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【近藤勇】首の行方と墓の場所をリサーチ!最後は命乞いしたって本当?

『は』

新選組局長「近藤勇」は、農民でありながら幕臣(将軍を直接の主君として仕えている武士)にまでなった人物です。

幕臣にまで昇進した近藤勇ですが、武士としては不名誉な「斬首」という処刑方法で亡くなってしまいました。

刑を執行される前、近藤勇は『命乞い』をしたと言われています。

どんな大物であっても、首を斬られるというのは恐ろしいですよね。

その後、京都・三条河原にさらされた近藤勇の首は行方不明となっています。

近藤勇のお墓は複数存在していますが、そちらも後ほど詳しく解説して参ります。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

1,処刑された新選組局長「近藤勇」の首は、処刑後に行方不明となっている。首の行方は諸説あるが、「東本願寺」「愛知県岡崎市」「会津」「山形県米沢市」などに葬られた説がある。

 

2,「近藤勇」のお墓は、各地に存在している。三鷹市「龍源寺」、会津「天寧寺」、板橋区「近藤勇墓所」、米沢市「高国寺」

 

3,近藤勇は死の間際に、同行していた新撰組隊士「野村利三郎」「相馬主計」の命乞いをしている。「野村利三郎」はその後「箱館戦争・宮古湾海戦」で戦死。「相馬主計」はなぞの切腹。


行方不明となった近藤勇の首!首はどこへいったのか?

《近藤勇》
「引用元ウィキペディアより」

「近藤勇」といえば「池田屋事件」以降、倒幕派から警戒されていた一大組織「新撰組」の長です。

そんな彼は【1868年4月25日】、板橋刑場にて「斬首」というかたちで人生の幕を降ろしました。

罪人として処刑された近藤勇は、京都・三条河原にその首をさらされることとなります。

しかしその後、近藤勇の首は行方がわからなくなってしまいました。



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ハッキリとした情報がないものの、近藤勇の首の行方には、諸説あるようです。

  • 東本願寺の住職が引き取って、東大谷に葬られている。
  • 新選組「斎藤一」が首を持ち去り、京都・宝蔵寺の住職に供養を依頼した後、愛知県岡崎の法蔵寺に葬られている。
  • 盟友「土方歳三」が首を持ち去り、会津の天寧寺に葬られている。
  • 近藤勇の従兄弟である「近藤金太郎」が山形県米沢市の高国寺に密かに葬った

これらの情報のほか2017年に「会津埋葬説」が最有力候補に上がりました。

根拠としては、近藤勇の刀とともに、刀の鞘の部分に「下僕首を盗み生前の愛刀になりしこの刀を持ちて会津に走り密かに葬る」とメモ書きがあったようです。

2017年は近藤勇の一五〇忌でした。

節目の年に真実に繋がるかもしれない新情報が浮上するのは、とてもロマンチックですよね。



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近藤勇の墓の場所はどこ?実は各地に複数存在していた

近藤勇の首と同様、お墓の所在が複数あるようです。

  • 龍源寺(東京都三鷹市)
  • 天寧寺(福島県会津若松市)
  • 板橋の「近藤勇」墓所(東京都)
  • 高国寺(山形県米沢市)

この中でもっとも説得力があるのは「板橋の近藤勇墓所」ではないでしょうか。以上の4カ所が、「近藤勇が葬られているのではないか」と言われている場所です。

賊軍であった近藤勇ですが、当時は偽名を使い「大久保大和」(おおくぼやまと)と名乗っていました。

しかし、ひょんなことから「大久保大和=近藤勇」とバレてしまいます。

その結果「罪人」として「斬首」されてしまいました。

当時、処刑場で処刑された人の遺体は、身内などに引き渡される事なく、その処刑場で葬られたそうです。

場合によっては試し斬りに使われる事もあったとか。

その上、恐ろしいことに身ぐるみを剥がされて着物を売られていたり、「よく効く薬の原料」となると信じられていたらしく、内臓を売られていたりしていた事もあるようです。

そんな時代背景から、近藤勇のご遺体は板橋処刑場を出る事なく、葬られてしまったのではないかと思います。



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近藤勇の最後の様子!死の間際に命乞いをしていた?

