『は』
新選組が京都で活動していた期間は、およそ「5年間」でした。
【1867年】大政奉還が行われ「幕府」という概念自体がなくなります。同時に「新選組」という概念も消滅。
元々新選組が結成された理由は「14代将軍『徳川家茂』上洛の警護」と「倒幕運動の過激志士に対する治安維持」でした。(「上洛」とは京都へおもむくこと)
しかし大政奉還によって幕府がなくなった時点で「お役御免(クビ)」という立場になってしまいます。
「戊辰戦争」以降は「甲陽鎮部隊(こうようちんぶたい)」と名を変え交戦していきますが、「近藤勇」捕縛後(のちに斬首)は、また「新選組」と名乗っているようです。
そして副長「土方歳三」が箱館で倒れた後、戦後処理を任された最後の局長は「相馬主計(そうまかずえ)」でした。
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この記事を短く言うと
- 新選組は、明治2年(1869年)5月11日に副長だった「土方歳三」が「箱館戦争」で戦死。その「箱館戦争」「戊辰戦争」が5月18日終結したことで壊滅した。
- 新選組は「芹沢鴨」を初代筆頭局長とし、近藤勇・斎藤一・土方歳三らが局長を受け継いだ後、「相馬主計(そうまかずえ)」が最期の局長をつとめた
- 「箱館戦争」の後、局長「相馬主計」は原因不明の自決。「永倉新八」「斎藤一」「鈴木三樹三郎」「島田魁」らが生き残った
新撰組の最後!「鳥羽・伏見の戦い」から「箱館戦争」まで
結論から言えば、「新選組」が解散した理由は「土方歳三が戦死したから」です。
流山で局長「近藤勇」が捕縛された後は、副長「土方歳三」が新選組の一切を取り仕切るようになります。
鳥羽・伏見の戦い
慶応4年(1868年)1月3日
近藤勇・・・・竹田街道にて「御陵衛士」残党の襲撃を受け、肩を負傷していたため不参戦
土方歳三・・・近藤勇の代わりに新選組を率いる
【結果】敗戦
「甲州勝沼の戦い」
慶応4年(1868年)3月6日
近藤勇・・・・300名いた新選組の兵は、薩長軍の皇威(錦の御旗)に恐れをなして脱走者が増え、121名まで減った
土方歳三・・・援軍を頼みに行くも黙殺される
【結果】敗戦
この戦で「甲陽鎮部隊(新選組)」は八王子へと退却した後、解散しました。
そして、長年の戦友である二番組長「永倉新八」や、十番組長「原田左之助」と袂を分かっています。
江戸へ敗走している途中で「近藤勇」と「土方歳三」は合流。
「近藤勇」の最期
慶応4年(1868年)4月3日
近藤勇・・・流山に駐屯している際に、新政府軍に囲まれた「大久保大和(近藤勇の変名)」は、武装解除のために出頭。しかし新政府軍内に新選組時代の同志、つまり「顔見知り」がおり、他人を装っていたことを見破られてしまう
土方歳三・・・流山で新政府軍に囲まれたとき近藤勇が切腹しようとしていたところを説得し、近藤を新政府軍へ送る。「勝海舟」らに近藤勇の助命嘆願を直談判したが、実現しなかった
【結果】近藤勇は捕縛後、同年4月25日に斬首
土方歳三は「近藤勇」投降後、助命嘆願もしながら新選組を「山口二郎(斎藤 一)」に託して会津藩へ向かわせています。
しかし会津藩から仙台藩へ向かおうとする土方歳三と、会津藩に残って忠誠を尽くすべきだと訴える「山口二郎(斎藤 一)」と意見が対立。それが原因で、ここで更に新選組が分裂することとなります。
「土方歳三」の最期
明治2年(1869年)5月11日
土方歳三・・・函館・弁天台場が包囲され孤立していた隊士救出のため、わずかな兵を率いて出陣。敵の銃弾に倒れる
【結果】土方歳三・戦死
「戊辰戦争」「箱館戦争」終結
明治2年(1869年)5月18日
「箱館戦争」及び「戊辰戦争」が終結
【結果】旧幕府軍の敗北
なお、新選組を二分した「山口二郎(斎藤 一)」は、慶応4年(1868年)9月22日に会津藩降伏後、捕虜になっています。
新撰組「最後の局長」は誰?近藤勇の死後、新撰組リーダーの移り変わり
新選組の最後の局長は「相馬 主計」(そうま かずえ)です。
この相馬主計については、当サイトにおける【近藤 勇】の別記事でも、ご紹介した人物です。(近藤勇と相馬主計について、詳しくはこちらの記事で解説しております。)
流山で近藤勇が投降する際に、付き添った隊士のひとりでした。
新選組の局長は時代とともに移り変わっています。
一度整理してみましょう。
- <壬生浪士組>
- 文久3年(1863年)3月12日?同年9月24日まで
- 初代筆頭局長…芹沢 鴨
- 局長…新見 錦
- 局長…近藤 勇
- <新選組>
- 文久3年(1863年)9月25日?慶応4年(1868年)4月25日まで
- 局長…近藤 勇
- <会津新選組>
- 慶応4年(1868年)4月?10月頃まで
- 局長…山口 二郎(斎藤 一)
- <函館新選組>
- 慶応4年(1868年)4月?5月18日まで
- 局長…土方 歳三
- 局長…相馬 主計
なお、相馬主計が新選組の局長に就任(署名)したのは明治2年(1869年)5月15日でした。
つまり「箱館戦争」終結の3日前に局長となったことがわかります。
たった3日間の「局長」という肩書きを背負い敗軍の責務を負うという、一番辛かったであろう任務を彼は受け入れたのですね。
箱館戦争の後、新撰組のメンバーはどうなったのか?
