幕府の討伐軍を返り討ちにした長州藩の偉人「高杉晋作」。彼の「愛刀」について、くわしく解説いたします。
柳生新陰流の達人だった高杉の愛刀とは?
刀の名前は「安芸国佐伯荘藤原貞安」と「粟田口」。
愛用していた「木刀」が現在、山口県「萩博物館」に保管されています。
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この記事を短く言うと
・高杉晋作の愛刀は「安芸国佐伯荘藤原貞安」と「粟田口」
・高杉愛用の木刀は山口県萩市の「萩博物館」にある
・高杉は「柳生新陰流・免許皆伝」の凄腕剣士だが、坂本龍馬にプレゼントしたものと同じピストルも持っていた
《高杉晋作の愛刀の名前は?今どこにあるのか?》
高杉晋作が愛用していた刀は2本あり、「安芸国佐伯荘藤原貞安」と「粟田口」という銘です。

高杉晋作
『引用元ウィキペディアより』
一振りずつ詳しく見ていきましょう。
● 安芸国佐伯荘藤原貞安(あきのくにさえきしょうふじわらのさだやす)
この刀の元々の所有者は薩摩藩士・梶原哲之助だったといわれ、その後、土佐藩士の田中光顕の手に渡りました。
高杉がこの方と出会ったのは、倒幕に関する会合の場。
安芸国佐伯荘藤原貞安に一目惚れしたのか、高杉は倒幕の話に耳も貸さず、田中に刀を譲るよう迫りました。
田中自身も梶原哲之助をようやく口説いて刀を手に入れたこともあり、なかなか首を縦に振りません。
それでも高杉は、欲しくてたまらないと田中に懇願します。
このままでは一向に話が進まないと思ったのか、田中は自分を高杉の弟子にすることを条件に、刀を譲ることにしたのでした。
高杉は相当この刀が気に入ったようで、常に自分の側に置いて、亡くなるまで手放さなかったといわれています。
安芸国佐伯荘藤原貞安の長さは二尺七寸(81.18㎝)と長めで、「勤皇刀」と呼ばれる反りが少なく切っ先が延びた姿をしていました。
勤皇刀は幕末の志士たちが好んで所持した刀であり、自分たちの勤王の志を具象化したものでもあったのです。
勤王派である高杉も、この刀が自身の志を映し出してくれるものと感じたのかもしれません。
高杉の死後、この刀の所在は不明のままです。
田中光顕も必死に探し回りましたが、とうとう見つけ出すことができなかったのでした。
● 粟田口(あわたぐち)
もう一振りの刀は、粟田口という銘です。
「粟田口」と一口に言っても、その系統や種類は多く、高杉が持つ粟田口がどの系統に属するのかは明確ではありません。
鎌倉時代初期から中期にかけて最盛期であった粟田口は現在では国宝級であり、おそらく幕末の頃も価値の高いものであったと思われるため、高杉でさえ手に入れるのは難しいでしょう。
一つ気になるのが、江戸時代中期の摂津の刀工「粟田口近江守忠綱(一竿子忠綱)」です。
1784年に起こった老中・田沼意次の息子である田沼意知の暗殺事件の際に使われたのが、忠綱な刀であったといわれています。
当時権勢を誇り、収賄などで悪名高かった田沼に対し、目に物を見せたことで、暗殺者は「世直し大明神」と賞賛され、さらに忠綱の刀が人気を博しました。
もし、高杉がこの話を知っていたとしたら、倒幕という「世直し」を志す彼が忠綱の刀を持っていてもおかしくはないでしょう。
どちらにせよ刀工も銘も正確にはわからないため、高杉が持っていたとされる「粟田口」も所在不明というしかありません。
《高杉愛用の木刀が、現存している!》
高杉が愛用した刀はどれも所在不明といいましたが、彼の遺品の一つである木刀が残されています。
高杉自身が作ったとされる木刀で、山口県萩市にある萩博物館で展示されました。
萩博物館には高杉に関する様々な資料が収蔵されています。
現在も木刀が展示されているかは、萩博物館へお問い合わせください。
さて、遺品として残る木刀の中に、高杉が幼少期に身につけていたおよそ40cmの木刀があります。
この木刀は躾刀と呼ばれ、幼い頃から腰に差すことで帯刀の感覚を身につけるためのものでした。
その他にも、手垢で黒ずんだ木刀も残されており、剣術に没頭する高杉の姿が目に浮かびます。
《高杉は柳生新陰流の達人だが、ピストルを使っていた?》
高杉は長州の武家の生まれであり、幼い頃より武芸に励んできました。
高杉にとっての剣術の師は、長州藩で指南役を務めていた柳生新陰流の内藤作兵衛です。
高杉は22歳の時に、内藤から柳生新陰流の免許皆伝書を授かりました。
達人となった後も高杉は剣術の稽古を続けていたといいます。
さて、剣術を極めた高杉でしたが、海外の武器にも興味を持ったようで、オランダやアメリカの商人からピストルを購入しています。
この2挺のピストルのうち、どちらかを坂本龍馬に手渡しており、坂本が寺田屋で襲撃された際にはそのピストルで窮地を脱したといわれています。
実際に高杉がピストルを使っていたかどうかは定かではありませんが、ピストルを2挺も購入しているあたり、使用した可能性があると言えるでしょう。
《『高杉晋作』について、レビュー(評論)!》
高杉晋作・・・・同門の「吉田稔麿」からは「猛牛」と称された、とにかく行動力抜群の快男児です。
そんな高杉でしたが、若い頃から剣術に打ち込むものの、常日頃から「退屈だー」と思って生活していたみたいですね。
「おもしろき こともなき世を おもしろく」
高杉晋作の辞世です。
彼はそんな面白くない世を面白くするために、全力で駆け抜けたのでしょう。
彼が成し遂げた「功山寺挙兵」なんて、はっきり言って自殺行為です。100名足らずで長州藩3000名に戦いを挑んだのですから。
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如く」
これは伊藤博文が高杉晋作を評した言葉です。
それほど、抜群の行動力があったのでしょう。
全力を尽くす・・・。
今の世で、日々に全力を尽くしている人がどれだけいるのか・・。
実業家「堀江貴文」さんが「仕事は全力でやると、楽しくて仕方なくなる」と言っていました。
高杉晋作も、全力で生きることによって、面白くない世を、面白く生き抜いたのかもしれません。拙者も見習いたいと思います。
《まとめ》
本日の記事をまとめますと
いかがでしたでしょうか。
これまでのことをまとめると、
・高杉晋作の愛刀は「安芸国佐伯荘藤原貞安」と「粟田口」であるが、どちらも所在は不明
・高杉が愛用した木刀は現在も残されている
・高杉は生涯2挺のピストルを購入しており、自身も使った可能性がある
と言えるでしょう。
最後に、高杉が坂本龍馬に贈ったピストルは、寺田屋の襲撃から逃げる際に坂本が捨ててしまったといわれ、その所在は不明のままです。
高杉の刀やピストルが残っていたら、その歴史的価値は計り知れないものになるでしょう。
以上となります。
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