幕末の「尊皇攘夷(尊王攘夷・そんのうじょうい)」とは、「天皇を守り、異国を打ち払う」という意味ですが、この尊皇攘夷の思想をもつ「藩・志士・中心人物」とは、どんな人たちがいたのかを解説いたします。
長州藩と水戸藩が、特に過激な尊皇攘夷派の藩であり、長州藩士・久坂玄瑞も過激な攘夷論者でした。
幕府を守るために集結した剣豪集団・新選組は、尊皇攘夷派だったのでしょうか?
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この記事を短く言うと
・「尊王攘夷」とは、「天皇を守り、外国からの侵略を防ごう」という思想のこと
・尊王攘夷の中心人物といえば吉田松陰や、松陰の弟子であり義弟でもあった久坂玄瑞。尊王攘夷思想の強い藩と言えば長州藩や水戸藩があげられる
・新選組にも尊王攘夷思想はあったが、彼らは「佐幕派(幕府を助けよう)」という思想の集団であり、倒幕派の長州藩とは対立していた
尊王攘夷派とは?何のことか簡単解説
そもそも「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」とは、どういう意味なのか?
「尊王攘夷(尊皇攘夷)」とは、「天皇を中心にして日本が一つにまとまり、異国の侵略を力づくで追いはらうこと」です
幕末、日本にアメリカの「ペリー」が黒船艦隊を率いて来航します。
この後、日本は「日米修好通商条約」という「不平等条約」を締結させられ、国益を徐々に失っていたのです。
これに怒った日本人が、日本の利益をかすめ取り、侵略しようとする欧米人に怒り、尊王攘夷を主張するようになりました。
ちなみに尊皇攘夷派の反対は、開国派です。
井伊直弼や勝海舟、そして上海での視察を終えたあとの高杉晋作は、西欧列強の強さをしっかり理解していたため、攘夷など不可能であると悟っていました。
開国して一時的に外国勢力に屈したふりをして、実力を蓄えた後であらためて海外と戦う、という思想を開国派は持っていたのです。
一時的に海外に屈し、力をつけた後に戦って、日本の独立を守る。これが、尊皇攘夷派の反対勢力である開国派の考え方・戦略です。
実際、日本はこの開国という戦略を選択し、1894年に日清戦争、1904年に日露戦争で、清やロシアに勝利。
1911年に、井伊直弼が結んだ不平等条約を完全に撤廃して、西欧列強の仲間入りに成功しています。
「日米修好通商条約」についてわかりやすく解説いたしております。よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。
尊王攘夷派の志士と中心人物とは?
尊王攘夷(尊皇攘夷)
つまり外国人を力づくで追い払おうとしていた勤王の志士たちの中心人物とは、いったい誰なのでしょうか?
あえて名前をあげるなら徳川斉昭と吉田松陰・久坂玄瑞でしょうか。
最期の将軍・徳川慶喜の父・徳川斉昭は、開国に強く反対し、日米修好通商条約という不平等条約を締結した井伊直弼を強く批判。
安政の大獄と呼ばれる弾圧事件で、死ぬまで謹慎処分とされました。
吉田松陰は、諸外国と対等に戦うためには、その諸外国へ実際に行き、学ぶことが近道であると判断。
ペリー率いる「黒船艦隊」に乗り込み、アメリカへの密航をくわだてますが失敗。
最終的に井伊直弼の安政の大獄で処刑されます。
吉田松陰の義弟・久坂玄瑞は、尊王攘夷を強く主張し、下関戦争などの対外戦争を主導しました。
その過激な思想と行動のおかげで、久坂玄瑞たち長州藩は、守るはずの孝明天皇から嫌われ、八月十八日の政変で京都から追放されます。
さらに池田屋事件で、長州藩は新選組の襲撃を受けて、貴重な人材を死なせます。
挙句の果てには禁門の変(蛤御門の変)で、長州藩はボロ負け。久坂玄瑞は若くして亡くなるのです。
「八月十八日の政変」「禁門の変」についてわかりやすく解説しております。
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尊王攘夷派の藩とは?
