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武田信玄の有名なエピソードを簡単にわかりやすく解説!戦国最強の理由とは?

皆さんは武田信玄の有名なエピソードを、ご存知でしょうか?

この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。

    1. 武田信玄は、文武において天才的な能力を発揮し、父に嫌われるほどだったという
    2. 信玄には、上杉謙信との川中島の戦いを相撲で決着をつけたというエピソードがある
    3. 信玄は、三方ヶ原の戦いでのちの天下人・徳川家康に大勝した直後、胃ガンで亡くなった。

この記事では武田信玄の有名なエピソードを、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。

今は武田信玄について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

これを読めば、誰かに説明できるほど、武田信玄の性格に詳しくなれます。

歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。


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目次

武田信玄の有名なエピソード一覧!どのような性格だったの?

神仏を信じない性格だった

武田信玄は、神仏にすがって戦い方を変えるようなことはせず、知恵と力で勝利を掴み取ろうとする現実主義者だったようです。

戦国時代、多くの人が神仏や迷信に頼っていました。

吉日に出陣し、縁起の良い方角へ進軍するなど、そういった迷信は、深く信じられていたのです。

しかし、武田信玄は違いました。

「運命や天命にすがっても何も変わらない」と信じ、自ら道を切り開くことを信条としていたよづえす。

吉日を選んで戦を行うのが常だった時代に、信玄はどんな日であろうと敵を攻め、勝利を収めました。

それは、神仏に頼ることなく、自らの力で運命を切り開く信玄の強さを象徴する出来事と言えるでしょう

信玄にとって、勝利は「神仏の加護」ではなく、「勝つ意志」と「戦略」によって生まれるものだったのです。

武田信玄は、迷信に惑わされることなく、常に冷静沈着に状況を判断し、最善の手を尽くしていたのです。


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文武に優れた天才肌の人物だった

武田信玄は、幼い頃から極めて優れた能力を発揮し、天才的な人物であったといわれています。

あまりに優秀すぎて、父・信虎から嫌われたほどだったといいます。

信玄は、幼い頃から天才的な素質を持ち、数々の戦で勝利を収めました。

信玄の天才的な素質は、以下のようなものから伺えます。

  • 学問や武術に精通していた: 信玄は幼い頃から学問や武術に励み、多くの知識と技術を身につけました。
  • 直感力に優れていた: 信玄は優れた直感力を持っており、戦況や人心を見抜く力に長けていました。
  • 情報収集に力を入れていた: 信玄は常に最新の情報収集に力を入れており、敵の動向や周囲の情勢を把握していました。
  • 人材登用に長けていた: 信玄は能力のある人物を見抜き、積極的に登用しました。
  • 領内統治に手腕を発揮していた: 信玄は領内統治にも力を入れ、領民の生活を豊かにしました。

これらの素質から、信玄は常に自己研鑽に励み、状況を的確に判断し、最善の行動を選択していたことが分かります。また、領民の幸せを第一に考え、国を繁栄させることに尽力していた様子がうかがえます。

現代の言葉で言えば、信玄は優れた政治家であり、リーダーであったと言えるでしょう。

優秀すぎて父・武田信虎から嫌われた苦労人

武田信玄は、あまりにも優秀だったため、父・武田信虎から嫌われて、長男でありながら家督相続できない危機に瀕したといいます。

若い信玄の家督相続には、父・武田信虎との確執が深く関わっていました。

信虎は、信玄があまりにも優秀であることをうとましく思い、弟・武田信繫のぶしげに愛情を注いでいました。

そのため、家督は信繫に継がせるつもりでいたのです。

信玄は家督相続問題を知っていたかどうかは定かではありませんが、21歳の時にクーデターを起こし、信虎を追放して家督を継いでいます。

信玄が信虎を殺害せずに追放したのは、信玄の中に優しさがあったからと言えるでしょう。

また、兄弟仲が悪くなかったことも、信玄にとって救いだったのではないでしょうか。

信玄と信虎の関係は複雑なものであり、様々な解釈があります。

しかし、信玄が家督を継ぐために父を追放したことは、歴史的事実として残っています。

余談ですが、弟・武田信繁は兄の信玄を尊敬していたため、忠実な部下として活躍します。

その能力は際立っており、川中島の戦いで戦死しなければ、のちに起こった信玄の長男・武田義信が自害する事件は起こらなかっただろうともいわれています


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大敗したあとでも、家臣たちの苦労をねぎらう情け深い性格

武田信玄は、戦に大敗した直後、兵たちの苦労をねぎらうために、三日間踊り続けたというエピソードがあります。

しかし、彼の生涯にはいくつかの大敗も経験しています。

その中でも有名なのが、戦で大敗した直後に踊り続けたエピソードです。

この戦では、武田軍7000人に対して敵は2000人という圧倒的な有利な状況でした。

しかし、敵の奇襲攻撃によって不意を突かれ、武田軍は退却を余儀なくされました。

この戦で武田軍は1000人ほどの死者を出しました。

戦場から城に戻った信玄は、疲労困憊の中、家臣を労うために三日三晩踊り続けたといわれています。

これは、大敗という苦境の中でも、家臣への配慮を忘れない信玄の人柄を表すエピソードとして語り継がれています。

信玄は、家臣に対して常に感謝の気持ちを持って接していました。

また、家臣の意見をよく聞き、能力を最大限に発揮できる環境を作っていました。

こうした信玄の姿勢は、家臣たちの強い忠誠心と信頼関係を生み出すことに繋がったのです。

人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり

これは武田信玄が読んだという歌ですが、信玄は、人を何よりも大切にしていた武将だったのです。

文武の修行を怠らず、兵法を学びつくし、人を大切にした武田信玄は、だからこそ戦国最強と呼ばれたのでしょう。


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何より民と家来を大切にする性格だった

武田信玄は、戦国時代を代表する名将として知られています。彼は領内統治にも力を入れ、法整備などを通じて領民や家臣の生活を安定させました。

信玄が法整備を行う必要があった理由は、いくつか考えられます。

  • 度重なる戦による家臣の疲弊: 信玄は領土拡大のために多くの戦を行いました。そのため、家臣たちは戦に疲弊し、不満を抱えていた可能性があります。
  • 父・武田信虎の政策の欠点: 信玄の父・信虎は、厳しい統治を行うことで知られていました。そのため、信玄は父とは異なる政策によって、領民や家臣の信頼を得ようとした可能性があります。

信玄は、領民や家臣の意見を聞きながら、様々な法整備を行いました。例えば、以下のようなものがあります。

  • 「甲州法度之次第」: 領内の秩序を維持するための法典
  • 検地: 領内の土地の面積と収穫量を調査し、税金を公平に課すための制度
  • 治水事業: 洪水が多かった甲府盆地で、農業生産を安定させるための事業

これらの法整備によって、領民や家臣の生活は安定し、武田家は繁栄しました。

ちなみに信玄が行った治水事業は、現在でも甲府盆地の水害を防ぐために効果を発揮しているといいます。


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風林火山を軍旗に使用した理由は、信玄の知恵深さのため

武田信玄は、当時流行していた「六韜りくとう」という兵法書だけではなく、マイナーだった「孫子」を旗印とすることで、圧倒的な兵法の知識の差を見せつけて、敵を恐れさせようとしたといわれています。

武田信玄の軍旗として有名なのが、「風林火山」の旗です。

この旗は、中国の兵法書「孫子」の一節から引用されたものです。

「風林火山」の意味は以下の通りです。

  • 風のように速く攻めて
  • 林の中で敵に見つからず機会を待
  • 火が燃え上がるように勢いよく攻めて
  • 山のようにどっしりと構えて自分の陣営を守る

戦国時代の当時、武将たちは兵法書を研究していましたが、当時の主流は「六韜」という太公望が記したとされる兵法書でした。

そのため、六韜よりも新しい孫子の兵法は、マイナーだったのです。

信玄は、マイナーな孫子の兵法の一説を軍旗に記すことで、敵よりも兵法にくわしいことをアピールし、威嚇したかったようです。

信玄は、この四つの言葉を軍旗にすることで、以下のような効果を狙っていたと考えられます。

  • 自分自身へ: 状況を見極めて慎重に攻める
  • 家臣たちへ: 戦に向けての気力を与える
  • 敵への効果: マイナーな兵法・孫子の知識をひけらかし敵を威嚇する

