「人斬り以蔵」と呼ばれた剣客「岡田以蔵」の生涯と、愛刀について、わかりやすく解説いたします。
「岡田以蔵」は、なぜ亡くなったのか?
坂本龍馬からもらった愛刀「備前忠広」はどこにあるのか?
以蔵は友のために人斬りを繰り返し、処刑。
愛刀は靖国神社にあったが今は行方不明
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
・岡田以蔵とは、武市半平太がつくった組織「土佐勤王党」の党員で、「人斬り以蔵」の異名をとった剣豪
・以蔵は武市や坂本龍馬の頼みを聞き入れ、「勝海舟の護衛」や、「重要な人物の暗殺」を繰り返したのちに処刑された
・愛刀「肥前忠広」は、靖国神社にあったが、今は行方不明
《岡田以蔵とは何をした人なのか?》
岡田以蔵は土佐藩の足軽の家に生まれ、武市半平太に剣術を師事し、土佐勤王党に加盟。
武市に従って京にのぼり、武市の示唆に従い天誅と称して役人や与力などの殺人に手を染めるようになります。
その後、以蔵は土佐を脱藩し、土佐藩吏に捕われ土佐へ搬送。
土佐藩では、参政「吉田東洋」暗殺の嫌疑で首領の「武市半平太」を含む「土佐勤王党」の同志がことごとく捕らえられていました。
以蔵は拷問に屈して自分の罪状、及び天誅に関与した同志の名を自白し、打ち首・獄門となります。
《岡田以蔵の生涯と最期》
岡田以蔵は武市半平太に剣術を師事し、武市に従って江戸に出て、鏡心明智流剣術を『桃井春蔵」の道場・士学館で学びます。
さらに中国、九州で武術修行を行い剣術修行。
その頃、土佐では武市が土佐勤王党を立ち上げ、その首領として京都藩邸にいました。
武市は党員を使い土佐藩参政の吉田東洋を暗殺、クーデターを起こし、土佐藩政を掌握したのです。
以蔵は土佐勤王党に加盟し、武市の身辺に影のように寄り添っていました。
京都は尊攘志士がはびこり、無警察状態。
(この頃は新選組誕生前)武市は各藩の志士と交流を持ち、時勢について矯激な議論をしていました。
その際、武市から「何某は勤王のような顔をして実は佐幕派でけしからん」との発言があると、以蔵はその何某を斬り捨ててしまう。
また、吉田東洋暗殺の犯人を捜索しにきた土佐藩の役人も殺します。
その他京都町奉行の役人や与力を天誅と称して次々に暗殺。
以蔵は後世「人斬り以蔵」と称され、人々から恐れられます。
その頃、以蔵は坂本龍馬にも会っています。
暗殺という暗い手段を取る武市と袂を分かった龍馬は、以蔵に対しても天誅を非難し、勝海舟の用心棒を依頼します。
勝は暗殺団に襲われますが、以蔵が斬り捨てて勝を守護。
その直後に、勝が以蔵に対して
「君は人を殺すことをたしなんではいけない。
先日のような挙動は改めたがよい。」
と諭したところ、以蔵は
「先生、それでもあの時私が居なかったら、先生の首は既に飛んでいますよ。」
と返した。勝は
「これには俺も一言もなかったよ」
と後に述べています。
しかし、勝の用心棒は長続きせず、以蔵は勝と龍馬のもとを去ります。
勝海舟の護衛を終えた後、過激な勤王藩である「長州藩」が八月十八日の政変で失脚。
一時的に佐幕派(幕府を助けようとする勢力)の勢いが復活すると、前土佐藩主「山内容堂」は股肱の臣である「吉田東洋」を暗殺した憎しみや、郷士への差別意識などから土佐勤王党を大弾圧。
容堂は武市を逮捕投獄します。
以蔵にも召喚命令がきましたが、以蔵は拒絶し自然脱藩浪人となりました。
以蔵は京都で孤独になり、酒におぼれたすさんだ生活を送ります。
間もなく以蔵は京都所司代の捕吏につかまります。
尋問された際に「土佐の岡田以蔵」と答えても役人は信じず、土佐藩邸に照会し土佐藩監察官がやってきました。
監察官は以蔵であることに狂喜しました。
なぜなら、国元では逮捕した武市半平太以下、土佐勤王党員が拷問でも口を割らず、断罪できていなかったからです。
以蔵はかっこうの生き証人でした。
しかし、土佐監察官は「この者は土佐藩の者にあらず」と所司代の役人に答え、以蔵は愕然とします。
