長州藩の異才「高杉晋作」の「辞世の句」と「功山寺挙兵」を、わかりやすく解説いたします。
「おもしろき こともなきよを おもしろく すみなすものは 心なりけり」
実は「下の句」をつくったのは「高杉」本人ではなかった!
そして高杉が成し遂げた「功山寺挙兵」は、ほとんど自殺行為だった!
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この記事を短く言うと
・吉田松陰の塾「松下村塾」の塾生「高杉晋作」には、その性格を表すかのような名言が多数ある
・高杉の辞世の歌は、「おもしろきこともなき世を おもしろく すみなすものは 心なりけり」
・辞世の歌の下の句「すみなすものは 心なりけり」は、高杉以外の別人が書いたという説がある
・「功山寺挙兵(回転義挙)」は、そもそも当初、自殺行為に等しかった・・・
「高杉晋作」名言集
『引用元ウィキペディアより』
吉田松陰の愛弟子にして、奇兵隊を創設した長州藩の高杉晋作は、多くの名言を残しています。
高杉晋作とともに「松下村塾三秀」と呼ばれた偉人「吉田稔麿」は、高杉のことを「暴れ牛」と呼んでいましたが、高杉には「暴れ牛」と呼ばれるにふさわしい名言を残しています。
・『おもしろきこともなき世を おもしろく』
面白くないつまらない世の中であったとしても自分はこの世を楽しもうというもの
・『苦労する身は厭わねど 苦労し甲斐のあるように』
多くの苦労をした高杉晋作ならではのもので苦労をするのは良いが自分が自分を認められるものであるようにしなければいけないという意味
・『真の楽しみは苦しみの中にこそある』
本当の楽しみというものは、苦しいことを乗り越えてこそあるというものである
・『友の信を見るには、死、急、難の三事をもって知れ候』
本当の相手の姿を知るためには人が死んだときの様子、事態が急変するなど変化があったときの様子、困難に直面した時の様子をみて判断すればよいということ
・『百万の大群 恐るるに足らず 恐るるべきは我ら 弱き民一人一人の心なり』
軍の数が多くても恐れる必要はなく、本当に強いのは数が少なくても1人1人が気持ちのこもった軍であるということ
辞世の句「おもしろき~」は高杉晋作ひとりの作品ではない
『おもしろきこともなき世を おもしろく すみなすものは 心なりけり』
この上の句の部分は高杉が書いたものですが、下の句の『すみなすものは 心なりけり』は、高杉の看病に当たっていた「野村望東尼(のむら もとに)」が書いたとされています。
この歌は高杉晋作の辞世の句ですが下の句の、それを決めるのは自分の気持ちしだいだ、というのを後からつけたとされます。
ですが近年の調査で、この句自体が死の数年前に作られたという説もあり、真相は不明瞭な部分もあります。
「高杉晋作」のむちゃくちゃな生涯!「功山寺挙兵」は自殺行為だった
第一次長州征伐で幕府に大敗を喫した長州において、強行派の勢いが弱まり、幕府に恭順姿勢を見せる方向に進んでいました。
その中で高杉は、幕府への第一次長州征伐での降伏に、まったく納得せず、藩の方針を「倒幕」へとくつがえすために挙兵することとなった。
しかし、赤禰武人や山県狂介(山縣有朋)らでさえ挙兵には反対し、なかなか同志が集まらず、結果「伊藤博文」らを加えたわずか80名で、長州藩の保守派2000名に対し挙兵。
「80名 VS 2000名」
兵力差は歴然としており、ほとんど自殺行為に等しい挙兵。
高杉は、萩藩会所、下関を占拠し軍艦3隻を奪取することに成功
その後、高杉の挙兵に賛同したものが続々と仲間に加わり、3000名を超す軍になり、長州藩の実権を奪取することに成功した。
しかしこの「功山寺挙兵」は、スタート段階の段階における兵力差を考えると、ほとんど自殺行為でしかなかった。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・高杉晋作には、その性格を物語るかの如き、数多くの名言集がある
・辞世の句『おもしろき~』には別人が書いた下の句があり、それは野村望東尼が書いたとも言われるが、定かではない
・功山寺挙兵は、はじめは実はわずか80名でしたもので、ほとんど自殺行為であった
以上となります。
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