【調所広郷とは】篤姫とどういう関係なのか?生涯年表と壮絶な最後

薩摩藩主「島津斉興」に使えた家老「調所広郷」

その生涯と最期が凄かった!

13代将軍「徳川家定」で、薩摩藩出身「篤姫」との関係とは?


スポンサーリンク

歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

・調所広郷とは、「500万両(約2500億円)」の借金を抱える薩摩藩の財政を立て直した人物

・薩摩藩の家老として、財政を立て直した後、服毒自殺

・篤姫と調所広郷とは、家来と主君の姫・・・という主従関係にあったが、深いつながりはない


調所広郷とは何をした人なの?その功績を解説

幕末の薩摩藩家老「調所広郷(ずしょ ひろさと)」

彼はいったい何をした人なのでしょうか?

≪調所広郷≫
『引用元ウィキペディアより』

調所広郷の功績を解説いたします。

調所広郷の功績

調所広郷の功績を簡単に解説いたします。

・財政難に苦しむ幕末の薩摩藩・・・その財政を立て直した

当時、薩摩藩は「500万両(約2500億円)」もの財政難に苦しんでいました。

しかし調所広郷は、かなり強引ではあるものの、財政再建を成し遂げ、200万両もの蓄財を成し遂げました。

この巨額の貯金が、「明治維新」を成し遂げるための原動力となったのです。


スポンサーリンク

簡単年表

1776年3月24日、調所広郷・・・父・川崎主右衛門基明(兼高)の息子として誕生

1788年、調所家の調所清悦の養子へ

1798年、茶道として江戸へ出張。

同年、調所家の家督を相続

1832年、薩摩藩・家老格へ昇進

1838年、薩摩藩・家老職に就任

1840年、薩摩藩が抱えていた500万両の借財を、「無利子250年返済計画」で実質的に踏み倒し、行政・農業・財政改革を断行して「200万両」の蓄財に成功・・・

1847年、志布志郷の地頭を兼任する

1848年島津斉彬が、老中「阿部正弘」に対して、斉彬の父・島津斉興の「密貿易」を密告

1849年1月13日、薩摩藩上屋敷芝藩邸で死去・・・享年73年・・・死因は服毒自殺

同年、「お由羅騒動」勃発


スポンサーリンク

子孫

調所広郷の死後、島津斉彬の手で「家禄」と「屋敷」を没収され、家格も引き下げられるという憂き目をみます。

調所広郷の三男「調所広丈」さんは、札幌農学校(現・北海道大学)初代校長。

その後、札幌県令、高知・鳥取県知事を歴任し、「貴族院議員」として活動。男爵の爵位も受けています。

調所広郷の玄孫(孫の孫)に当たる「調所廣良」は、広告会社「電通」の社長「吉田秀雄」に誘われて「電通」に入社。

有名な「電通鬼十則」は、薩摩藩の造士館で行われていた「郷中教育」の標語をモデルにつくられたものだそうです。

また、7代子孫に当たる「調所一郎」さんは、企画コンサルタントや「刀剣刀装研究家」として現在も活躍中。

「調所一郎」さんの父「廣志」さんが、先祖との決別をするために調所家の通字「廣」の字を使わなかったため「一郎」と名付けられました。

2001年、調所一郎・謙一兄弟の尽力により、調所広郷の遺骨は東京世田谷から、鹿児島市「福昌寺」に改葬されています。


スポンサーリンク

生涯と最後

調所広郷の生涯と最期を解説いたします。

生い立ち

1776年3月24日、薩摩藩の武士「川崎主右衛門基明」の息子として誕生。

1788年、調所家・調所清悦へ養子入り。

1798年、茶道職で江戸へ出張。この時、薩摩藩8代藩主「島津重豪」に見出されて抜擢されています。同年、養父が死去したため「調所家」の家督を相続。

調所広郷を抜擢した「島津重豪」は、「蘭癖」・・・すなわち「西洋文化」に強い関心を持った人物でした。

そのため「島津重豪」は、薩摩藩が200年以上も続けていた「琉球」「清」との密貿易を利用して、西洋の品物を次々と輸入・・・・。また、「安永改革」と呼ばれる改革を断行し、西洋文化を次々と取り入れていったのです。