「風林火山」の旗は、信玄の戦略とリーダーシップを象徴するものであり、武田軍の強さの源泉の一つであったと言えるでしょう。

余談ですが、風林火山には続きがあります。

  • 知りがたきこと影の如く
  • 動くこと雷霆らいていの如し

本来ならば「風林火山」ではなく、「風林火山影雷」となるはず・・・だったのかもしれません。


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信玄は天下統一を目指していたのか?

信玄は、領土拡大に積極的な姿勢を示し、晩年に西上作戦を実行するなど、天下統一を目指していたと考えられています。

信玄の天下統一構想は、以下の通りです。

  • 遠州・三河・美濃・尾張へ軍を進め、勢力を拡大する
  • 強敵が存命の間に天下を取って、京都に旗を立てる
  • 仏法・王法・神道・諸侍の作法を定め、政を正しく行う

この構想は、信玄が家臣に自らの望みであると語った言葉として、記録されているといいます。

信玄は、優れた戦略家であると同時に、政治家としての才覚も持ち合わせていました。

天下統一によって乱世を終わらせ、平和な世の中を実現しようと考えていたのでしょう。

しかし、信玄は天正3年(1573年)に病死し、天下統一の夢は叶いませんでした。

また別の説によると、信玄は天下を望んでいたわけではなく、ただただ甲斐の領民を守りたかっただけともいわれているようです。


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「我が死を三年隠せ」と遺言した理由

武田信玄は、死の間際に、敵対勢力である織田信長や徳川家康に攻撃されることを警戒して、自分の死を三年のあいだ秘密にして、上杉謙信を頼れと言い残したといいます。

信玄は死の間際、四男で後継者の武田勝頼に「自分の死を三年間隠せ」と命じました。

信玄がこのような命令を下した理由は、主に以下の2つと考えられます。

  • 勝頼の未熟さ: 当時、勝頼は家臣をまとめるほどの経験や力を持っていませんでした。信玄は、勝頼が家督を継承するまでの間、敵対勢力に隙を見せないよう、自身の死を隠すことで時間を稼ぎたかったのでしょう。
  • 敵対勢力の動き: 信玄は、自身の死が敵対勢力に知られることで、武田家への攻撃が活発化することを懸念していました。死を隠すことで、敵対勢力を油断させ、武田家への攻撃を抑制しようとしたと考えられます。

しかし、実際には信玄の死を三年間隠すことは難しく、周辺の大名たちはすぐにその死を知ることになりました。

信玄の死を隠すという命令は、彼の家督継承と武田家の存続に対する強い思いが込められたものであったと言えるでしょう。

余談かもしれませんが、信玄は自らの遺体を、鎧を着せて諏訪湖に沈めるように遺言したといいますが、ご遺体が痛む可能性が高かったため、火葬されたといいます。

織田信長からの贈り物に感動した

織田信長から贈り物を受けた際に、その贈り物が入った木箱をけずってみると、何重も漆を塗った貴重な箱だったことを知り、信長の心づかいに感動したというエピソードがあります。

