博文

高杉の功山寺挙兵に力士隊を率いて参加。明治維新後は兵庫県知事の後、初代内閣総理大臣となり、以後、第5代・第7代・第10代と4次にわたり内閣総理大臣として内閣を組閣。長きにわたり、国政の発展に貢献した。

明治42年、満州にて安重根に暗殺された(享年69)。

 

山県有朋

奇兵隊軍監として活躍。明治維新後は、明治22年に第9代内閣総理大臣に就任。

明治31年にも第2次山県内閣を発足させた。

山県の松下村塾在塾期間は極めて短かったが、松陰に多大な影響を受け、終生深く畏敬していた(享年85)

 

久坂玄瑞

高杉晋作と並ぶ「松下村塾の双璧」。吉田松陰の義弟。

松陰から「年少防長第一流の人物たり。因って亦、天下の英才たり」と高く評価された英才。

長州藩における尊王攘夷派の中心人物として活躍した。

坂本龍馬中岡慎太郎西郷隆盛など幕末の志士達に多大な影響を与えた。

禁門の変で自刃(享年25)

 

高杉晋作

久坂玄瑞と並ぶ「松下村塾の双璧」。

「功山寺挙兵」により長州藩の藩論を「倒幕」に統一。

その後の第二次長州征伐(四境戦争)でも海軍総督を務め、江戸幕府の倒壊を決定づけた。

結核により明治維新を見ずに逝去(享年27)。


スポンサーリンク

まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 吉田松陰が松下村塾で教えていた主な思想は、一君万民論、飛耳長目、草莽崛起、対外思想も4つ。
  2. 松下村塾の門下生、塾生は、92名に及んだ
  3. 主だった塾生は、その後「日本の元老」や「首脳」を務めていった

松下村塾がどのような思想で教育をしていたか。少しわかってきましたね。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


吉田松陰」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。


スポンサーリンク
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (3件)

  • 山縣有朋ですが、山県有朋と習った世代です。
    ウィキペディアで調べて驚いた山縣有朋が先に書かれている。写真の横には山形有朋と表記されている。さすがに山形有朋はないと思うのだが。

    5行目に戦国武将「武田信玄」の家臣「山縣昌景」の末裔とあるが、他の記事に0最近の研究では関係ないと言われているようですと書かれていましたよ。検討してみてください。

コメントする

目次