【島津義弘】関ヶ原の戦い敵中突破の詳細とは!戦国最強の逸話が怖い

「鬼島津」とも呼ばれた戦国時代屈指の名将「島津義弘」

伝説的な戦ぶりや人柄などにより、人気も知名度も非常に高い戦国武将の一人

島津義弘の伝説「関ヶ原敵中突破」が、これを読むだけでざっと理解できる!


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この記事を短く言うと

・「島津の退き口」とは、「すてがまり」と呼ばれる戦法で、「関ヶ原」から大将・島津義弘を逃した撤退戦のこと

・「島津の退き口」で負傷した徳川四天王の一人「井伊直政」は、島津家を許してほしいと「徳川家康」に頼み込み、おかげで島津家は領地を減らされずにすんだ。

・島津義弘は、若い頃から抜群の戦功で、「鬼島津」と呼ばれるほどの名将だった

・島津義弘の兄弟たちも、ことごとく名将であり、兄と弟たちもそれぞれに有名なエピソードを残している


島津義弘・関ヶ原の戦い、伝説の敵中突破とは?

島津義弘

『引用元ウィキペディアより』

慶長5(1600)年に起きた関ヶ原の戦い。(今の岐阜県不破郡関ケ原町)

豊臣秀吉の甥「小早川秀秋」の裏切りによって西軍は総崩れとなり、その中で島津義弘隊は孤立状態となってしまいました。

そんななか、彼は決死の敵中突破を決断します。

それが「島津の退き口」。別名「捨て奸(すてがまり)」とも呼ばれる前代未聞の「前進する」撤退戦です。

「捨てがまり」とは、少数が残って全滅するまで戦っては敵を足止めすることを繰り返し、その間に本隊を逃がすという壮絶な戦法。

義弘の甥「島津豊久」や家老の長寿院盛淳らは、自分の命と引き換えに義弘を守り切り戦場で命を落します。

ちなみにこの追撃戦において、「井伊の赤鬼」と呼ばれた徳川四天王の一人「井伊直政」が負傷。また、徳川家康の四男にして井伊直政の娘婿「松平忠吉」も負傷。この負傷が元で、二人はその後まもなく、命を落としています。

井伊直政は、「島津の赦免」を願いながら亡くなっています。「島津豊久」の決死の反撃は、戦った相手をも魅了するほど見事なものだったのです。


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戦国最強の逸話!鬼島津の猛将・島津義弘

祖父から「戦いはたとえ先に敗れたことがあっても、あとの閉じ目が肝要だ」との教えを受けている。

ちなみに兄・義久には「大将たる者は固く腹を据えてみだりに動じないこと」と教わっている。

22歳の義弘が初めて首級を挙げたときのこと(1556年)。

島津軍が大隅国の蒲生氏の支城を攻めたとき、義弘は三尺の剣を抜いて城門を突破し、敵方の武者1人と一騎討ちになった。このとき義弘はこれを組み伏せ、その敵将の首をとったという(『維新公御自記』)。

このとき義弘は鎧に4、5か所の矢を受けており、重症となった。

1572年、伊東義祐の弟・伊東祐安が3000の大軍を率いて攻めてくると、僅か300の兵の島津義弘は計略を駆使した「釣り野伏せ」(つりのぶせ)の戦術にて撃退し、伊東祐安を討ち取った。

この「九州の桶狭間」とも呼ばれる木崎原の戦いで大勝利を挙げた。


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島津義弘・・・兄と弟達も猛将だった

かなりの戦上手で『戦国最強』

明・朝鮮軍が恐れおののいた『鬼島津』

当主が代々有能&有能&有能で『島津に暗君無し』

揃いも揃って有能な『島津四兄弟』

後世ではこのように言われ、とにかく高い評価をされているのが島津氏の特徴である。

 

祖父・島津忠良は四兄弟の資質をそれぞれ

長男・義久は「三州の総大将たるの材徳自ら備わり」

次男・義弘は「雄武英略を以て傑出する」

三男・歳久は「始終の利害を察するの智計並びなく」

四男・家久は「軍法戦術に妙を得たり」

と評価していた。


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島津義久(よしひさ)
島津四兄弟の長男で島津家当主。

義久は総大将たる器の大きな人物で、実戦には余り出ていなかったが、本拠地から弟たちを支え、巧みな政治手腕を発揮し、あの徳川家康との交渉を互角以上に渡り合い、終には西軍では珍しい領土安堵を許された名将。

弟達より冷静に物事を見れる人物で、豊臣秀吉が九州征伐にやってきた時には早い段階で状況の不利を悟り、まだ戦おうとする弟達を押し切って豊臣秀吉に降伏し、島津家のピンチを救ったとされている。

島津歳久(としひさ)

島津四兄弟の三男。祖父・忠良からは『知恵者』と評価されています。

歳久は影の薄さや不幸な話が付きまとうが、関白・豊臣秀吉と島津家の中を保つ為、身を呈した武将。次兄・義弘同様、長兄・義久の指揮の元に活躍しました。

島津家が豊臣秀吉に降伏してからも歳久は秀吉を良く思っておらず、島津四兄弟の中で歳久だけ秀吉に冷遇されていたそうです。

そんな中、島津家家臣の一部が秀吉に反抗して一揆が起きます。

もともと秀吉に良く思われていなかったのと、一揆に参加した者の中に歳久の家臣が多くいた為、歳久は一揆の責任をとる形で自害に追い込まれ、1592年にこの世を去ることとなります。

歳久は早くに亡くなった為、『島津最強』を知らしめるきっかけとなった明・朝鮮連合軍との戦や、関ヶ原の戦いには参戦していません。


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島津家久(いえひさ)

四兄弟の末っ子・家久。祖父・忠良からは『戦術に長けている』との評価をされております。

家久だけ父の妾が生んだ子供で、他の三人と母親が違います。

長兄・義久は親が誰であれ、しっかり学問に励んで己を磨けばそれに勝る人間になれる。逆に己を磨く事を疎かにすれば劣った人間になってしまうと、家久に言ったとされています。

家久は懸命に学問・武芸に励み、数年後には知略・武勇どちらも兄達に引けを取らないほど立派な武将へと成長。

特に有名なものとしては「肥前の熊」とあだ名された大名「龍造寺隆信」との対立が深まる中、家久が統率する兵数5千~8千であったのに対して、龍造寺軍は1万8千~6万という圧倒的な兵力差であったが、「釣り野伏せ」を使用して龍造寺軍を大混乱に陥れ、敵総大将「龍造寺隆信」をはじめとする敵側の首級を多く討ち取ったり、秀吉が送り込んできた「仙石秀久」「長宗我部元親」の軍を完膚なきまでに叩きのめすなどの、華々しい功績を残しています。

この戦いで、長宗我部元親は最愛の嫡男「信親」を失い、徐々に判断能力を失っていくのです。

四兄弟の中でもっとも若く才能もあった家久ですが、1587年、40歳で急死してします。噂では、家久を恐れた豊臣方によって暗殺・毒殺されたとも言われています。

ちなみに、「関ヶ原の戦い」で奮戦した「島津豊久」は、この「島津家久」の息子です。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

・島津の退き口は少数が残って全滅するまで戦っては敵を足止めすることを繰り返し、その間に本隊を逃がすという壮絶な戦法。

・22歳のとき鎧に4、5か所の矢を受けており、重症となりながらも一騎打ちのうえ敵将の首をとった。

・島津四兄弟は揃いも揃って有能な武将であった。

いかがでしたか。戦国最強の島津義弘とその兄弟について少し詳しくなりましたね。

以上となります。

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ありがとうございました


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