『は』
動乱の「幕末」を生き抜き、「明治」を謳歌し、「大正」時代に亡くなった新選組・二番組長「永倉新八」。
彼が生き永らえてくれて、惜しげなく「新選組」について記してくれたおかげで「正しい新選組の歴史が語り継がれている」といっても過言ではありません。
そんな永倉新八のお孫さんは、ジブリの人気映画「魔女の宅急便」の撮影監督をされたそうです。
映画を見るのが好きだった「永倉新八」の血を引いているからでしょうか。
そして永倉新八の「愛刀」ですが、あの有名な「池田屋事件」の際に帽子(刀の切っ先。刀の先端のカーブしているところ)が折れたため、現存していません。
それだけ「池田屋事件」での斬り合いが激しかった、という事を物語っていますね。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
- 永倉新八の子孫は、フリーライター「杉村悦郎」さん、アニメプロデューサー「杉村重郎」さんのお二人がいる。「杉村重郎」さんは「魔女の宅急便」「こち亀」「遊戯王」などのアニメを担当したアニメプロデューサー
- 永倉新八の愛刀「播州住手柄山氏繁」は、池田屋事件で切っ先が破損し、現存していない。
- 「永倉新八」は剣豪集団「新選組」の中でも最強の剣士と言って良い存在だった。阿部十郎は「一に永倉・二に沖田・三に斎藤」と証言している
永倉新八の子孫は、現在なにをしている?アニメ「魔女の宅急便」との関係
現在、永倉新八の子孫であることが公表されている方が2名いらっしゃいます。
- 杉村悦郎さん(フリーライター)
- 杉村重郎さん(アニメプロデューサー)
杉村悦郎さんは、永倉新八を題材にした著書を執筆されています。
杉村重郎さんは、「魔女の宅急便」の撮影監督をされました。
その後はプロデューサーに転向し、「こち亀」や「遊☆戯☆王」シリーズなども手がけられたそうです。
身近な娯楽で子孫の方と関わりを持ってると思うとそれだけで親近感が湧きますね。
永倉新八の愛刀「氏繁」!現存しているのか?
池田屋事件で刀の「帽子」(切っ先・刀の先端のこと)と呼ばれる部分が折れたため、現存はしていません。
- 【刀名】・・・・播州住手柄山氏繁(バンシュウジュウテガラヤマウジシゲ)
- 【長さ】・・・・二尺四寸(約 72・72㎝)
- 【作成年】・・・享和三年(1801年頃)
- 【解説】・・・・播磨国(現在の兵庫県)の手柄山で活躍した刀工です。手柄山という名前なので、縁起が良いと、武士に人気があったと言われています。
残念ながら現存はしていませんが、刀工の出身地「愛媛県伊予市」に、市指定文化財として永倉新八の愛刀と同じ「手柄山氏繁」作の刀が保存されています。
私自身も日本刀の鑑賞が好きで、機会がある時には博物館へ足を運んでいます。
図録を持っていたりもするのですが、やはり本物の輝きや凄みは実物を目にしないと伝わってこない、とつくづく思っています。
刀の光の反射や重厚感、独特な雰囲気には自然と引き寄せられますし、魅了されます。
もし興味がおありでしたら、刀の世界にも足を踏み入れてみてくださいね。
永倉新八の強さとは?実は新撰組『最強』の呼び声高かった
「永倉新八」の流派は「神道無念流」といい、その流派の免許皆伝も受けています。
神道無念流は「力の剣法」と言われ、したたかに「真を打つ」・・・つまり「渾身の一撃」を一本とした流派です。
幕末に道場の評価を表した言葉があり「位は桃井(鏡新明智流)・技は千葉(神道無念流)・力は斎藤(神道無念流)」と言われていたそうです。
技も力も「神道無念流」が抑えているのは、それだけ他の流派を圧倒していたことの表れでもありますね。
余談ですが、技の「千葉道場」には「坂本龍馬」が、位の「桃井道場」には「武市半平太」と「岡田以蔵」。力の「斎藤道場」には「桂小五郎(のちの木戸孝允)」が在籍していました。
また、元新選組隊士の「阿部十郎」曰く