信長は、生涯にわたって信玄を恐れ、常に贈り物をしてご機嫌を取っていたといいます。

あるとき、信長が信玄に対して、ある贈り物をしました。

通常おくりものを入れる箱は、粗末なものでかまわないとされていました。

武将とは質素倹約が旨とされていたので、中身さえ貴重ならば、問題ないということです。

しかし、信玄は信長の心の底を知りたいと考えていました。

なぜ信長は、これほど贈り物をおくってくるのか?下心があるのではないかと疑ったのです。

信玄は、人の心の奥底を見抜くことができる能力と、疑り深い性格だったのかもしれません。

そこで信玄は、贈り物が入れられた箱を刀で削ってみたのでした。

すると見事な漆塗りの箱であることが判明しました。

長い時間をかけて漆を重ねて塗った代物だったのです。

これをみた信玄は、信長が心から自分を喜ばせるために贈り物をおくってくれていることを知り、感動したといいます。

しかし信長は結局、武田信玄の死後に武田家を滅ぼし、信玄の子・武田勝頼の首を足蹴にしたといいます。

信玄は、信長の心の底を見抜けなかったのかもしれません。


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死の間際、山県昌景にうわ言を繰り返した

信玄は、亡くなる直前、武田四天王のひとり山県昌景に対して

「源四郎よ。明日は瀬田に(武田の)旗を立てよ」

と、うわ言をくりかえしたといわれています。(源四郎とは、山県昌景のこと)

信玄は信濃国・駒場で亡くなりました。

現在の滋賀県大津市にある瀬田は、有名な瀬田の唐橋があり、京都の入り口にあたる地です。

信濃にいた武田軍団が、瀬田に旗を立てるなど不可能です。

にもかかわらず、信玄は「瀬田に武田の旗を立てて、京都を支配したことを天下に示せ」と言いたかったのでしょう。

これには信玄が正気を失った、うわ言だという説があります。

それほどまでに、信玄は天下を夢見ていたのかもしれません。


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武田信玄とライバルたちのエピソード

上杉謙信との激闘・川中島の戦い

武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いにおいて、両者が相撲で決着をつけたというエピソードが残されています。

武田信玄と上杉謙信は、信濃国・川中島で、5度にわたって戦いを繰り広げました。

しかし、いずれの戦でも決定的勝利を得ることができず、両者の間には膠着状態が続いていました。

そこで、両軍は戦の決着を賭けて、相撲の一騎打ちを行うことを決意します。

武田軍からは安藤彦六。

上杉軍からは長谷川与五左衛門。

両軍から代表の力士が登場したといいます。

これは、現代の視点から見ると奇想天外な決着方法ですが、戦国時代においては、神意に委ねるという意味合いもあったと考えられます。

一騎打ちの結果、勝利したのは上杉軍の長谷川与五左衛門でした。

信玄は約束通り撤退し、川中島は上杉氏の支配下となりました。

この戦は、戦国時代の武勇と規律を象徴するエピソードとして語り継がれています。

しかし、これは史実でなく、後世の創作です。

上杉家が江戸時代に幕府に提出した資料「川中島五度合戦次第」に記されたものだといいます。

上杉家が提出した資料だからこそ、上杉の力士が勝利したことになっているのでしょう。

しかし上杉家はその後、武田家と同盟し婚姻関係まで結んでいます。(上杉謙信の養子・上杉景勝の妻は、武田信玄の娘である菊姫)