新選組が存在していた時代というのは、「新しい時代を作ろうとする流れの中で、それにあらがう抵抗勢力」として映っていたのだと思います。
そんな組織を支えていたメンバーはどのように生き、どのように亡くなったのか。
その生き様をご紹介したいと思います。
「相馬主計」(新選組最後の局長)
明治3年(1870年)「伊東甲子太郎」暗殺の嫌疑をかけられ、伊豆新島に流罪となる。
流罪の地で結婚したが、明治8年に割腹自殺を遂げる。
妻に「他言無用」と厳命していたため、相馬の死の詳細や菩提寺については現在も不明。
「永倉新八」(二番組長)
甲陽鎮部隊として戦った後、「近藤勇」らと袂を分かつ。
その後、「靖兵隊(靖共隊)」を結成し北関東にて交戦するも、会津藩降伏の知らせを受け、永倉新八の戊辰戦争は終焉する。晩年は北海道・小樽で過ごし、大正4年(1915年)に死去。
「斎藤一」(三番組長)
「甲州勝沼の戦い」で「土方歳三」から新選組を託され、会津へ向かう。
その後は会津藩と共に死線を切り抜き続け、会津藩降伏後も戦い続けた。
明治後は警察官として勤務し、私生活では結婚し男児を3人もうけた。
大正4年(1915年)に床の間で正座の姿勢のまま死去。
「鈴木三樹三郎」(九番組長)
新撰組・参謀だった御陵衛士「伊東甲子太郎」の実弟。
新選組に所属していたが、思想が合わず「御陵衛士」として分裂。
実兄を暗殺されたこともあり、新選組と対立していた。
「鳥羽伏見の戦い」では薩摩藩の指揮下に入り、新選組とは真逆の立場を取っている。
大正8年(1919年)死去。
「島田魁」(守衛新選組隊長)
戊辰戦争勃発後、箱館まで土方歳三と共に戦い抜いた。
明治33年(1900年)死去。
葬儀には、二番組長「永倉新八」も参列した。
余談ですが、島田魁は土方歳三の戒名を書いた布を、肌身離さず持ち歩いていたそうです。
土方歳三は「鬼の副長」と呼ばれ恐れられていたのに、隊士からはとても慕われていたんですね。
そして島田魁は土方歳三だけでなく、近藤勇や散っていった仲間達の弔いのための念仏を欠かさなかったそうです。
姿形はなくても、精神の深いところで繋がっている感じがしますね。
『新撰組』について「ひとこと」言いたい!
「新選組」という組織の歴史的意義・・・それは何だったのでしょうか?。
「志と強さ。それさえあれば、身分は問わない」
それはまるで、同時期に長州藩に存在していた「吉田松陰」の私塾「松下村塾」のような組織でした。
松下村塾も「志さえあれば、身分は問わない」という組織だったのです。
新選組の存在意義はすなわち「志ある者たちの受け皿」だったのではないでしょうか。
当時の日本は「黒船来航」により、「他国に侵略される」という危機感が全国に拡大していた時代です。そんなときに「この国を守るために、ちっぽけな俺には一体何ができるのか?」という燃える志を持った人間が、多数いた事は容易に想像できます。
「志も強さもあるが、身分がない」・・・・そんな「近藤勇」や「土方歳三」を、「新選組」は受け皿としておさめるのにピッタリな組織だったのでしょう。
「大塩平八郎の乱」をご存知でしょうか?
