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【斎藤道三】戦国三大梟雄・美濃のマムシと呼ばれた理由と残した名言

この記事では「斎藤道三」をはじめとする「戦国三大梟雄」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「斎藤道三」や「戦国三大梟雄」を、カンタンに理解できます。

 

「戦国三大梟雄」とは「斎藤道三」「松永久秀」「宇喜多直家」のことです。


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この記事を短く言うと

 

1,「戦国三大梟雄」とは「斎藤道三」「松永久秀」「宇喜多直家」の三名のことを指す

 

2,斎藤道三は、「長井氏」「斎藤氏」「土岐氏」と、主君を次々と破滅させているため、「親の腹を喰い破って生まれる」と信じられていた毒蛇「マムシ」に例えられ、それをあだ名とされた

 

3,斎藤道三は、「自分の息子達は織田信長の家来になりさがる」と予言した。その予言は的中し、道三の息子「斎藤利堯(としたか)」「利治(としはる)」兄弟が、信長の臣下となっている

斎藤道三と「戦国三大梟雄」を解説

戦国三大梟雄(せんごくさんだいきょうゆう)とは

  • 「斎藤道三」
  • 「松永久秀」
  • 「宇喜多直家」

の三人のことです。

 

「梟雄」とは、残酷で荒々しく、とても強い者のことを意味します。

 

この「戦国三大梟雄」は、その「荒々しい強さ」と「ずる賢い頭脳」を駆使して、低い身分から「国を支配する大名」へと成り上がっています。

 

  • 斎藤道三は、「油商人」から「美濃」という国を奪い取りました。
  • 松永久秀は、主君「足利義輝」「三好長慶」を追い落として、「大和」という国を支配しました。
  • 宇喜多直家は、「備前」の国を、主君「浦上宗景」から乗っ取りました。

 

斎藤道三は、娘の「帰蝶」を「織田信長」に嫁がせていました。

 

《斎藤道三》
「引用元ウィキペディアより」

 

このことから、道三は「織田信長の義父」として有名になっています。

 

また、「宇喜多直家」にかわって「北条早雲」を「三大梟雄」に加えることもあるようです。



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なぜ「斎藤道三」は「マムシ」と呼ばれたのか?

斎藤道三は、「美濃のマムシ」と呼ばれていました。

 

道三が、なぜ「マムシ」と呼ばれたのかというと、「主君を次々と倒しているから」です。

 

「下剋上(げこくじょう)」

 

この「下剋上」とは、下の身分の者が、チカラで上の身分にいるものを倒して成り上がることを意味しています。

 

当時「マムシ」は、「親の腹を喰い破って生まれてくる」と信じられていました。

 

斎藤道三は、美濃国の守護代「長井氏」「斎藤氏」そして守護「土岐氏」を次々と討ち果たし、美濃の国を乗っ取ったのです。

 

このことから、「親の腹を喰い破って生まれるマムシのようだ」と噂され、道三は「美濃のマムシ」と呼ばれるようになったのです。

 

その後「道三」は、息子「斎藤義龍」に攻められて死亡

 

「マムシの道三」は、我が子に腹を喰い破られて亡くなるという、なんとも皮肉な最期を遂げたのでした。

 

余談ですが、当時マムシは「口から子供を産む」とも言われていました。

 

当然ですが、「腹を喰い破って生まれる」「口から生まれる」ともに迷信です。



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道三が残した『名言』をご紹介!的中した「織田信長」と「息子」への予言

斎藤道三は「我が子は織田信長に屈して、その家来となるだろう」という予言のような名言を残しています。

 

この予言は見事に的中しています。

 

道三は娘の「帰蝶」を「織田信長」に嫁がせたあと、「正徳寺(聖徳寺)」という寺で信長と会談しています。

 

その時の信長の様子は、とてつもなく見事でした。

 

道三は会談で、織田信長の非凡な才能を見抜きます。

 

そして道三は、家来の「猪子兵介」に対して、こう予言したのでした。

「我が息子達は、いずれあの『うつけもの』の門前に馬をつなぐことになるだろう」

「うつけもの」とは「ばかもの」という意味で、「信長」のあだ名です。

 

この予言は見事に的中します。

 

道三の二人の息子「斎藤利堯(としたか)」と「斎藤利治(としはる)」の二人が、信長の家来になっているのです。

 

この数年後、「道三」は息子「斎藤義龍(高政)」に討たれてしまいます。

 

このとき、美濃国から逃亡した「利堯」と「利治」は、義兄である「信長」につかえています。



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『斎藤道三』の二人の息子「利堯」「利治」について「ひとこと」いいたい

「利堯」と「利治」兄弟はその後、「美濃国侵略」「上洛戦」「一向一揆殲滅戦」などで活躍。

 

織田信長の義弟として、見事にその信頼に応えていきます。

 

二人は最期まで、信長への忠誠をつらぬいています。

 

弟「利治」は、「本能寺の変」で一族の「斎藤利三」に討たれ、織田信長・信忠親子とともに戦死。

 

兄「利堯」は、「本能寺の変」の1年後の「賤ヶ岳の戦い」で信長の三男「信孝」が死ぬと、その後だれにも仕えることなく亡くなっています。

 

斎藤道三が残した「我が子は信長の臣下となる」という予言は、見事に的中しました。

 

しかしそれは決して「信長に屈服する」というような意味ではありません。

 

「利堯」「利治」兄弟は、義兄「織田信長」の臣下として、恥ずかしくない見事な一生を終えたのですから。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「戦国三大梟雄」とは「斎藤道三」「松永久秀」「宇喜多直家」のこと

 

2,斎藤道三は、主君を次々と破滅させているため、「親の腹を喰い破って生まれる」と信じられていた「マムシ」に例えられた

 

3,道三は、「息子達は信長の家来になり果てる」と予言した。その予言は的中し、道三の息子「利堯」「利治」兄弟が、信長の臣下となって活躍。最期まで信長への忠誠を貫いて亡くなっている

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

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ありがとうございました。

 

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