そのため、約束を守って撤退した武田信玄の潔さを、称賛するような内容となっているのでしょう。

ちなみに、武田信玄と上杉謙信が5度戦った川中島の戦いは、通説では引き分けとなっています。

歴史学者・本郷和人先生は、領土を守るという戦争目的を達成した武田信玄の勝利であると言っておられました。

しかし筆者は、上杉謙信の勝利であると考えております。詳しくは以下のリンク記事で解説しております。

→→→→→【川中島の戦いは、武田信玄と上杉謙信はどちらが勝ったの?】についてくわしくはこちら

→→→→→【武田信玄と上杉謙信は、どちらが強いの?】についてくわしくはこちら


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織田信長が最後まで恐れた名将だった

戦国時代に天下統一目前まで勢力を拡大した織田信長は、武田信玄を最後の最後まで恐れていたといいます。

織田信長
引用元ウィキペディアより

武田信玄と織田信長は、戦国時代を代表する天才武将として知られています。

しかし、両者が直接対決することはありませんでした。

信長にとって、信玄は戦上手であり、周到な戦略で勝利を収める強敵でした。

一方、信玄にとって、信長は大胆な行動で予測不可能な存在であり、油断できない相手でした。

もし両者が対峙していたら、戦国史上類を見ない激戦が繰り広げられたことでしょう。

しかし、両者は家臣や領民を守るために、あえて直接対決を避けたのかもしれません。

最終的に、信玄の死後、長篠の戦いで織田軍は武田軍を撃破し、天下統一への道を大きく前進させました。

→→→→→【武田信玄と織田信長は、どちらが強いのか?】についてくわしくはこちら


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北条軍の陣を苦労もなく奪いとった

武田信玄は駿河今川氏攻略の際、援軍として駆けつけた北条氏を奇襲で撃破したという逸話があります。

当時、1月という厳しい寒さの中、信玄と家臣たちは酒を飲んで暖を取っていました。一方、山麓で陣を構えていた北条氏は、寒さから油断していたと考えられます。

信玄は、この状況を好機と捉え、奇襲攻撃を仕掛けました。

案の定、油断していた北条氏はあっさりと撃破され、陣だけでなく武具や馬具までも奪い取られてしまいました。

援軍として駆けつけたにもかかわらず、油断によって陣を失った北条氏。

このエピソードは、戦における油断の恐ろしさを物語っています。


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のちの天下人・徳川家康に圧勝した三方ヶ原の戦い

1572年、武田信玄は、のちに天下人となって神君とまで呼ばれた徳川家康に、三方ヶ原の戦いで圧勝しています。

徳川家康
引用元ウィキペディアより

武田信玄は、徳川家康の台頭を警戒し、その勢力を弱めることを目論んでいました。

家康は優れた戦術家として知られており、信玄にとって脅威の存在であったのです。

信玄は、家康の居城である浜松城を攻略するために出陣します。しかし、浜松城に近づいたところで、作戦を三方ヶ原への奇襲に変更しました。

家康は信玄の罠に嵌り、浜松城を出て三方ヶ原へ向かいます。しかし、そこに待ち構えていたのは、武田軍の精鋭部隊でした。経験豊富な信玄の軍隊の前に、家康率いる徳川軍は為す術もなく敗北を喫します。

この戦いは、若き日の家康にとって大きな教訓となりました。その後、家康は信玄の戦い方から学び、自身の戦術を磨き上げていくことになります。


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武田信玄の経歴と年表「生い立ちから最期まで」

経歴・プロフィール

武田信玄
引用元ウィキペディアより

【名前】武田晴信はるのぶ(法名・武田信玄)

