幕末・明治の太政大臣「三条実美(さんじょうさねとみ)」の「生涯」と「最期」、そして「子孫と家系図」について、画像つきで、わかりやすく解説いたします。
「子孫は東京インテリアに勤務」
「三条実美は、伊藤博文と初代内閣総理大臣の座を争い、敗れていた」
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この記事を短く言うと
・三条実美とは、幕末明治期の政治家。長州藩を支援した
・三条実美は「八月十八日の政変」で「七卿都落ち」を経験し、後に新政府で「総理大臣を兼任」している
・実は初代総理大臣は「伊藤博文」ではなく、三条実美になる可能性もあった
三条実美とは何をした人なのか?その功績とは?
三条実美
幕末に長州藩に協力し、七卿都落ち・・・その後の明治政府では、最期の太政大臣となった人物
三条実美の功績とは、何なのだろうか?
三条実美の功績
三条実美の功績を、短く解説いたします。
・長州藩に加担して、明治維新を後押し
・新政府において、太政大臣・内閣総理大臣兼任など、重職を歴任
太政大臣を務め、明治政府において、三条実美は名目上とはいえトップの地位にいたのです。
ちなみに明治新政府における実質的なトップは大久保利通。大久保が岩倉使節団で出国している間の「留守政府」は、西郷隆盛が主導していました。
家系図と子孫
三条実美の子孫は、現在なにをしているのでしょうか?
手短に言うと、三条実美の次男「公輝」の孫「公隆」氏が、「東京インテリア」に務めていたみたいです。
そしてその子「実久」さんと「実長」さんが、2018年現在30代・・・・。
三条実美の四男「河鰭実英」。その息子で高倉家に養子入りした「高倉公朋」さんは、東京女子医科大学名誉教授をなさっておられ、2018年現在もご存命です。
三条実美の生涯と最期
三条実美の生涯と最期を解説いたします。
生い立ち
三条実美
1837年、三条実万の三男として誕生。
1854年、兄が亡くなったため、世継ぎとして「三条家」を継ぐ。
ちなみに「三条家」というのは、「五摂家」と呼ばれる「近衛家」「鷹司家」「一条家」「二条家」「九条家」に準ずる公家の名門。
尊皇攘夷
1858年、大老・井伊直弼による「安政の大獄」が起こり、三条実美の父「実万」も処分され、強制的に「引退」させられています。
当時の公家は主に攘夷派・・・つまり日本へ迫る諸外国を武力で打ち払い、追い払うべきと考えていました。
三条実美も、攘夷を強く主張していた一人。
1862年、三条実美は江戸にて将軍「徳川家茂」に対して「攘夷決行」を迫りました。
そして、日本国内でも強く「攘夷」を主張していた雄藩「長州藩」と接近
この頃の三条実美は、「尊皇攘夷派」のお公家様の急先鋒と見られていたのです。
七卿都落ち
1863年、「八月十八日の政変」によって、長州藩は「薩摩藩」「会津藩」の連合軍に京都で敗北。
これにより長州藩は、京都から追放されてしまいます。
長州藩と強く結びついていた「三条実美」たち7名の公家もまた、長州藩へと落ち延びていきます。これが「七卿落ち」
1864年、第一次長州征伐が勃発。このとき三条実美は難を避けて「太宰府」にて3年もの間、幽閉。
この時、三条実美は「西郷隆盛」や「高杉晋作」「坂本龍馬」たち、幕末の志士たちと会談をしています。
明治政府のトップ
1867年、「王政復古の大号令」が起こると、三条実美は復帰
王政復古によって制定された新しい政府にて、実美は「議定」に任命
1868年、「副総裁」に任命
ちなみに「議定」は「三職」の1つ。他に「総裁」「参与」が儲けられています。
三条実美の他に「議定」に任命されたのは13名。中には「松平春嶽」「島津茂久」「徳川慶勝」「山内容堂」「岩倉具視」「伊達宗城」たち
「総裁」は、将軍「徳川家茂」の妻「和宮」の元婚約者「有栖川宮熾仁親王」
「参与」には、「薩摩藩」の大久保利通、小松帯刀、西郷隆盛、「長州藩」の木戸孝允、伊藤博文、井上馨など、明治新政府の重鎮が任命
1868年、戊辰戦争に置いて「関東観察使」を務め、その名の通り関東を視察
1869年、右大臣に就任
1871年、太政大臣に就任