しかしそれが原因で、薩摩藩の財政は圧迫され「500万両」もの巨額の負債を抱えます。当時の大坂商人は、「薩摩藩のお殿様に金を貸すくらいなら、ドブに捨てたほうがまだマシ」を皮肉たっぷりに歌っています。

この「島津重豪」が可愛がったのが、自らのひ孫で、後の薩摩藩10代藩主「島津斉彬」でした。

島津重豪にかわいがられ、西洋文化に強い関心をもって育った「斉彬」は、それが原因で父「島津斉興」から嫌われてしまうのです。


スポンサーリンク

島津斉興の下で財政再建

1809年、島津斉興が、薩摩藩10代藩主に就任。しかし藩の実権は「斉興」の祖父「重豪」が握ったままでした。

1832年、調所広郷は「家老格」に昇進

1833年、島津重豪が亡くなると、島津斉興は藩の実権を掌握し藩政改革に着手し始めます。

1838年、調所広郷が「家老職」に就任。

家老となった調所広郷は、島津斉興のもとで藩政・農政・軍制などの改革に挑むこととなるのです。

当時、薩摩藩は8代藩主「島津重豪」が西洋文化に傾倒して浪費しまくったために、「500万両」もの借金を抱えていました。薩摩藩の年収は「12~14万両」・・・にもかかわらず、年間「80万両」もの利息を払わなくてはならない状況だったのです。

これに対して、調所広郷は金を貸してくれた商人たちを脅し、「無利子250年返済計画」を承諾させて、無利子返済を実現。80万両の利息分をカットすることに成功。

その見返りに、金を貸してくれた商人達には「琉球」「清」との貿易利権を与えました。

さて・・・・「250年無利子返済」・・・・本来なら「2018年」現在も、返済は続いているはずですが、薩摩藩の返済は、されていません。この「250年無利子返済計画」・・・事実上の借金踏み倒しなのです。返済は35年後の明治5年を最期に終了しています。

その他にも、調所は「砂糖の専売」に力を注ぎます。

当時、薩摩藩の領地「奄美大島」では、「黒糖」の生産が盛んでした。薩摩藩の米による利益が年6000両だったのに対し、砂糖の利益は40倍の24万両以上。

これに目をつけた調所は、砂糖生産を拡大し、「奄美大島・喜界島・徳之島」という産地に対して厳しい取り立てを行っています。

また、橋の建設など、利益を生むだろう公共事業には積極的に投資。農地改革・殖産興業などを実施。

更には軍制改革にも着手。「高島流砲術」という、当時最先端の西洋砲術を取り入れた流派を採用しています。

かなり強引な手法で薩摩藩の財政を立て直した調所広郷。

黒糖産業のみで230万両もの利益を生み出し、「500万両の借金」から、「200万両の蓄財」に成功。

この資金が、後の薩摩藩の軍を強化することに利用されることとなるのです。その軍事力を持って、薩摩藩は「鳥羽伏見の戦い」で旧幕府軍に勝利。「倒幕」「明治維新」を成功させます。