尊皇攘夷派の藩といえば、長州藩と水戸藩でしょう。
当時の日本は、現在のように日本という一つの国としてまとまっていませんでした。日本各地に「藩」という「独立国」が300近くも存在していたのです。
各藩は、それぞれ独自に軍を持ち、独自の税制度を持っていました。つまり藩ごとに税率が異なっていたのです。
藩ごとに制度や法律が違っていたわけです。そして思想、つまり考え方もまた、藩ごとに違っていました。
なかには過激な思想を持つ藩もありました。
特に長州藩と水戸藩は、過激だったのです。
尊皇攘夷思想を強く主張し、「力で外国を追い出すべき」と叫び、実際に暗殺や戦争も、ためらいなく行っていました。
ちなみに、当時の日本人は「日本は世界最強の国だから、アメリカやイギリスと戦争しても勝てる」と勘違いしていました。
実際には、日本は弱体化しており、最強国イギリスはもちろん、新興国アメリカを相手にしても勝ち目がない状態でした。
アメリカは日本に対して
「貿易の条約を締結しろ。さもないと日本を相手に戦争してやる」
と、脅しをかけてきました。
戦争などしたら日本は滅亡します。
そのため井伊直弼は、戦争を回避して日本を守るために、日米修好通商条約という不平等な条約を受け入れたのです。
ところが、「日本は最強国だ」と思い込んでいた攘夷派は、この不平等な条約の締結に激怒。
桜田門外の変で井伊直弼を暗殺するなど、過激なテロ活動を行っていくのです。
新選組は尊王攘夷派か?
幕末の剣豪集団・新選組は、尊王攘夷派だったのでしょうか?
結論から言えば、新選組は尊王攘夷派でした。
しかし、新選組は幕府と徳川家そして征夷大将軍を守ることで、間接的に「天皇を守り、諸外国を追い払おう」としていたのです。
例えば長州藩は、諸外国から日本を守ろうと考えていました。しかし、日本の統治をしている組織「徳川幕府」は弱腰で、外国の侵略を防ぐことはとてもできない、とみられていたのです。
そのため長州藩は「幕府という弱い組織を倒し、より強い『近代的な新政府(明治政府)』をつくりだそう」と考えます。
ですので、長州藩は尊王攘夷という思想を持ち、倒幕(幕府を倒す)という手段で、日本を守ろうとしたのです。
しかし新選組は尊王攘夷という考えは持っているものの、倒幕という手段を選択しませんでした。
むしろ新選組は「佐幕(幕府を助ける)」という手段によって「尊王攘夷(外国の侵略をくいとめる)」をなしとげようとしていたのです。
つまり長州藩と新選組は
「目指すところ(尊王攘夷)は同じだけど、そのための手段(倒幕と佐幕)が違う」
ということ。
ともに「日本を守ろうとしていたのに、手段が違ったため、戦うこととなる長州藩と新選組」。
しかし明治維新後、新選組の隊士だった斎藤一は西南戦争に参戦し、永倉新八は日清戦争に参戦を希望していました。つまり元々は敵味方だった新選組と薩長の新政府でも、日本を守るためなら協力もする・・・ということです。
ちなみに薩摩藩も新選組と同じく、尊王攘夷派で佐幕派でした。しかしのちに倒幕派へと方針を転換しています。
「斎藤一」や「永倉新八」たち「新選組」について解説しております。よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・『尊王攘夷』とは、「天皇を守り、諸外国の侵略をくいとめよう」という考え・思想のこと
・尊王攘夷の中心人物と言えば、「徳川斉昭」「吉田松陰」「久坂玄瑞」など
・尊王攘夷派の藩といえば、「長州藩」「水戸藩」
・新選組は、「佐幕派(幕府をまもろうとする一派)」だが、尊王攘夷派でもあった
以上となります。
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