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新撰組の二番隊組長「永倉新八」のイメージって、どんなものが思い浮かびますか。
数ある戦を乗り越え続けた「新撰組」幹部の中で、もっとも長生きをしたひとりです。
晩年は北海道「小樽」で余生を過ごしました。
そんな激動の時代を生き抜いた「永倉新八」の逸話をご紹介します。
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この記事を短く言うと
- 永倉新八とは「新撰組」の二番隊組長をつとめた剣豪。新撰組の「撃剣師範」をつとめ、「池田屋事件」で「近藤勇」とともに活躍。隊士「阿部十郎」いわく「一に永倉・二に沖田・三に斎藤」
- 晩年は北海道「小樽」で生活をした。「日清戦争」への参戦を希望したり、映画好きだったり、ヤクザを一睨みで追い返したりと、数々の逸話を残している
- 永倉新八のお墓は各地に存在している。「小樽市中央墓地」「札幌市里塚霊園」「東京都北区の寿徳寺境外墓地」の3つがある
永倉新八とは何者なのか?新撰組・最強の呼び声も高い剣豪だった

下段の中央が「永倉新八」
「引用元ウィキペディアより」
「永倉新八」は江戸生まれの松前藩士。神道無念流の免許皆伝者でしたが、剣術好きすぎて脱藩し、武者修行をしている頃に試衛館「近藤勇」の食客(住み込みの用心棒)となりました。
新撰組・二番隊組長や副長助勤・撃剣師範として組をひきいており、「池田屋事件」では近藤隊の一人として活躍しました。(この池田屋事件で新撰組は長州藩士たちを数多く倒した。長州藩は松下村塾四天王のひとりで吉田松陰の弟子「吉田稔麿」らを失っている)
池田屋事件の際に左手親指に深い傷を負い、防具はボロボロ、刀も折れるまで戦い続けました。
そんな永倉新八・・・・どうやら「がむしん」というあだ名があったそうです。
由来は我武者羅(がむしゃら)な性格だったため、「我武者羅」と「新八」を合わせて「がむしん」と呼ばれていたんだとか。
親近感の湧くあだ名だと思いますし、なんだか「ガンダム(頑駄無)」みたいで面白いですね。
新撰組隊士の「阿部十郎」は、永倉新八の剣術の凄さについて「一に永倉、二に沖田、三に斎藤の順」と後年に語っています。このことから、永倉新八の剣術の腕前の凄さを伺い知ることができます。
明治維新後・北海道「小樽」で過ごした晩年の逸話がすごい
●晩年は北海道「小樽」で穏やかに余生を過ごしていた「永倉新八」。
剣豪ならではのいくつかの豪快な逸話が残されていますので、ご紹介します。
「日清戦争」に参戦を希望
1894年(明治27年)「日清戦争」が勃発します。
当時55歳であった永倉新八は、日本軍の「抜刀隊」に志願しました。
しかし年齢が年齢なので政府側も「お気持ちだけ…」と言って断られてしまいました。
断られた永倉新八は
「元『新撰組』の手を借りたとあっては、薩摩の連中も面目丸つぶれというわけかい」
と言ったそうです。
年齢を重ねても、この血の気の多さ。
さすが、激動の時代を生き抜いてきた人が言うと重みがありますね。
(ちなみに、同じ新撰組の三番組長だった「斎藤一」は、明治10年「西南戦争」で新政府軍として出撃。西郷隆盛ひきいる薩摩軍と戦っている。
「新撰組の手を借りては、薩摩のメンツも潰れる」という意味では、すでに斎藤一の力を借りているので、「薩摩のメンツ」もへったくれもないことになるだろう)
映画好きで、よく孫を連れて映画鑑賞していた
映画が好きで、よく孫を連れて通っていたそうです。
その時に
「近藤や土方歳三は若くして死んでしまったが、自分は命永らえたおかげでこのような文明の不思議を見ることができた」
と言っていたそうです。
幕末に庶民でも写真が撮れるようになって、明治になると庶民が映画を観ることができた時代。
そう考えると現代にも通ずるところがあるような気がします。
短期間でどんどん進歩していく文明の力って、あっと驚かされますよね。
永倉新八も、そう思ったのでしょうか。
ヤクザを一睨みで追い返した
映画を観に行っていたある日、映画館の出口で地元のヤクザに絡まれます。
ヤクザを見るや鋭い眼光と一喝で追い返したそうです。
一説には刀が入った仕込み杖で追い払ったともされているそうですが、どちらにせよ死線をくぐり抜けてきた本物の侍です。
格が違いすぎますよね。
仮に仕込み刀であったとしても、抜かなかったのは相手が武士ではないからだったのでしょう。
無駄な争いを起こさず慈悲深いですね。
最晩年に剣術指導して負傷した!
最晩年(70歳頃)になると「あの永倉新八が生きている」との噂を聞きつけた「東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)」の剣道部員が「ぜひ指導して欲しい」と懇願。
家族は「高齢だから…」と反対しますが、そこは生来の剣術好き。
止められるはずもありません。
「型を教えるだけ」と部員達の願いを聞き届ける形に。
しかし、血が騒ぎすぎたのでしょうか。
稽古中体を痛めてしまい、馬車に乗せられ学生に抱きかかえられて自宅に帰ってきたそうです。
新撰組時代の「7箇所の負傷」を自慢
新撰組時代に7回怪我をしたことを書き留めた覚書「七ヶ所手負傷顕ス」。
73歳頃にこの「覚書」を書かれたそうで、お酒に酔うとふんどし一枚になって古傷を見せ、その傷跡を叩きながら
「お国のために働いた体だ。わしの誇りだ。」
と声をあげていたそうです。

「引用元『写真AC』より」
戊辰戦争中、近藤勇と喧嘩別れしてしまい、そのまま生き別れとなっていましたが、新撰組に所属していた時が永倉新八の青春そのものだったのでしょう。
永倉新八のお墓はどこにある?お墓は各地に複数あった
小樽で亡くなった永倉新八ですが、お墓が各地にあるようです。
そちらもご紹介いたします。
- 小樽市中央墓地
- 札幌市里塚霊園
- 東京都北区滝野川の寿徳寺境外墓地
ですので、この場所に近藤勇のお墓もあるということですよね。最後にご紹介した「寿徳寺境外墓地」ですが、実は「近藤勇」が処刑され、胴体を埋葬されたとされる場所なのです。
地名がなぜ「北区」と言うのかというと、現在の立地名的に「豊島区」と「板橋区」と「北区」が混ざっている場所なんだそうです。
近くを通られた際は、ぜひお参りしてみてはいかがでしょうか。
『永倉新八』について「ひとこと」言いたい!
喧嘩別れし、そのまま新撰組隊士達と生き別れた「永倉新八」ですが、生死と苦楽と青春を共に過ごした仲間を賊軍のままにしておけなかったのでしょう。
明治9年(1867年)寿徳寺境内墓地内に、「新撰組隊士慰霊塔」を「松本良順」と共に建立します。
そこにはかつて、意見が食い違い袂を別った「近藤勇」や「土方歳三」の名前を代表に「甲陽鎮撫隊」「会津新撰組」「函館新撰組」に参加した者全ての隊士の名前も連なっているそうです。
慰霊碑だけでなく、手記なども公開して新聞で伝え、懸命に後世に正しい歴史を伝える努力をしてくれたおかげで、今日の「新撰組」が色鮮やかに表現されているんだと思います。
最後まで国を想い、戦い、散った仲間を片時も忘れずに
「自分たちは戦では負けたが、『新撰組』がしていたことは間違っていない」
と伝えたかったのではないかと思いました。
私はそういった実直な姿勢がとても大好きです。
そして「新撰組の真実」を後世に残すように尽力してくれていた事に、とても感謝しています。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 永倉新八とは、新撰組の二番隊組長。池田屋事件で活躍した通称「がむしん」。新撰組最強との評価もある
- 永倉新八は晩年を小樽で過ごしている。そこでも「日清戦争」への参戦を希望したり、ヤクザと一悶着起こしたりと、逸話に事欠かない
- 永倉新八のお墓は3つある。「小樽市中央墓地」「札幌市里塚霊園」「東京都北区の寿徳寺境外墓地」
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
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