調所広郷は、「明治維新」を支えた人物と言えるでしょう。


スポンサーリンク

後継者争いと、島津斉彬の罠

薩摩藩では当時、藩主「島津斉興」の後継者争いが起こり始めていました。

斉興の嫡男「斉彬」と、その弟「島津久光

この二人が次の藩主の座を巡って、派閥抗争を行っていたのです。

父・島津斉興は、藩の財政を傾けた「島津重豪」にかわいがられ「重豪」と同じく西洋文化に強い関心を示す息子「斉彬」を危険視。

斉彬は、藩の財政をめちゃくちゃにするのでは?と考えて、弟「久光」を推したのです。

調所広郷もまた、財政破綻を心配して「久光」を推します。

これに対抗して「斉彬」は、幕府老中「阿部正弘」と協力して、薩摩藩の「密貿易」を幕府に告発。

「密貿易」の罪で、父・斉興と調所広郷を失脚させようとした「斉彬」。

ところが、この斉彬の罠は、調所広郷に阻止されます。


スポンサーリンク

最期

1849年1月13日、江戸の薩摩藩邸で、調所広郷が死去。享年73歳。死因は「服毒自殺」でした。

調所広郷は、密貿易の罪を自分一人でかぶり、亡くなったのです。最期まで「密貿易」への島津斉興の関与を否定していたと言われています。

斉彬の策略は失敗しました。父・斉興を失脚させようとした斉彬の作戦は、調所広郷の自決によって阻止されてしまったのです。

墓所は「鹿児島市」にある「福昌寺」跡


スポンサーリンク

お由羅騒動

1849年、島津斉彬を次期藩主にしようとする一派が、斉興の側室で「島津久光」の母「お由羅」の暗殺を計画

島津斉興は先手を打って、斉彬一派を処刑するなどして弾圧。

1851年、老中・阿部正弘の協力もあって、12代将軍「徳川家慶」が騒動に介入します。

家慶の介入で、斉興は強制的に隠居。これにより、島津斉彬が薩摩藩11代藩主に就任。

幕末の名君「島津斉彬」は、「西郷隆盛」「大久保利通」「五代友厚」などの逸材を抜擢。また薩摩の軍を近代化することにも着手しています。

明治維新へ向けての土台作りを始めたのです。調所広郷が残した財力を元手にして。

ちなみに・・・名君として知られた島津斉彬ですが、領民に対しては、調所広郷以上に高い税を課しています。

調所広郷・・・死後、遺族はとてつもない迫害を受けたと言われていますが、残した功績は比類なきものがあるのです。


スポンサーリンク

篤姫とはどういう関係なのか?

薩摩藩といえば、13代将軍「徳川家定」の妻「篤姫」の出身地

島津斉彬の養女となった「篤姫」は、右大臣「近衛忠煕」の養女となって「家定」に嫁いでいます。

そんな篤姫と「調所広郷」の間には、どんな関係があるのでしょうか?

2008年放送の大河ドラマ「篤姫」で、宮崎あおいさん演じる「篤姫」が、瑛太さん演じる「小松帯刀」とともに、俳優・平幹二朗さん演じる「調所広郷」のもとを訪れる・・・・というシーンがありました。

篤姫と小松帯刀は、圧政を敷く調所広郷に抗議。対して調所は穏やかに

「他に方法があるなら、ぜひとも伺いたいです」

と反論。かなり穏やかに、にこやかに反論していました・・・・。

篤姫と調所広郷・・・・史実上、二人の間にこれと言った接点はありません。

篤姫が表舞台に登場した時、すでに調所広郷は亡くなっていたのです。

とはいえ、篤姫は島津家の分家のお姫様。調所広郷は家老職ですので、何度か挨拶したくらいのことはあったかもしれません。

ただ、史実の残るような接点は、二人の間には存在していません。

篤姫が将軍家へ輿入れする際、その行列は非常に豪華なものだったと言われています。おそらくその財源は調所広郷が蓄えた資金が下支えしたものでしょう。

間接的にではありますが、篤姫が歴史の表舞台に登場するその裏には調所広郷がいたのかもしれません。


スポンサーリンク

まとめ

本日の記事をまとめますと

・調所広郷は、財政難に陥っていた薩摩藩を立て直した功労者

・島津斉彬による「父・斉興失脚」を狙った密告により、調所広郷は自決した

・篤姫と調所広郷の間に、接点はない

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


島津斉彬」「島津久光」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

↓↓↓↓↓↓


スポンサーリンク



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする