【吉田松陰】松下村塾の門下生・塾生一覧!松陰の教えは超過激だった

幕末にたくさんの人材を輩出した名門「松下村塾」

いったいどんなことを教えて、どんな人が在籍したのでしょうか。

松下村塾の門下生を、まとめてみました!


スポンサーリンク

歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

・吉田松陰は、松下村塾で「一君万民」「草莽崛起」などの思想を教えていた

・松下村塾には、明治政府を支える数々の偉人が所属していた

・主だった塾生たちは、その後、元老や日本の首脳となっていった


吉田松陰が松下村塾で教えていた思想とは?

松下村塾は松本村という地域において、道徳的に優れた人間を育てることが第一の目的とされていました。

吉田松陰が開いたと思われがちですが、実は天保13(1842)年、松陰の叔父・玉木文之進(たまき ぶんのしん)が開きました。

吉田松陰

『引用元ウィキペディアより』

松陰は、教育の使命について

「君臣の義」(君主と臣下との間で守るべき正しい道)

「華夷の弁」(日本と外国との違いを明確にすること)をわきまえた「奇傑非常の人」(人並み外れた優秀な人物)

を育成することにあると説いています。

松陰が信じていたのは

「いかに生きるかという志さえ立たせることができれば、人生そのものが学問に変わり、後は、生徒が勝手に学んでくれる」

というものでした。

そのためか、集団学習を奨励しており「集団でお互いの学習効果を高めるためには、最初にお互いの気持ちや意思が接し、心を通い合わせることが大切で、そうすれば道理や義理も自然と理解できる」と説いています。集団の一体化による心の通じ合いを重視し、みんなの人間的成長を押し上げることを大切にしました。

それを立証するように、松下村塾ではお互いが意見を出しあうグループ学習や集団作業、兵学演習などが頻繁に行われたそうです。

松陰の教えは、明治維新実現の思想的な原動力となりました。


スポンサーリンク

松下村塾は僅か2年間、弟子90人余り。短い期間にも関わらず、幕末から明治維新において、政治、軍事、学問などの分野において、「維新回天」や「明治の富国強兵」の原動力となる優れた人物を数多く輩出しました。

吉田松陰の思想は、主に下記の4つです。

一君万民論
「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」

飛耳長目
「情報を常に収集し将来の判断材料にせよ」

草莽崛起
「在野の人よ、立ち上がれ」

「草莽(そうもう)」は「孟子」においては草木の間に潜む隠者を指すが、この場合一般大衆を指す。
「崛起(くっき)」は一斉に立ち上がることを意味する。

対外思想
北海道を開拓し、カムチャッカからオホーツク一帯を占拠し、朝鮮を属国として満州、台湾などを領有すべきという、侵略肯定の膨張主義の思想。

松陰は入塾する者に必ず「何のために学ぶのか」を問い、学ぶだけでは駄目で「実行が第一」と伝えました。

知識ややり方を教えたのではなく、本質とは何か、どう行動すべきか、どう生きるべきかについて、自分の力で考えることを教えました。


スポンサーリンク

門下生・塾生一覧

松下村塾には「門人帳」のような明確な記録が残っていないため、明確な数字を得ることができません。

ですが、松陰が指導した松下村塾の塾生数が、92名であったことは京都大学名誉教授・海原徹氏の調査で明らかにされています。

その門下生や塾生の氏名を、順不同で出来る限り紹介します。

久坂玄瑞 くさかげんずい

高杉晋作 たかすぎしんさく

吉田稔麿 よしだとしまろ

入江九一 いりえくいち

伊藤博文 いとうひろぶみ

山縣有朋 やまがたありとも

前原一誠 まえばらいっせい

品川弥二郎 しながわやじろう

山田顕義 やまだあきよし

野村靖 のむらやすし

正木退蔵 まさきたいぞう

松浦松洞 まつうらしょうどう

増野徳民 ましのとくみん

木戸孝允 きどたかよし(木戸は松下村塾生ではないが、藩校「明倫館」で松陰から指導を受けていた)

寺島忠三郎 てらしま ちゅうざぶろう

有吉熊次郎 ありよし くまじろう

時山直八 ときやま なおはち

玉木彦助 たまき ひこすけ

駒井政五郎 こまい まさごろう

松浦松洞 まつうら しょうどう

渡辺蒿蔵 わたなべ こうぞう

飯田俊徳 いいだ としのり

楫取素彦 かとり もとひこ / 小田村伊之助 おだむら いのすけ

玉木文之進 たまき ぶんのしん (松陰の叔父。松下村塾の創立者にして指導員)


スポンサーリンク

塾生たちのその後は?

主だった塾生のその後の功績や最期をご紹介します。

伊藤博文

高杉の功山寺挙兵に力士隊を率いて参加。明治維新後は兵庫県知事の後、初代内閣総理大臣となり、以後、第5代・第7代・第10代と4次にわたり内閣総理大臣として内閣を組閣。長きにわたり、国政の発展に貢献した。

明治42年、満州にて安重根に暗殺された(享年69)。

山縣有朋

奇兵隊軍監として活躍。明治維新後は、明治22年に第9代内閣総理大臣に就任。

明治31年にも第2次山縣内閣を発足させた。

山県の松下村塾在塾期間は極めて短かったが、松陰に多大な影響を受け、終生深く畏敬していた(享年85)

戦国武将「武田信玄」の家臣「武田四名臣」の一人「山縣昌景」の末裔

久坂玄瑞

松下村塾の双璧。

松陰から「年少防長第一流の人物たり。因って亦、天下の英才たり」と高く評価された英才。

長州藩における尊王攘夷派の中心人物として活躍した。

坂本龍馬中岡慎太郎西郷隆盛など幕末の志士達に多大な影響を与えた。

禁門の変で自刃(享年25)

高杉晋作

久坂玄瑞と並ぶ「松下村塾の双璧」。

「功山寺挙兵」により長州藩の藩論を倒幕に統一。

その後の第二次長州征伐(四境戦争)でも海軍総督を務め、江戸幕府の倒壊を決定づけた。

結核により明治維新を見ずに逝去(享年27)。


スポンサーリンク

まとめ

本日の記事をまとめますと

・吉田松陰が松下村塾で教えていた主な思想は、一君万民論、飛耳長目、草莽崛起、対外思想も4つ。

・松下村塾の門下生、塾生は、92名に及んだ

・主だった塾生は、その後「日本の元老」や「首脳」を務めていった

松下村塾がどのような思想で教育をしていたか。少しわかってきましたね。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


吉田松陰」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

↓↓↓↓↓↓


スポンサーリンク



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする