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芹沢鴨の強さは新選組トップレベル?死因と暗殺の理由を簡単に解説

「新選組」の初代リーダー芹沢鴨せりざわかも。その強さについて、簡単に解説いたします。

幕末の剣豪集団「新選組」。

「新選組」初期のリーダーは「近藤勇」ではなく「芹沢鴨」だったことをご存知でしょうか?

「芹沢鴨」は、剣の達人で、頭もよかったといいますが、その強さがどれほどのものか簡単に解説いたします。

歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 神道無念流剣術で「免許皆伝」という資格を持っていた「芹沢鴨」は、相当な剣の達人で、かなりの強さだった
  2. 芹沢鴨とは、水戸藩(茨城県)出身の「新選組・筆頭局長」だった人物
  3. 芹沢は、横暴な行いを問題視され、近藤勇や土方歳三に暗殺された

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目次

芹沢鴨の強さは?一撃で力士を切り倒すほどの強さだった

芹沢は神道無念流しんとうむねんりゅうで剣術を学び、免許皆伝までいっていることから、相当な腕前であったことがわかります。

神道無念流は「福井嘉平」が創設し、第2代の「戸賀崎とがさき熊太郎」で神道無念流の名は高まり、入門者が増えて戸賀崎の門弟は「3千人」を超えたといいます。

幕末期には、竹刀打込剣術流派しないうちこみけんじゅつりゅうはとしては「直心影流」に次いで全国で2番目に広まっていたとのことです。

芹沢は、2代目・戸賀崎熊太郎に剣を学び、免許皆伝めんきょかいでんを受けており、相当な腕前だったという事がわかります。

前述の力士を斬り捨てた事件の際は、力士の肥満し脂肪がついた体をただの一刀で肩先からへそあたりまで数本のあばらを断ち砕きながら斬り下げたということで、すさまじい切り口だったと言われています。

新選組は、沖田総司・永倉新八・斎藤一などの猛者がいましたが、芹沢鴨もそれに劣らぬ強さだったのではないでしょうか。



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《芹沢鴨とは何者なのか?》

芹沢鴨(せりざわかも)は水戸藩出身であり、近藤勇、土方歳三で有名な新選組筆頭局長です。

芹沢を語る前に新選組の創設について触れなければなりません。

幕末政治の中心となっていた京都の治安悪化により、江戸幕府は庄内藩郷士「清河八郎」の建策を受け入れ、将軍・徳川家茂の上洛に際して将軍警護の名目で浪士を募集しました。

それに応募したのが武州多摩郡の天然理心流同門である近藤勇、土方歳三、沖田総司など、近藤に心服し慕っていた北辰一刀流の山南敬助、神道無念流であり「天狗党の乱」を起こした「水戸天狗党」の生き残りの芹沢鴨の一派でした。

→→→→→【天狗党の乱】についてくわしくはこちら

清河八郎に率いられた浪士集団は上洛しますが、清河は勤王勢力と通じ、将軍警護の目的であった浪士集団を天皇配下の兵力にしようと画策します。

その経緯により浪士集団は江戸に帰ることとなりますが、これに反発し「初心を貫く」と京都に残留したのが、近藤一派と芹沢一派でした。

彼らは幕府の庇護がなくなり宙に浮きますが、京都守護職松平容保に嘆願書を提出し、「会津中将お預かり」という名目で法的位置と経費を与えられます。これが新選組です。

新選組の最高職は局長であり、3人が選任されます。

芹沢が筆頭局長であり、次席が近藤。

さらに芹沢派の新見錦となります。

芹沢派が優勢でした。

しかし、その下の副長職は土方、山南となり、副長助勤職には近藤派が多数締め、隠然たる勢力を占めるに至ります。

芹沢は粗豪な人間で、政治力がなく、隊内で自分の勢力を扶植する配慮を怠ったのです。

一方、近藤派の土方、山南はそれを得意としたのです。



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《芹沢鴨暗殺の理由と犯人》

筆頭局長となった芹沢は乱暴、酒乱、荒淫を極めました。

酒の席で気に食わぬことがあると、店の中を駆け回り、調度品や什器をのこらず打ち割ります。

大和屋という豪商が尊攘浪士に金を渡しているという噂を聞き及んだ際は、大砲で大和屋の土蔵を砲撃し、ことごとく破壊。

ある日、路上で力士とすれ違い、力士が「通せんぼ」の形になり、芹沢は力士を一刀で斬り捨ててしまいます。

この件は、後に力士と新選組同士の乱闘事件に発展します。

芹沢は呉服屋で衣服をあつらえていましたが、一文も支払いません。

芹沢に催促すると激怒。

困った呉服屋は女ならば当たりも柔らかいだろうと思い、お梅という女房に催促させますが、芹沢はお梅を手籠めにし、情婦にしてしまいます。

これらの悪事が松平容保の耳に入り、容保が近藤、土方に芹沢を除くように示唆します。

隊の規律を何よりも重視する近藤と土方は、芹沢を暗殺する事を決意。

そして、土方、沖田等がお梅と一緒に寝入っている芹沢を襲撃し、暗殺。

翌朝、近藤は芹沢の遺体を検視し、容保には「病死」と届けました。

近藤は芹沢の葬儀を盛大に行いました。

芹沢の死により、新選組は近藤一派が掌握することとなるのです。



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《『芹沢鴨』について、レビュー(評論)!》

芹沢鴨・・・西郷隆盛も尊敬した水戸藩の思想家「藤田東湖」の息子「藤田小四郎」が率いた「天狗党の乱」に参加していた人物。

その「天狗党」は、後に多数のものが処刑されるなど、壊滅することとなるのですが、芹沢鴨は気が付くと天狗党を抜けていたみたいです。

水戸藩は「大日本史編纂」という「歴史の研究」を繰り返し、非常に優れた人材の宝庫でした。

徳川慶喜の父「徳川斉昭」の「学問奨励」により、人材育成はなお一層進んだはずです。

芹沢鴨もまた、そんな水戸藩の人間だったので、相当に優れた人材だったと考えられます。

近藤勇と「派閥争い」などせず、力を尽くしていたら・・・けっこう惜しい人材だったのかもしれません。



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《まとめ》

本日の記事をまとめますと

・芹沢鴨は水戸藩出身で、新選組の筆頭局長です。

・筆頭局長となった芹沢は横暴を極めます。その事が松平容保の耳に入り、芹沢を除くことを近藤、土方に示唆します。

・土方、沖田らは寝入っている芹沢を襲撃し、暗殺。

・芹沢は神道無念流の免許皆伝を受けており、剣術の相当な腕前をもっていました。

芹沢は横暴により悪者の印象が強いのですが、暗殺の本当の理由を考えてみると、新撰組の全権を掌握したい近藤一派と、芹沢により新撰組を持て余す様になった松平容保の思惑が、見事に合致した結果であるといえます。

芹沢の暗殺により近藤一派により新選組が一枚岩となり、佐幕派最強の武力集団である新撰組を作り上げていくのです

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました



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