三条実美は、最期の「太政大臣」として、名目上ではありますが、明治新政府のトップを務めたのです。
「征韓論争」で「大久保利通」と「西郷隆盛」が対立すると、その心労により三条実美は倒れます。この時、実美の代理を務めたのが「岩倉具視」。
西郷隆盛は論争に敗北し、江藤新平たちとともに下野。(明治六年の政変)
1877年、「西南戦争」にて西郷隆盛が亡くなり、翌年には「紀尾井坂の変」で大久保利通が亡くなります。
1885年には「内閣制度」が始まり、内大臣に就任。初代内閣総理大臣には「伊藤博文」が就任。
詳しくは後述いたしますがこの時、実は三条実美も総理大臣になれる可能性があったと言われています。
三条・暫定内閣
1889年、黒田清隆内閣が総辞職。退陣の外務大臣「大隈重信」が、テロリストの爆弾で右足を失う重傷を負ったことがきっかけでした。
明治天皇は、内閣総辞職を認めず、黒田清隆の辞意のみを認めたため、内大臣の「三条実美」が「内閣総理大臣兼任」という形で内閣が存続。
これが「三条暫定内閣」。しかし制度上、三条実美は「歴代総理大臣」には含まれていません。
最期
1891年、インフルエンザで死去
享年55歳。
国葬をもっておくられています。亡くなる直前には最高の官位「正一位」を贈られています。
お墓は東京都文京区大塚にある「護国寺」
伊藤博文ではなく、三条実美が初代総理になる予定だった
初代内閣総理大臣は、長州藩出身で、吉田松陰の教え子である「伊藤博文」
しかし、当初は「三条実美」の方が有力な候補だったのです。
内閣総理大臣の候補と見られていたのは、明治政府の名目上トップ「三条実美」と、事実上のトップ「伊藤博文」の2人
伊藤博文は、長州藩の農民出身。
対して三条実美は、「五摂家」に準ずる「三条家」の当主であり、家柄の良さはあまりにも歴然としていました。
双方の支持者が会談し、最初の内閣総理大臣を決めることとなりました・・・。
出席者全員が口をつぐみ、発言を控えている中で、伊藤博文の盟友である長州藩出身者「井上馨(いのうえかおる)」が一言
「これからの総理は赤電報(外国からの英語による電報)が読めなくてはダメだろう」
さらにダメ押しで、伊藤博文と同じ「松下村塾」「吉田松陰の門下」だった「山縣有朋」が一言
「すると、伊藤くんの他にはいない」
伊藤博文は、井上馨と同じ「長州五傑」・・・いわゆる「長州ファイブ」の一人であり、イギリスへの留学経験があったため、英語に堪能でした。
この発言に対しては、三条支持派も反論できず、そのまま伊藤博文が初代内閣総理大臣に決まったのでした。
しかしこれは、「井上馨」や「山県有朋」が伊藤博文を勝たせようと無理矢理にこじつけただけのこと。
英語の電報が読めようが読めまいが、そんなものは読める人間を側に置いておけば良いだけのことですよね。
こんなことで三条派が言葉を失うとは・・・・ちょっと信じられませんが、何はともあれ「伊藤博文」はこういう事情で初代内閣総理大臣になったのです。
こんな締まりのない論争で「初代内閣総理大臣」が決まったことは、日本人としてはかなり残念・・。
この結果が後々まで尾を引き、「西園寺公望(さいおんじきんもち)」まで「公家出身者」が総理大臣になることはありませんでした。
三条実美は、温厚で、調整役として非常に優秀だったと言われています。
とても優秀な政治家であったことは確かです。その証拠に「明治天皇」は「黒田清隆」総理大臣のあとを、三条実美に任せています。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・三条実美は、五摂家に次ぐ名門「三条家」の当主にして、最期の太政大臣
・実美は攘夷派であり、長州藩と組んで倒幕を成し遂げた
・1885年、「伊藤博文」ではなく「三条実美」のほうが、総理大臣になる可能性が高かった
以上となります。
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コメント
コメント一覧 (2件)
西園寺公望が総理になってますよ!西園寺は公家出身です
おぉ!!!
素晴らしいご指摘をありがとうございます!!
そんなことにも気が付かずにいました!
早速記事を改めさせていただきます!
ありがとうございました!!!