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金栗四三の子孫と家系図!54年8ヶ月のマラソンの道のりとは?

マラソンの父「金栗四三(かなくり しそう)」の「家系図」の画像と「子孫」を動画付きで解説いたします。

日本人として初めて「オリンピック」に出場し、日本のアスリートたちの先駆者となった「金栗四三」。

ストックホルムオリンピックのマラソンで、ゴールまでに要した「54年8ヶ月」について、簡単にご紹介いたします。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 金栗四三のひ孫「蔵土義明(くらど よしあき)」さんが、現在、熊本市内で会社員をしておられる
  2. 金栗四三は「ストックホルムオリンピック」で暑さにより失神。そのまま帰国したため「失踪」あつかい。55周年記念イベントでゴールし「孫が5人できました」という名言を残した
  3. 参加した3度のオリンピックの結果はそれぞれ「失踪」「16位」「途中棄権」
  4. 金栗が「スウェーデン大会」の「予選会」で出した世界記録は、おそらく間違いだろう
  5. 「箱根駅伝」開催に尽力した金栗四三の「日本マラソン界」への貢献は、はかりしれないだろう

金栗四三の「家系図」と「子孫」

金栗四三の家系図を、わかりやすくご紹介いたします。

マラソンの父「金栗四三」は、1891年、酒造業者を営む「金栗家」に誕生。

男4人、女4人、合計8人兄弟の七番目、四男として誕生したのが「四三」でした。一説によると「7人兄妹だった」とも言われているようですが・・・・八人という説もあり、はっきりわかっておりません。

父を早くに亡くした四三を育てたのは、長兄「実次」。身体は弱いが勉強ができた四三には、特に目をかけたと言われています。

以下に金栗四三の家系図をご用意いたしましたが、細かい個人名と性別が判明しなかったため、このような形となりました。お詫び申し上げます。

≪金栗四三の家系図≫
「恐れ入りますが、家系図の引用等はご遠慮くださいませ」

四三は「西洋医」の娘で、幼馴染の「春野スヤ」と結婚。6人の子供に恵まれます。そして孫は10人もいたのだとか。

子供たちのうち、娘の孫、つまり金栗四三の「ひ孫」が、金栗四三の子孫として、現代までその血を伝えています。



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嫁「春野スヤ」・・仲間も知らなかった金栗の結婚!

1914年・・・・悪夢のようなストックホルム大会から2年がたった時、金栗は1916年開催の「ドイツ・ベルリンオリンピック」に向けて、練習を重ねていました。

そんなある日、金栗四三のもとに兄「実次」から、親戚が「四三」を養子にもらいたいと言っている、という手紙が届きます。

四三は兄に対して、「お兄さんにまかせます」と返事をしています。

「池部家」は裕福な資産家。定職につくことなく、練習に専念できることとなります。

養母「幾江」は養子入りが済むと、四三に結婚をすすめはじめます。

お相手は「春野スヤ」さん。

1914年4月10日、四三は「春野スヤ」さんと、初めて顔をあわせます。

互いに惹かれ合うものがあったのか、二人は出会った翌日の「1914年4月10日」にいきなり結婚!

これこそ「運命の出会い」というやつなのかもしれません。大河ドラマ「いだてん」で描かれているような、幼馴染から結婚へ、という流れよりも、こちらのほうがよほど「運命」を感じさせてくれる気がします。

池部家の養子となったことで、「金栗四三」は「池部四三」と名前が変わりました。しかし、池部家の義母の配慮により、そのまま「金栗」の姓を名乗り続けたのでした。

しかも結婚したにもかかわらず、いきなり妻と別居。

そのため、金栗の結婚は、一緒に練習していた友人ですら気が付かなかったほど。

その後2人は、熊本と東京で別居。

1916年「ドイツ・ベルリンオリンピック」は、「第一次世界大戦」が原因で中止。

1920年「ベルギー・アントワープオリンピック」で、金栗四三は「16位」。

1924年「フランス・パリオリンピック」が「途中棄権」

金栗がマラソンを引退したところで、二人はようやく一緒に暮らし始めます。

二人は「6人」の子供に恵まれましたが、スヤは夫がいない間、1人で子供を育てています。

二人はその後も穏やかに夫婦生活を続け、金栗は「1983年(昭和58年)11月13日」に「92歳」で生涯を閉じるのでした。

 

金栗四三の妻「春野スヤ」さんについて、詳しくは以下のリンク記事をお役立てくださいませ。



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金栗四三の子孫が「オリンピック記念大会」に招待されていた!

金栗四三の「ひ孫」のお名前は「蔵土義明(くらと よしあき)」さん。2012年の時点では「25歳」でした。

お仕事は熊本市内で会社員をしておられるようですね。

2012年7月14日、スウェーデン・ストックホルムで、ストックホルムオリンピックから100年の記念を祝し、「ストックホルムマラソン」と同じコースを走る「五輪100年記念マラソン大会」が開催されました。

その大会で、金栗四三の功績を讃え、「顕彰銘板」の除幕式も行われました。

そこに招待されたのが、「蔵土義明」さんです。

「蔵土」さんは、ストックホルムオリンピックのマラソンで倒れた金栗四三を介抱してくれた「ペトレ」家を訪問し、感謝を述べたとのことです。
引用元「公式チャンネル・KyodoNewsチャンネル」より



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金栗が残した「オリンピック」結果一覧

金栗四三は生涯に「3度」のオリンピックに参加していますが、それらの「結果」はどんなものだったのでしょうか?

参加した順番に並べると、結果は以下の通りです。

 

・「1912年スウェーデン・ストックホルムオリンピック」
結果「失踪(のちにゴールしたため、一時行方不明とされた)」
1967年に開催された「ストックホルム五輪55年記念式典」に招待され、そこでゴールテープを切る。
結果は「最下位・54年8か月6日5時間32分20秒3

 

・「1916年ドイツ・ベルリンオリンピック」
結果「第一世界大戦により大会が中止」

 

・「1920年ベルギー・アントワープオリンピック」
結果「16位・タイム2時間48分45秒4」

 

・「1924年フランス・パリオリンピック」
結果「途中棄権」

 

ストックホルム大会の記録「54年8ヶ月」は公式記録として、もっとも長い記録です。



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金栗の「世界新記録」は本当だったのか?

「羽田で行われた『ストックホルムオリンピック選考会』で、金栗四三は当時の世界新記録を樹立したと話題になりました。

しかし、金栗がこのとき叩き出したタイムは、果たして本当だったのでしょうか?何かの間違いだったのではないでしょうか?

当時の世界新記録は「2時間59分45秒」

対して金栗の記録は「2時間32分45秒」

ちょうど「27分」も縮めたことになります。

果たして本当に金栗は「世界新記録」を「27分」も縮めるほどの走りをみせていたのか?

結論をいえば、「このタイムは間違い」だったと思います。

理由は4つあります。

1,「当時のマラソンの距離が、大会ごとに異っていた」

2,「直後の嘉納治五郎の発言が、間違いであることを示唆している」

3,「アントワープオリンピックでの金栗の公式記録が16位と、それほどでもない」

4,「予選会で金栗に敗れた2位3位の選手も、世界記録を破っている」



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当時のマラソンは大会ごとに距離が異っていた

実は当時のマラソンは、大会ごとに距離が異っていました。

測量技術が乏しかったこともあるのでしょう。

たとえば「1896年アテネオリンピック」と「1920年アントワープオリンピック」では、実に「3キロ」以上もの差があるのです。

羽田予選会では「25マイル(40.23km)」でした。嘉納治五郎先生も、この「距離」については、「しっかりと細かく測量した」と自信をみせていました。「日本人の驚くべき忍耐力を発揮したのだろう」とも言っていました。

しかし、オリンピックの公式大会ですら、大会ごとに距離が異っているのですから、当時の日本における予選会の距離が、どれほど正確であったのか、若干疑わしいのではないでしょうか。

「通常よりも極端に短い距離を走らせてしまった」という可能性が高いと思います。

または「途中で選手がコースを間違えた」なんて可能性もあると思います。

いずれにしても、距離を間違っていた可能性はかなり高いのではないでしょうか。



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直後の嘉納治五郎の発言が、間違いであることを示唆している

予選会直後、ストックホルムへと出発する金栗に対して、嘉納治五郎先生はこんなことを言っています。
「万が一ストックホルムのマラソンで敗れても、それは君1人の責任ではない」
世界記録を「27分」も縮めた人物に対して、そんなことを言うでしょうか?
「金メダル間違いなしだから、自信をもって行って来い」
と言うべきところでしょう。
予選会からストックホルム出発までの間に、おそらく嘉納治五郎先生は「距離」または「時間計測」の間違いに気がついていたのでしょう。ただ、それを言い出せなかったのだと思います。



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アントワープ五輪での金栗の記録が16位と、それほどでもない

金栗は、生涯に3度のオリンピックに出場しています。

「1912・スウェーデン・ストックホルム」

「1920・ベルギー・アントワープ」

「1924・フランス・パリ」

ストックホルム大会は「失踪」。パリ大会では「途中棄権」、アントワープ大会では「16位」。

実は金栗、「アントワープ大会」でだけ、公式記録を残しているのです。

 

羽田の予選会前の世界記録が「2時間59分45秒」(40.23km)

1908ロンドン五輪記録が「2時間55分18秒」(42.195km)

アントワープの金栗の記録は「2時間48分45秒4」(42.74km)

羽田予選会での金栗の記録が「2時間32分45秒」(40.23km?)



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これをみると、金栗が当時の「金メダリスト」よりも2km近く短く走っているとはいえ、それでも20分も縮める記録を残していることがわかります。

アントワープでは、1908年ロンドン大会より500mも多く走っているのに7分も縮めています。それでもアントワープ大会では「16位」だったのです。

金栗が羽田予選会の当時、かなりの実力を持っていたことは事実でしょう。

しかし、「アントワープ」の大会記録をみると、それほど世界で抜きん出ているというわけではないと考えられるのです。

ちなみに金栗四三が「ストックホルム大会」で公式に残した記録は

「54年8ヶ月6日5時間32分20秒3」

もっとも長い公式記録として有名です。



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予選会で金栗に敗れた2位3位の選手も、世界記録を破っている

羽田予選会で、金栗に敗れた2位3位の選手も、当時の世界記録「2時間59分45秒」を破っています。

2位「佐々木政清(北海道小樽水産)」

3位「井出伊吉(慶應義塾大学)」

金栗も含めて三名が、当時の世界記録を更新した・・・。

これが当時の日本人の実力だったのでしょうか?

日本人の持久力が優れていたことは事実でしょうが、一度に三名ものマラソン初心者が世界記録を更新するというのは、ちょっと考えにくいと思います。



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以上、4つの点から考えても、おそらく「金栗四三が叩き出した世界記録」は、間違いだったのではないかと思います。

とはいえ、金栗四三が残したものは、世界記録よりも遥かに価値があるものでしょう。

その金栗が育てた日本のマラソン選手は、「鈴木房重」から始まり「重松森雄(福岡大学)」まで、実に5度も世界記録を更新しています。

「重松森雄」さんが1964年東京五輪「アベベ」の世界記録を更新したのが「1965年」です。それから50年以上、日本はマラソンでの世界記録更新が出来ていません。

しかし「大迫傑」や「設楽悠太」などの人材も育ってきていますので、もしかすると「日本マラソン」が世界記録を更新する日も近いのかもしれません。



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「費用」はすべて自費!仲間と兄があつめてくれた「1800円」

ストックホルムオリンピックに、日本人として初めて参加することとなった金栗四三。

スポーツ後進国であった日本の代表として、国の威信をかけて戦うこととなったわけです。

これまでの競争とは、わけが違う重圧を背負っていました。

しかし、オリンピック参加を決意した金栗を、いきなり難問が襲います。

「費用」の問題です。



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当初、金栗や嘉納治五郎ら「選手団」は、国に費用を負担してもらうはずでした。

ところが文部省が、突然費用負担を拒絶したのです。もしかしたら、「日露戦争」で賠償金を取ることができなかったことなどが影響したのかもしれません・・・。

ストックホルムへの旅は、船やシベリア鉄道を利用して、およそ5ヶ月の予定。

必要となる費用は「1800円」。現在の価値で「約500万円」。

一緒に参加する短距離走者「三島弥彦」は、父「三島通庸」が「警視総監」、兄「三島弥太郎」が「銀行頭取」がったため、金の心配はいりません。しかし、落ちぶれた酒造業者出身の金栗に「1800円」という大金は、とても用意できる金額ではなかったのです。

そんな金栗を救ったのが、一緒に生活していた「寄宿舎」の仲間たち。

彼らは協力して「金栗四三後援会」を組織。東京高師学校の卒業生らに協力を呼びかけ、なんと「1500円」もの大金を集めたのでした。現在の価値で約「420万円」ほど。

残りの「300円」は、金栗の実兄「実次」が用意。

費用工面に協力してくれた100名以上の仲間たちに見送られて、新橋駅を出発した金栗。必勝を誓って「スウェーデン・ストックホルム」へと旅立ったのでした。

実際には「3000円」ほどの巨費を持っていっていた・・・なんて説もあります。巨額の費用を金栗が用意してくれなかったら、日本マラソンの今日はなかったかもしれません。



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オリンピックの結果!54年8か月!ストックホルムで愛された名言とは

金栗四三は「ストックホルムオリンピック」のマラソンに参加したものの、選手のコンディション調整に不慣れだったナショナルチームの失敗と、猛暑という最悪のコンディションのせいで、レース後半に失神。

日本の「林」中佐と東京帝大の「友枝」助教授に助けられ、近くの「ペトレ家」へ担ぎ込まれます。

金栗はその後、ゴールへ向かうわけでもなく、大会運営本部に事情を説明するでもなく、そのまま帰国してしまったため、「消えた日本人ランナー」と呼ばれることとなったのです。



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その後、金栗はアントワープオリンピックで16位。パリオリンピックで途中棄権という結果を出します。

時は流れて54年8ヶ月後、スウェーデンから招待を受けた金栗は、「オリンピック55周年記念」のイベントに出席。

そこで、失踪に終わったマラソンのゴールテープをきることとなるのです。

タイムは

「54年8ヶ月6日5時間32分20秒3」

盛大な拍手に迎えられた金栗四三は、こんなコメントを残しています。

「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」

ストックホルムでは、「消えた日本人ランナー」として、今も金栗四三は人々に記憶されているのです。

 

そんな金栗四三さん、日本でおなじみとなっている「グリコ」のロゴになっているという噂があります。

大阪道頓堀に大きく飾られている「マラソンのゴールシーン」をイメージしたロゴ看板は有名ですよね。

「グリコロゴ」は「金栗四三」がモデルである、という噂について、詳しく調査いたしました。

よろしければ、以下のリンク記事をお役立てくださいませ。



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『金栗四三』について、「ひとこと」言いたい!

毎年、お正月に開催される「箱根駅伝」

「箱根から世界へ」という言葉が表すとおり、「箱根駅伝」で活躍した選手は「世界選手権」や「オリンピック」などの大会に数多く輩出されています。
この「箱根駅伝」の開催に力を尽くしたのが金栗四三なのです。

箱根駅伝で最も活躍した選手に贈られる賞は「金栗四三杯」と呼ばれ、「今井正人」「柏原竜二」「佐藤悠基」「神野大地」など、数々の名選手に贈られています。

金栗四三がいなかったら、お正月の風物詩として、視聴率30%を記録し、沿道を観客で埋め尽くす「箱根駅伝」は誕生しなかったでしょう。

金栗四三は、記録を残すことはできなかったかもしれませんが、日本のマラソンランナー育成への貢献は、計り知れないものがあると思います。

そして、その穏やかな人柄もまた、現代まで金栗四三が愛される理由なのかもしれません。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 金栗四三の子孫、「ひ孫」の「蔵土義明」さんが、現在「熊本市内」で会社員をしておられる。
  2. ストックホルムオリンピックで失踪した「金栗四三」は、55年記念イベントでゴールし「長い道のりでした。その間に孫が5人できました」と名言を残した。
  3. 100周年記念大会で、ひ孫の「蔵土義明」さんが、金栗四三を介抱してくれた「ペトレ家」を訪問した。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

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