明治維新がおこる31年前の【1837年】、大阪の儒学者「大塩平八郎」が、幕府の汚職を糾弾するために起こした巨大な反乱です。
このとき、200年以上続いた幕府の政治は、汚職で腐敗しつくしていたのです。
こういった現状を、当時の「志ある者たち」は憂慮していたことでしょう。
「近藤勇」も「土方歳三」も、のちに「松下村塾」へ入塾する「久坂玄瑞」も「高杉晋作」も、そしてもちろん「吉田松陰」先生も、「この国をなんとかしなくては」と考えていたはず。
近藤勇と土方歳三は、「幕府」の一組織である「新選組」で幕府を助ける動きをすることにより、日本を救おうとします。対する「吉田松陰」らは最終的に、「幕府を倒して新しい政府をつくる」という目的で動き始めます。
つまり近藤は「幕府を助けることで、尊皇攘夷を実現し、日本を外国勢力から守ろうとした」わけですね。
対して吉田松陰らは「幕府を倒して新しい政府をつくり、それによって尊皇攘夷を実現し、外国勢力から国を守ろうとした」のです。
結果として、吉田松陰の意思を受け継ぐ「倒幕派」が近藤たち「佐幕派(幕府を助ける一派)」に勝利し、明治維新を実現することとなるのです。
筆者の個人的な意見なのですが、「近藤たちは、この国を救おうとするならば幕府を助けるのではなく、新しい政府をつくるために、幕府を倒すべきだったのではないか」とおもうことがあります。
なぜ近藤たちは、「幕府を倒す側」にまわるのではなく、「幕府を守る側」に回ったのか・・・。
理由は簡単です。
「近藤たちには、他に選択肢がなかった」のでしょう。
たとえ「腐敗しきった幕府を助ける」ことになろうとも、それ以外に国のためできる手段がない・・・・。それが近藤たちを「幕府を助ける組織・新選組」へと走らせた理由なのではないでしょうか。
なんとも単純な気がしますが・・・当時も今も、若者の行動というのはそんなものかもしれません。所属する組織が何を目指しているのかも知らず、とりあえず「熱」がありそうだから飛び込んでみる・・・。
あの「坂本龍馬」も、「土佐勤王党」という「武市半平太」の組織に飛び込み、「こんなはずじゃなかった」というわけで即座に脱退してますからね。
近藤たち新選組は、「池田屋事件」で松下村塾三傑の一人にして『天下の奇才』と呼ばれた「吉田稔麿」を殺害しています。(一説には、吉田稔麿は新選組ではなく、他藩の兵士に殺害されたとも言われています。)
この「吉田稔麿」は、「生きていたら総理大臣になっていた」とも言われるほどの天才でした。初代首相となった「伊藤博文」に比べると、「吉田稔麿」のほうが断然格上です。それほどの人物でした。
新選組は、未来の日本を担うだろう優秀な「吉田稔麿」を、死に追いやってしまっているのです。
「志ある者たちの受け皿」、それが新選組であると申しました。
他に選択肢がなかった、他に受け皿がなかったというのはわかるのですが、もしも近藤たち「志ある者たち」に、
- 「吉田松陰」のような導いてくれる人がいたら
- 「松下村塾」のような受け皿があったら
- 「坂本龍馬」のように脱藩・勤王党即脱退も辞さない「自由に生きる柔軟さ」があったら・・・・
これらのうち一つにでも、近藤たちが恵まれていたら、無残な最期を遂げることもなかったのではないでしょうか。
現代においても「日本を守りたい」「日本を正しい方向へ導きたい」と思っている若者は多くいるはず。彼らが「間違った組織」や「間違ったリーダー」についていかないよう、祈るばかりです。インターネットを使って真実を検証すれば、その間違いを犯さずにに済むとは思うのですがね。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 新選組は「箱館戦争」で「土方歳三」が戦死したことで壊滅し、最期をむかえた
- 新選組は「芹沢鴨」「近藤勇」「斎藤一」「土方歳三」「相馬主計」らが局長をつとめた。最期の局長は「相馬主計」
- 「箱館戦争」の後、局長「相馬主計」は自決。「永倉新八」「斎藤一」「鈴木三樹三郎」らは大正時代まで生き、「島田魁」は明治33年(1900年)に亡くなった
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
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