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沖田総司の子孫は現在どこに?天才剣士の終焉の地と最後の様子が儚い

『は』

「引用元『写真AC』より」

「新選組」一番隊組長・副長助勤「沖田総司」。

天才剣士としてご存知の方も多いかと思います。

剣術の腕前は相当だったようですが、恋の方は奥手だったのか「お嫁さん娶った」という記述を見たことがありません。

残念ながら「沖田総司の直系の子孫」は、現在いないそうです。

そして彼は天才剣士ではありましたが、病には勝てず若くして労咳(ろうがい・結核のこと)でこの世を去っています。

晩年の「沖田総司」は「戊辰戦争」の戦線を離れ、「千駄ヶ谷の植木屋」で家族にも看取られることなく、ひっそりとその太く短い人生を終えました。


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この記事を短く言うと

  1. 沖田総司には子供がいなかったため、直系子孫は存在しない。姉「ミツ」の子孫である「阿野典子」さんが、2019年現在ご健在。
  2. 沖田総司の終焉の地は諸説ある。「千駄ヶ谷の植木屋・柴田平五郎宅」「台東区の今戸神社境内・松本良順宅」などの説があるが、おそらく「柴田平五郎宅」だろう。
  3. 沖田総司は死の間際に、療養先にあらわれた黒猫を斬ろうとしたが、衰弱しきっていたので斬れなかった。衰弱した自らを嘆きながら、若くして病死した

沖田総司の子孫は今も続いているのか!姉の子孫が健在

《沖田総司?》
「引用元『幕末ガイド』より」

沖田総司には、姉が2人いました。父母は彼が幼少の頃他界していたため、長姉「ミツ」が(当時12歳)実質的な母として沖田総司(当時2歳)を育てていたようです。

彼自身は生涯独身であったため、直系の子孫は存在していません。

現在も続く沖田家は、長姉「ミツ」のご子孫の方々です。



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沖田総司の子孫たち

沖田要

沖田総司の姉「ミツ」の孫で、沖田総司の肖像画のモデルとなった方です。

 

沖田哲也

ミツの曾孫で、「行政学者」、「明治大学・政経学部・名誉教授」です。

 

阿野典子

「新選組」の子孫が一同に集う雑誌の企画に参加していた沖田家7代目の「阿野」さん。

祖父母から

「沖田総司は人を殺めているので、あまり外で沖田家の子孫であることを言わないように」

と言われていたことから、20年ほど公の場に参加しなかったそうです。

現在は介護職で活躍されているそうです。



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沖田総司が最期を迎えた「終焉の地」はどこ?

沖田総司の「終焉の地」については、諸説あるようです。

1つは新選組ファンのバイブルとも言える「新選組始末記」(著:子母澤寛)に記されている「千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅の離れ」という説です。

①千駄ヶ谷植木屋・柴田平五郎宅(東京都新宿区大京町)

これは新選組二番隊組長「永倉新八」が「沖田総司」について2つ目は「松本良順」医師宅。この「松本良順」の家は「浅草今戸神社」の中にあったみたいです。

「江戸浅草今戸八幡松本良順先生宿にて病死」

と記していることが由来であるようです。

②今戸神社の境内(東京都台東区今戸)

松本良順は、徳川将軍家の御典医(将軍家お抱え医師)でありながら、ほぼ浪人(無職の侍)の集まりである「新選組」という血気盛んな青年たちも診ていてくれていたのです。話は少し逸れますが、この松本良順先生は「新選組」ととても縁の深い医師でした。

男所帯の「新選組」のあまりの不衛生さから、体調不良者が続出した際、隊士全員の検診・指導をおこない改善させています。

話が逸れてしまいましたので戻しますね。

私感ではありますが、「沖田総司の終焉の地」は①の「千駄ヶ谷・植木屋平五郎宅」が信憑性が高いように思えます。

御典医でもある「松本良順」や良順の弟子達が、つきっきりで看病したとは少し考えにくいからです。

その根拠として「鳥羽伏見の戦いー戊辰戦争」から沖田総司が戦線を離脱していたとして考えてみれば、同時期に「松本良順」は幕府軍医として活動していることが考えられるからです。



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沖田総司・最後の様子と逸話!黒猫を斬ろうとした?