【生没年】1521〜1573年

【享年】53歳

【出身地】甲斐・要害山城(または積翠寺せきすいじ

【墓】山梨県甲州市・恵林寺

【父】武田信虎

【母】大井の方

【弟】武田信繁・武田信廉

【正室】上杉の方・三条の方

【側室】諏訪御料人、禰津御寮人、油川夫人

【子】武田義信、海野信親、武田信之(夭折)、諏訪勝頼(武田勝頼)、仁科盛信、黄梅院、菊姫


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生涯年表

事柄
大永元年(1521年)11月3日 甲斐国守護・武田信虎の嫡長子として生まれる。幼名は太郎または勝千代
大永3年(1523年) 兄の竹松が7歳で夭折し、嫡男となる
大永5年(1525年) 父・信虎と大井夫人との間に弟・次郎(武田信繁)が生まれる
天文2年(1533年) 扇谷上杉家当主・上杉朝興の娘・「上杉の方」を正室として迎える
天文3年(1534年) 上杉の方が難産で死去
天文5年(1536年)3月 元服し、室町幕府将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を受け、武田晴信と改名
天文5年(1536年)11月 信濃国佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めを行い、初陣を飾る
天文10年(1541年) 信虎の信濃侵攻に従軍し、海野平の戦いに参加
天文10年(1541年)6月 信虎を駿河へ追放し、武田家家督を相続
天文11年(1542年)3月 瀬沢の戦い
天文11年(1542年)6月 諏訪氏侵攻、桑原城の戦い
天文11年(1542年)9月25日 宮川の戦い
天文12年(1543年) 大井貞隆攻め
天文14年(1545年)4月 高遠城攻め
天文14年(1545年)6月 福与城攻め
天文13年(1544年) 後北条氏と和睦
天文16年(1547年) 小田井原の戦い
天文16年(1547年) 『甲州法度之次第(信玄家法)』制定
天文17年(1548年)2月 上田原の戦いで、村上義清に大敗する
天文17年(1548年)4月 小笠原長時による諏訪侵攻
天文17年(1548年)7月 塩尻峠の戦い
天文19年(1550年)7月 松本盆地侵攻
天文19年(1550年)9月 砥石城攻め(砥石崩れと呼ばれる大敗)
天文20年(1551年)4月 砥石城落城
天文21年(1552年)8月 小岩嶽城攻略
天文22年(1553年)4月 葛尾城の戦い
天文22年(1553年)4月 村上義清や北信豪族の要請を受けた長尾景虎が本格的な信濃出兵を開始
天文23年(1554年) 嫡男武田義信の正室に今川義元の娘嶺松院を迎え、甲駿同盟を強化
天文23年(1554年) 娘を北条氏康の嫡男北条氏政に嫁がせ甲相同盟を結ぶ
天文23年(1554年) 佐久郡や伊那郡・木曽郡に残されていた反武田勢力を完全に鎮圧
天文24年(1555年) 川中島において200日余長尾軍と対陣
弘治2年(1556年) 長尾家家臣の大熊朝秀が離反し、会津の蘆名盛氏と共に越後に侵攻するが撃退された
弘治3年(1557年)2月15日 葛山城を奪取
弘治3年(1557年) 室町幕府の第13代将軍・足利義輝による甲越和睦の御内書が下される
永禄2年(1559年)2月 第三次川中島の戦いの後に出家
永禄2年(1559年)3月 高梨氏は本拠地の高梨氏館(中野城)を落とされ、飯山城に後退
永禄4年(1561年)4月 上杉政虎が後北条氏の小田原城を包囲
永禄4年(1561年)8月 第四次川中島の戦いは一連の対決の中で最大規模の合戦となる
永禄7年(1564年) 上杉謙信が武田軍の飛騨国侵入を防ぐために川中島に出陣
永禄7年(1564年)6月 信玄は家臣の山県昌景・甘利昌忠を飛騨へ派遣
永禄7年(1564年)8月 上杉輝虎は信玄の飛騨国侵入を防ぐため、川中島に出陣
永禄年間(1558年以降) 越中国への介入
永禄3年(1560年)5月 今川義元が桶狭間の戦いで織田信長によって敗死
永禄10年(1567年) 甲相同盟が破綻
永禄11年(1568年)12月 徳川家康と共同で駿河侵攻を開始
永禄12年(1569年)8月 上杉氏との和睦(甲越和与)が成立
永禄12年(1569年)12月 小田原城を一時包囲(三増峠の戦い)
永禄12年(1569年)末 再び駿河侵攻を行い、駿府を掌握
元亀元年(1570年)1月 花沢城を攻め落とし、清水袋城を築城
元亀元年(1570年)8月 駿河に攻め入り、韮山城を攻略できず
元亀元年(1570年)12月 秋山虎繁が徳川氏を攻めるが、小田子合戦で敗北
元亀2年(1571年)2月 大規模な遠江・三河侵攻を行う
元亀2年(1571年)4月 勝頼が加賀一向一揆に書状を送り、連携を要請
元亀2年(1571年)10月3日 北条氏康が死去
元亀2年(1571年)12月27日 北条氏政とのあいだで同盟を回復(甲相同盟)
元亀3年(1572年)10月3日 信玄が甲府を進発(西上作戦)
元亀3年(1572年)10月14日 徳川家康と一言坂で戦い、勝利
元亀3年(1572年)12月19日 二俣城を陥落
元亀3年(1572年)12月22日 三方ヶ原の戦いで徳川家康を破る
元亀4年(1573年)1月 三河に侵攻
元亀4年(1573年)2月10日 野田城を落とす
元亀4年(1573年)4月12日 武田信玄が死去


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甲陽軍鑑とは何か?

甲陽軍鑑とは、武田信玄の戦略・戦術を記した軍学書

甲陽軍鑑は、武田信玄が率いた甲斐武田家の戦略・戦術・軍法・刑法などを記した書物です。

武田信虎による国内統一から、武田信玄やその息子・武田勝頼による領土拡大まで、武田家繁栄の歴史を詳細に伝えています。

家臣たちの逸話や事績も収録されており、武田家の人間像や精神を知る貴重な資料となっています。

さらに、武田家の礼儀作法に関する記述も含まれており、戦国時代の武士道精神を理解する上で重要な役割を果たしています。

甲陽軍鑑は、単なる軍学書ではなく、武田家の歴史、文化、精神を現代に伝える貴重な書物と言えるでしょう。


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誰が記したものなのか?

甲陽軍鑑を記したのは、武田信玄ではなく、武田四天王のひとり高坂昌信こうさかまさのぶであるといわれています。

高坂昌信とは、農民出身で、信玄に部下として召しかかえられ、頭角を表した武将です。

1575年、長篠の戦いで、馬場信春、山県昌景、内藤昌秀など、他の四天王3名が全員討ち死にしましたが、高坂は出陣していなかったため、生き残っています。

高坂は、農民出身であったためか、文字の読み書きができなかったようです。

そのため、甲陽軍鑑を口述つまり口で伝えて部下に文章として記させたといいます。

もともと高坂昌信が甲陽軍鑑を記させた理由は、長篠の戦いで大敗した主君・武田勝頼に対して、諫言かんげんつまり間違いや弱点を注意をするためだったといわれています。

高坂昌信は、1578年に、上杉景勝と武田勝頼の同盟締結にかかわったあと、52歳で亡くなっています。

その4年後、1582年、武田勝頼は織田信長に討たれ、武田家は滅亡。

信長もその3ヶ月後に、明智光秀に本能寺の変で討たれ、亡くなっています。


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武田信玄の死因と最期

死因は胃ガン

武田信玄の死因は、胃がんというのが一般的ですが、一説によると寄生虫が原因で亡くなった可能性もあるといいます。

彼の死因については謎に包まれた部分が多く、現在も議論が続いています。

信玄は生前から肺結核はいけっかく(別名・労咳ろうがい)を患っており、度々吐血していたことが記録されています。

そのため、彼の死因は肺結核であると考えられていました。

しかし、近年では「甲陽軍鑑」などの資料に基づき、信玄の死因は「胃がん」または「食道がん」であるという説が有力になっています。

さらに、近年では寄生虫感染による高熱が死因であるという説も提唱されています。

→→→→→【武田信玄の死因は寄生虫?】についてくわしくはこちら

いずれにしても、信玄の死因は明確に分かっておらず、今後も議論が続く可能性が高いでしょう。


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西上作戦の途中、陣中で亡くなった

武田信玄は、西上作戦とよばれる、打倒織田信長のため京都へ向かう作戦の途中で、病死したのでした。

1573年、武田信玄は、室町幕府15代将軍・足利義昭の要請に応え、甲斐(山梨県)から浜松を通って、京都へ向かっていました。

途中、三方ヶ原の戦いで徳川家康の軍団を撃破したものの、長く病気を患っていた武田信玄は、三河(愛知県東部)に入ったところで撤退を開始します。

ところが、甲斐へ戻る途中の信濃(長野県)の駒場というところで亡くなってしまうのでした。

享年53歳。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 武田信玄は、文武において天才的な能力を発揮し、父に嫌われるほどだったという
  2. 信玄には、上杉謙信との川中島の戦いを相撲で決着をつけたというエピソードがある
  3. 信玄は、三方ヶ原の戦いでのちの天下人・徳川家康に大勝した直後、胃ガンで亡くなった。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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