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【坂本龍馬】死亡・暗殺の真相を解説!最期の様子とお墓の場所は?

幕末の大事件「坂本龍馬・暗殺」について、真犯人が誰なのかを考えてみたいと思います。

坂本龍馬が暗殺された「近江屋事件」の真犯人は、最近の定説によると、会津藩主・松平容保の命令を受けた京都市中見廻組・佐々木只三郎だといわれています。

ただし、「佐々木只三郎・真犯人説」のほかにも、「薩摩藩・西郷隆盛・真犯人説」などもあるようです。

龍馬暗殺の真相を、くわしく、わかりやすく考察してみたいと思います。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

坂本龍馬暗殺について、「薩摩藩・黒幕説」が存在する

・坂本龍馬の最期の様子は、龍馬らしい陽気な最期だった

・龍馬のお墓は「中岡慎太郎」とともに「京都市東山区・護国神社」にある

・現在の定説では、京都市中見廻組「佐々木只三郎」が龍馬を暗殺。黒幕は会津藩主「松平容保」と言われている


≪坂本龍馬、死亡・暗殺の真相について≫

坂本龍馬

『引用元ウィキペディアより』

実行犯は別として、龍馬暗殺の黒幕は薩摩藩だとする説があります。

薩摩藩にとって龍馬は、薩長同盟を仲介した功労者のはず。

何故、薩摩藩が龍馬暗殺の黒幕だと言われるのでしょうか?

龍馬暗殺は、大政奉還のわずか1か月後。

この大政奉還が、その大きな理由なのです。



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武力討幕派である薩摩の西郷隆盛と、お公家さんの岩倉具視の画策で、薩摩藩と長州藩に「討幕の密勅(幕府を倒せ!という秘密命令)」が渡されます。

その当日に「大政奉還」がされて、倒すべき幕府がなくなってしまったのです。

武力討幕派は、革命による新しい日本は、戦争の砲煙の中から生み出されるものであると信じ込んでいて、革命戦争以外の道は考えていませんでした。なぜなら力づくで幕府勢力を叩き潰さなくては、幕府勢力は既得権益や利益をある程度保持したままになる上に、「源頼朝」や「後醍醐天皇」のように巻き返しを図る可能性があったから。幕府の利権や力をすべて取り上げることもまた、武力倒幕の目的だったのです。

その為に、非常に際どい政略により、「倒幕の密勅」が出されるところまでこぎつけたのですが、見事に肩透かしを食らった形となります。

この大政奉還は土佐の参政「後藤象二郎」が建白したものですが、後藤象二郎にその案を教えたのは「坂本龍馬」です。

坂本龍馬は、平和裏に政権を移行したいと考える非戦論者でした。

龍馬にとって、政権を返上する決断をした最後の将軍「徳川慶喜」こそ大功労者であり、気持ちの中では同志であると思っていたでしょう。つまり龍馬は「無血革命」を狙っていたのです。

一方前述の通り、武力討幕派である「西郷隆盛」や「大久保利通」にとっては、革命戦争こそ正義であり、徳川家は討滅すべき対象でした。

龍馬と西郷の「政見の違い」は明白となりました。

龍馬が武力討幕派になるように、西郷の説得に応じるとも思えませんし、薩長同盟の立役者である龍馬の発言は、西郷としても無視できません。

つまり、龍馬がいなくなれば、武力討幕が非常にやりやすくなる、と考えても不思議ではありません。

よって、西郷隆盛が示唆した結果、龍馬暗殺につながったのでは…というのが薩摩黒幕説です。



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≪坂本龍馬の最期の様子≫

龍馬暗殺の舞台は京都の由緒ある醤油屋である近江屋。

その日、龍馬は盟友である陸援隊の中岡慎太郎と一緒でした。

そこに6名の刺客団が訪れます。

十津川郷士と名乗り、龍馬に取次ぎを頼みます。

取次に出た山田藤吉を背中から切り、大きな物音に龍馬は

「(うるさいぞ藤吉)ほたえなや!(騒ぐな!)」

と叫んでしまったために、刺客団に居場所が知れてしまいます。

刺客団は疾風の様に走り、龍馬の居る部屋に飛び込むなり、龍馬の額を斬撃し、中岡の後頭部を斬撃します。

突然の事であり、龍馬、中岡とも十分に応戦もできず、龍馬は後頭部から背中、再度額を深く斬られます。

刺客団が去った後、気絶していた龍馬と中岡は息を吹き返します。

龍馬は、自分の頭から脳漿が流れ出ているのを自ら確認し、中岡を見て澄んだ明るい笑顔を向け

「慎太郎、おれは脳をやられている。

もう、いかぬ。」

といい、絶命します。

中岡慎太郎は、この事件の二日後に亡くなっています。

後に「西南戦争」で活躍する「谷干城(たにたてき)」に対して、「犯人は新選組だろう」などと証言しています。中岡はおそらく龍馬の最期の様子もこの時「谷干城」に言い残していたのでしょう。



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越前藩士で由利公正(ゆりきみまさ)という人がいます。

明治維新政府の財政担当官となる人です。

由利は龍馬によって世に出されました。

龍馬は生前、由利に自分の写真を渡します。

「おれの写真さ。

この先どうなるか分からん。

万一の時に形見と思ってくれ。」

と言ったそうです。

由利は龍馬の写真を護符のように身に着けていました。

ある日、よく晴れた穏やかな月明かりが美しい夜、由利が土手を歩いていると、突然一陣の風が起こります。

その風が由利の懐中にあった龍馬の写真を天に巻き上げたのち、風は去りました。

由利がそのあたりを一生懸命に探しましたが、ついに龍馬の写真は見つかりませんでした。

まさにその時刻、龍馬が刺客団に襲われたのです。

龍馬の霊が天に駆けのぼった、と言える不思議なエピソードです。



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≪龍馬のお墓はどこ?≫

龍馬のお墓は「京都市東山区・護国神社」に、「中岡慎太郎」の墓とともにあります。

二人のお墓は寄り添うように隣に建てられ、ふたりの銅像も設置されています。

ちなみに、同じ墓所に「桂小五郎(木戸孝允)」「高杉晋作」「久坂玄瑞」「大村益次郎」「吉村寅太郎」の墓もあります。



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《龍馬暗殺の真犯人は、すでに明らかになっていた!》

「龍馬暗殺に謎はありません!!」

これは「憲政史研究家」の「倉山満(くらやま みつる)」先生のお言葉です。

倉山先生がおっしゃるには、坂本龍馬を暗殺したのは京都市中見廻組「佐々木只三郎(ささき たださぶろう)」。暗殺を命じたのは会津藩主「松平容保(まつだいら かたもり)」だとか。

実はこの「佐々木只三郎」「松平容保」説は、現在の定説。

有名な歴史研究家「磯田道史(いそだ みちふみ)」さんもまた、「佐々木只三郎」「松平容保」説を主張しておられました。

「佐々木只三郎」とは会津藩の武士で、新選組とならぶ治安維持部隊「京都市中見廻組」のトップ。「松平容保」は徳川家の血を引く「会津藩」の藩主です。



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この「佐々木只三郎」「松平容保」説を裏づけているのが、「佐々木只三郎」の兄「手代木勝任(てしろぎ かつとう)」が残した証言です。