結果、所司代により「無宿鉄蔵」と名付けられ入墨刑の後、洛外に追放されます。
そこに待っていたのが土佐藩検察官でした。
「岡田以蔵、藩命により本国へ召し抱えされる。」
以蔵は土佐藩により無宿入墨鉄蔵という非人間的境遇に落とされ、今また岡田以蔵として逮捕されたのです。
土佐藩に連れ帰られた以蔵を待っていたのは、凄まじい拷問でした。
以蔵は拷問を受けて、あまりの痛さに泣き叫びます。
他の土佐勤王党員は拷問を受けても決して吐きませんでした。
武市は牢の中で考えます。
「ついに、以蔵により崩れるか。」
果たして以蔵は拷問に耐え切れず、東洋殺し、天誅(暗殺)の数々、関与した同志の名などを洗いざらい自白。
以蔵の自白に基づき、武市をはじめ土佐勤王党員が断罪され、武市は切腹。
武市は検視官が目を見張るがごとく、みごとに三文字に腹を割いたといいます。
以蔵は極刑の梟首(さらしくび)となり、28年の生涯を終えます。
《愛刀「肥前忠広」の逸話と現在の行方》
銘刀「肥前忠広」は、坂本龍馬が脱藩のさい、姉の乙女から贈られた兄・坂本権平の秘蔵刀です。
その後、肥前忠広は龍馬から以蔵に貸しあたえられます。
超一流の刀を持った以蔵ですが、彼の最初の「天誅」である本間精一郎を殺す際に、切っ先が欠けてしまったそうです。
そしてそれ以後も、暗殺という暗い目的のみに用いられました。
土佐勤王党の生き残りである五十嵐幾之助の回顧によると、肥前忠広は回顧談当時は遊就館(東京・靖国神社境内に併設された同社の祭神ゆかりの資料を集めた宝物館)に展示されていたらしいのですが、現在は行方不明だそうです。
《『岡田以蔵』について、レビュー(評論)!》
岡田以蔵・・・・・人斬り以蔵として、その名を後世に残した剣客
- 田中新兵衛
- 河上彦斎(「るろうに剣心」のモデル)
- 中村半次郎(桐野利秋)
これら三名と並び「幕末四大人斬り」と呼ばれたのが、岡田以蔵です。
幕末という「人を斬る技」が求められた時代でなかったら、以蔵はその腕前をもって、比較的平穏な人生をおくっていたかもしれません。
「君のため 尽くす心は 水の泡 消えにし後ぞ 澄み渡るべき」
以蔵の辞世の歌です。意味は以下の通り
君(君主)のために尽くした私の真心は、水の泡となりました。しかし、私の真心が消えたあとの水は、澄み渡っていることでしょう
君とは「武市半平太」のことでしょう。武市のために数々の人斬りを行ったのに、何もかもが報われなかった。
武市は以蔵の自白を恐れ、以蔵毒殺を画策したと言われています。それを知った以蔵は洗いざらいを自白したのです。
坂本龍馬から「勝海舟」の護衛を頼まれて受けた「以蔵」。武市半平太から「暗殺」を頼まれて請け負った「以蔵」
仲間のためなら汚れ仕事も請け負う・・・心優しい男だった気がしてならないのです。
武市はきっと「八月十八日の政変」で都落ちした長州藩士とともに、以蔵が長州藩へ亡命していると思ったのでしょう。その時「龍馬」を頼っていれば、土佐へ強制送還されることもなかったはず。
時流を読めなかった岡田以蔵・・・腕は立つものの、知略には乏しかったのです。
《まとめ》
本日の記事をまとめますと
・岡田以蔵は土佐藩の足軽の家に生まれ、武市半平太に剣術を師事し、土佐勤王党に加盟します。
・以蔵は武市の示唆のもと、天誅として次々と殺人を犯し、後世「人斬り以蔵」と呼ばれます。
・武市をはじめとする土佐勤王党が捕縛された際、逮捕された以蔵の自白により断罪されます。
・以蔵の愛刀「肥前忠広」は龍馬から借りたものです。以前は遊就館に展示されていましたが、現在は行方不明との事です。
岡田以蔵と聞くと殺人者としての暗いイメージが付きまといます。
大河ドラマ「龍馬伝」で、以蔵役を佐藤健さんが演じたのには驚きました。
以蔵のイメージと佐藤さんのさわやかなイケメンのイメージが全く合致しなかったからです。
佐藤さんの以蔵により少しイメージアップとなったのを記憶しています。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
↓↓↓↓↓↓
コメント