徳川四天王の一人・井伊直政をご存知でしょうか?
42歳の若さで亡くなった直政の死因は「銃創」だけではなかったといわれています。
井伊の赤鬼と呼ばれた猛将・井伊直政を死なせた犯人は、いったい誰なのでしょうか?
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この記事を短く言うと
- 井伊直政の死因は、関ヶ原の戦いで負った銃創のみならず過労も一因といわれている
- 直政を銃撃したのは島津家の家臣・柏木源藤
- 柏木は井伊直政の死後、直政の菩提を弔うため出家し、諸国を旅したらしい
井伊直政の死因と最後とは?
徳川四天王の一人・井伊直政の死因は、鉄砲で撃たれた傷と、過労であるといわれています。
直政は1602年、関ヶ原の戦いの2年後、42歳の若さで亡くなっています。
死因は、銃創
直政は、関ヶ原の戦いで、敗走する「薩摩・島津軍」を猛追撃。
味方を振り切って追撃している最中に、鉄砲で右肘(右肩又は左腕という説も有り)に銃撃を受け、落馬。
この銃創が原因で、徐々に衰弱していき亡くなった・・・と言われています。
しかし、死因はもう一つあるのです
それは「過労」
直政は極度の負けず嫌いだったので、仕事量も半端ではなかったのだとか。
銃創で瀕死の重傷を負っているにもかかわらず、直政は「関ヶ原の戦い」の戦後交渉を各方面に対して行っています。
その結果なのか、真田昌幸・幸村親子は命を救われています。
挙句の果てには、直政を襲撃した「島津家」までも、直政の工作のおかげで、領地の削減なし。
この銃創・心労・過労が重なって、直政は亡くなってしまったのです。
ちなみに直政の娘婿で、家康の四男「松平忠吉」も、関ヶ原の戦いで受けた傷が元となり、1607年に亡くなっています。
直政を撃った犯人は誰?
井伊直政を銃撃した犯人は、一体誰なのでしょうか?
直政は「関ヶ原の戦い」終盤、撤退する「島津軍」を相手に追撃戦を展開。
この追撃戦で、猛将「島津豊久」を討ち取っています。(ちなみに「島津豊久」は、マンガ「ドリフターズ」の主人公)
その島津軍から銃撃を受けて、直政は負傷しています。
直政を狙撃したのは島津家臣・柏木源藤という人物です。
藪の中に身を潜めていた柏木は、鉄砲で井伊直政を狙撃し、落馬させ、主君「島津義弘」の撤退を助けたのです。
その後、「柏木」は薩摩国へ帰還。
直政狙撃という大手柄にも関わらず、その後は貧困に苦しんで武士から町人へと没落。
井伊直政が自分の鉄砲で亡くなったと知ると、供養のために出家したといいます。
実は井伊直政は、島津軍の銃撃が原因で亡くなったにも関わらず、島津家を救うために、徳川家康に対して罪を軽くしてくれるように頼んでくれていたのです。
柏木は、供養のみならず修行の旅にでましたが、二度と薩摩に帰ってくることはなかったといわれています。
鹿児島市南林寺町の寺・南林寺に「柏木源藤」の墓があります。
旅から戻らなかったんじゃなかったのか?と言いたくなりますが、こっそり帰っていたのかもしれません。
→→→→→【井伊直政の最期の様子と死因】についてくわしくはこちら
→→→→→【井伊直政たち徳川四天王の子孫】についてくわしくはこちら
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 井伊直政の死因は「銃創」のみではなく、過労も一因だった
- 直政を銃撃したのは、島津家臣・柏木源藤
- 柏木は、関ヶ原の戦いの後に、町人・・又は僧となった
以上となります。
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