「一に永倉・二に沖田・三に斎藤」
と伝えいることから、「永倉新八」は新選組の中で最も剣の技術が高い人物であったと推測されます。
そこで、永倉新八の「ここが最強」と言われる所以をご紹介したいと思います。
「最強」と呼ばれる理由は、以下の通りです。
- 剣術を極めるために脱藩し、剣術修行の旅に出る。
- 近藤勇の道場「試衛館(天然理心流)」の食客となり、のちの新選組・二番組長に就任。
- 池田屋事件で、刀は折れ、防具はボロボロ。それでも落ちている刀を拾いながら応戦。
- 池田屋事件の働き以降、傲慢になった局長「近藤勇」に切腹覚悟で意見した。
- 晩年、北海道の小樽で映画を観た帰り、ヤクザに絡まれるがひと睨みで終わらせた。
特に『3』の池田屋事件。
池田屋に突入した近藤隊のなかで、屋内に討ち入ったメンバーは
- 「近藤勇」
- 「沖田総司」
- 「永倉新八」
- 「藤堂平助」
の4名のみ。
対する尊攘派志士は、20数名。
しかも「新選組」の側は、
- 「沖田総司」は戦闘中に昏倒し戦線離脱。
- 「藤堂平助」も鉢金を外した隙をつかれて額を斬られ戦線離脱。
「土方歳三」の隊が到着するまでの間、「近藤勇」と「永倉新八」のみで応戦していたことになります。
暗闇の狭い屋内の中で文字通り「死闘」を繰り広げ、見事成果をあげられました。
永倉新八が「最強」と言われる所以は、【池田屋事件の功績】があるからだと思います。
そんな永倉新八の性格を一言で表すと「我武者羅」(がむしゃら)なんだそうです。
確かに脇目も振らず一所懸命に剣の道を歩んでいるように見えます。
そのため永倉新八は、「がむしゃら」と「しんぱち」を組み合わせて「がむしん」と呼ばれていたのだとか。
最晩年の頃には「ぜひ剣術を教えて欲しい」との要望があれば、老いた体に鞭打って向かうのですから、我武者羅であり、ひたむきに取り組んでいる姿勢が伺えます。
『永倉新八』について「ひとこと」言いたい!
池田屋に4人で踏み込み、うち2名が戦線離脱。
暗闇の中、いつ斬られるかわからない緊迫した時間の中で、近藤勇と永倉新八だけが戦い続けます。
そんな信頼関係があった二人ですが、「池田屋事件」以降、近藤の傲慢な態度により次第に仲が悪くなり「鳥羽伏見の戦い」で完全に袂を分かちます。
しかし晩年になると、新選組の名誉回復のために「永倉新八」は奔走するんですよね。
小樽の家には「近藤勇」と「土方歳三」の写真があって、永倉新八はそれに向かって手を合わせていたそうです。
亡くなったあと、永倉のお骨は、小樽のお墓だけでなく、東京・板橋の「近藤勇」が眠る場所にも分骨され、仲違いをした「近藤勇」と「永倉新八」は一緒に埋葬されています。
一度は仲違いをしてしまい、それが今生の別れとなってしまった永倉と近藤。
それを悔やんでいたのかはわかりませんが、「永倉新八」にとって「新選組」の隊士であったことは、間違いなく誇りだったのだと思います。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 永倉新八の子孫は「杉村悦郎」さんと「杉村重郎」さん。「杉村重郎」さんは「魔女の宅急便」を担当したアニメプロデューサー。
- 永倉新八の愛刀「氏繁」は、「池田屋事件」で切っ先が破損したため、現存していない
- 永倉新八は新選組のなかでも、沖田総司・斎藤一をも上回る剣豪であったと評価されている。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
「新選組」関連記事
以下のリンク記事でも、「新選組」の「逸話」や「人物」「出来事」について簡単に理解できるように、わかりやすく解説させていただいております。
よろしければこれらの記事も、ぜひお役立てくださいませ。
「新選組」の関連記事
「土方歳三」関連記事
「沖田総司」関連記事
「その他【新選組】幹部」の記事
コメント