「手代木勝任」は、日露戦争が起こっていた1904年(明治37年)に亡くなっていますが、亡くなる直前に、以下の言葉を残しています。

「坂本龍馬を暗殺したのは、弟の佐々木只三郎。暗殺を命令したのは会津藩主・松平容保公」

「坂本龍馬は、薩長同盟や大政奉還を実現して、徳川幕府を終わらせた。

そのため、徳川家の血を引く松平容保公から、深く恨まれていた」

実は「佐々木只三郎」が犯人であると証言しているのは「手代木勝任」だけではありません。

元「京都市中見廻組」の隊士だった「今井信郎」なる人物もまた、「龍馬暗殺は佐々木只三郎の犯行」であると証言しているのです。

この今井信郎もまた、暗殺に加わった実行犯。

今井が言うには、

佐々木只三郎・今井信郎・渡辺吉太郎・高橋安次郎・桂隼之助・土肥仲蔵・桜井大三郎

の7人が実行犯なのだとか。犯行動機は「寺田屋事件」によって、坂本龍馬が役人二名をピストルで殺害したから。



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二人の人物が「佐々木只三郎」犯人説を証言しているというのに、どうして「龍馬暗殺」は「謎」となってしまったのか。

実は「手代木」と「今井」の証言が、食い違っているからだそうです。今井の証言によると、襲撃犯は「7名」。しかし手代木の証言では人数が異なっていたりと、違いがあるのです。

また、坂本龍馬と一緒に襲撃された「中岡慎太郎」の証言も、「手代木勝任」「今井信郎」の証言と食い違っています。

襲撃を受けて生き延びた「中岡慎太郎」は、土佐藩出身「谷干城」に対して、こんな証言を残しています。

「おそらく新選組の犯行だろう」

実際、犯行現場からは、新選組十番隊組長「原田左之助」の鞘(さや)が発見され、「こなくそ」という四国の方言を口にしていたという証言もありました。(原田は四国出身)

坂本龍馬を尊崇していた谷干城は、「自分たちが龍馬を暗殺した」という「今井信郎」の証言に激怒。

「お前なんかに坂本さんが暗殺されてたまるか!」

「ただの売名行為だ!」

と、猛烈な反論を見せています。

「手代木勝任の証言」「今井信郎の証言」という強力な証拠があるにもかかわらず、「中岡慎太郎の証言」「谷干城の猛反論」などもあって、「龍馬暗殺」は「謎」となってしまいました。

「薩摩藩説」「勝海舟説」「新選組説」など、数々の説がありますが、坂本龍馬暗殺は「佐々木只三郎」「松平容保」によるものだと考えるのが、自然なのでしょう。



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≪まとめ≫

本日の記事をまとめますと

・龍馬暗殺は薩摩が黒幕という説があります。大政奉還を起因とする政見の違いがその原因です。

・突然襲った刺客団により龍馬暗殺は実行されます。北辰一刀流の達人である龍馬でも、どうすることもできませんでした。

・龍馬のお墓は「京都市東山区・護国神社」に、中岡慎太郎の墓とともにあります。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました



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この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (2件)

  • 私の意見と若干の相違はあるのですが)、佐々木率いる見回り組襲撃犯、松平容保の指示(この場合殺害を許可した)で相違ないと思います。
    若干の相違は
    その1 藤吉は襲撃の翌日無くなっているが、倒れていたところは2階だ。峯吉と谷が証言している。したがって龍馬の     「ほたえなや」という言葉はあやしい。
    その2 慎太郎が谷に「おそらく新選組の犯行だろう」と証言を残したということ。
        瀕死の慎太郎になぜ新選組とわかるのか不思議だ。「犯人は二人」と言っているのだ。確かに陸援隊は慎太郎も含め新選組が狙っていたが。もし慎太郎が言ったとしてもそれは龍馬ではなく自分を斬った者を新選組かもしれないということだろう。

        

    • いつも当サイトをご利用いただきましてありがとうございます。
      とても貴重なご意見をありがとうございます。
      おっしゃる通り、藤吉や新撰組について、疑義のあるところだと思います。
      当サイトへそのご意見をいただけましたこと、心より御礼申し上げます。
      よろしければ、またぜひご利用いただきたく存じます。
      ありがとうございました。

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