「引用元『写真AC』より」

沖田総司の最期は、「天才剣士」として動乱の幕末を活躍していた姿からは考えにくいほど、ひっそりとしたものだったようです。

体調の悪化により第一線を退いたのは慶応三年(1867年)以降。この頃から病状が悪化していたものと考えられます。

千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅に匿ってもらい療養していた頃、その庭先に「黒猫」が来ていたそうです。

江戸時代には「黒猫を飼うと労咳(結核)が治る」とか「恋煩いに効く」とされていたみたいですね。

このように、当時の黒猫はとても縁起の良い動物だったようです。

ところが、沖田総司は何を思ったのか、この「黒猫」を斬り殺そうとしたのだとか。

飼うと治るとされていた黒猫を何故斬ろうとしたのか。

その理由は諸説あります。

 

  1. 自分の体力の限界が知りたかった
  2. 黒猫を不吉の兆しと思ったから
  3. 黒猫を切ることによって病魔も斬りたかった
  4. 猫嫌い


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おそらくですが、病気でどんどんと体力が奪われていく自分が許せなかったのでしょう。

刀も持てずうなだれた「沖田総司」は、自分を世話してくれていたお婆さんに対して、「斬れない・・・・斬れないよ」と嘆いたと言われています。

数々の死線をくぐり抜け、数え切れない猛者を倒した天才剣士「沖田総司」が、猫すら斬れなくなるほど衰弱して嘆く姿は、想像すると切なくなります。

沖田総司の晩年・・・・戦場ではなく、布団の上で過ぎ去りました。新選組隊士にしては珍しく、畳の上で静かに息を引き取ったのです。

出生が明確ではないので、亡くなったときの年齢ははっきりとはわかりませんが、享年24?27歳と言われています。

天才剣士のあまりにも早すぎる死でした。

墓所は「東京都港区元麻布・専称寺」です。

以前は自由にお参り出来ていたそうですが、ファンのマナーの悪さが原因で、現在は年に1度だけお墓参りをさせていただけるようです。

故人を偲ぶお墓参りですので、周りの方々にも失礼のないようにしたいですね。



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『沖田総司』について「ひとこと」言いたい!

筆者が「新選組」を好きになった一番のきっかけは、「沖田総司」の存在でした。

剣の腕前は凄いのに、指導が短気で下手とか、練習サボって子供と遊んでるとか、冗談が好きでいつも周りを明るくしている…そんなギャップというか色々な顔を持っている人なんだな…というのが第一印象でした。

知れば知るほど魅力が出てくるので不思議です。

そんな彼が「労咳」に罹って、思うように刀が振るえず、志半ばで亡くなってしまうというのは儚く思います。

昔読んだマンガ「浅葱色の風(あさぎいろのかぜ)」(著:里中満智子)の最後に「沖田総司」が亡くなるシーンがあったのですが、その時のセリフが忘れられません。

「なんだか夢の分だけ長く生きたような気がする。

だって夢の続きは永遠だから」

亡くなったとしても夢を見続けることができたら、それが永遠に続くんだ・・・。そう思うと涙が止まりませんでした。

実際の彼も無念とは思えど、病気で亡くなってしまうことに関しては悲しいとか寂しいとかは、あまり考えてなかったのかなと思っています。

潔く受け入れて人生を全うしたのだと思います。

《沖田総司》
「引用元『いらすとや』より」

 



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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 沖田総司には子供がいなかったので、直系子孫はいないが、姉「ミツ」の子孫「阿野典子」さんがご健在
  2. 沖田総司の終焉の地は「柴田平五郎宅」または「松本良順宅」と2つの説があるが、おそらく「柴田平五郎宅」で亡くなった
  3. 沖田総司は療養先で黒猫を斬ろうとしたが、衰弱していたため斬れず、そのまま亡くなった

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました



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