結論から言いますと、近藤勇は自分に対する命乞いをしていません。

1868年】、下総流山(現在の千葉県流山市)で近藤勇が投降する際、付き添っていた新選組隊士がいました。

野村利三郎(のむら りさぶろう)」と「相馬主計(そうま かずえ)」です。

その付き添いでついて来てくれた若い子を巻き込むわけにはいかない、と近藤は思ったのでしょう。

近藤勇は

「自分ほどの大物を処刑できるのだから、この二人は生かして欲しい」

と助命嘆願したのです。

当時の二人の年齢ですが、野村は「25歳」、相馬は「33歳」とも「25歳」ともいわれています。

25歳の若者と、自分が25歳だった頃を重ね合わせたのでしょうか。

切ない親心です。

近藤勇が投降し、処刑されるまでの期間は、たった22日間。

およそ武士らしくない姿になっているのが受け入れられなかったのでしょうか。刑が執行される前に

「髭を剃って見苦しくないようにして欲しい」

と頼んで聞き入れられ、執行されたようです。

余談ですが、助命された2人はその後、北走していた「土方歳三」たちと合流。

野村は「箱館戦争・宮古湾海戦」で戦死。

相馬は、「新選組・最後の局長」として、新選組の幕を降ろします。

その後「相馬主計」は、明治8年以降に謎の切腹を遂げています。

その理由は妻のみ知っていたとのことですが、「他言無用」という遺言を守った妻は、夫が切腹した理由を最期まで明かさなかったとのことです。

《さらされた近藤勇の御首》
『引用元ウィキペディアより』



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『近藤勇』について「ひとこと」言いたい!

どの作品を読んでいても「近藤勇」を悪く書いている作品を見たことがありません。

やはりそこには彼の実直で心根の優しい人柄が、後世にまで歪曲される事なくきちんと伝わっていることが証明されているようで、とても嬉しく思います。

どんな場面でも部下を思い、仲間を思い、主君を思って行動する。

そんな近藤勇を見習って生きて行きたいと思います。



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「近藤勇」と「土方歳三」決別の地「流山」

近藤勇が新政府軍に投降した場所は、現在の「千葉県流山市」です。

流山市には、現在「近藤勇」が滞在していた「本陣跡」が残っています。

《近藤勇・陣屋跡》

この「石碑」は、「昭和51年」に、「流山市観光協会」の方々が設置してくださったものです。

 

《新選組流山本陣跡・案内板》

この案内板には、「新撰組」こと「甲陽鎮撫隊」は

「慶應4年(1868年)4月1日」に流山に着陣

「4月3日」に近藤勇が捕縛

「4月25日」に近藤勇が切腹した

ということが記されています。

 

《流山市案内マップ》

流山駅前は、有形文化財が多数存在する、風情ある町並みとなっております。

 

《近藤勇・陣屋跡》

近藤勇は、この地を本陣としていたようですね。

 

ちなみに、こちらが「流山駅」です。

《流山駅》

「流山線」は、「都心からもっとも近いローカル線」なのだとか。

《流山線》

2016年で「100周年」をむかえていました

ちなみに筆者の友人がこの写真を撮影したときは、桜の咲く季節でした。

《流山市の桜》



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,近藤勇の首は、処刑後に行方不明。行方は「東本願寺」「岡崎市」「会津」「米沢市」など諸説ある

 

2,近藤勇のお墓は各地にあり。「三鷹市」「会津」「板橋区」「米沢市」など

 

3,近藤勇は死の間際、同行していた隊士「野村利三郎」「相馬主計」の命乞いをしている。二人は除名され、野村利三郎は「箱館戦争」で戦死。相馬主計は明治に切腹して死亡

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました



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この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (2件)

  • 言い訳です。
    豊臣秀吉の辞世の句と検索すると、「元・落ち武者」さんの記事が二番目に出てきます。他にも近藤勇の辞世の句も二番目、岡田以蔵は三番目に登場しています。ということは、辞世の句に興味を持たれた方が「元・落ち武者」さんの記事から知識を得られることも多いと思います。なので、記事に誤字あったりすると加筆・修正を求めることに生きがいを感じ、使命感にも駆られてしつこく投稿しています。しかし、一日二回は迷惑だと思いますので、午前か午後の一回にします。

    ①近藤勇の写真を見た時、刀掛けに置かれている刀の置き方に違和感を感じました。刀の置き刀には、三種類あるようですが、写真にあるような刀置きの場合、刃が下になるように置くのは騎馬用の太刀であり、一般的に打刀といわれる大刀の場合は、刃が上になるように置くのが普通と思っていました。もしかしたら、写真屋が置いたのであろうか。
    近藤勇の辞世の句とされる漢詩に違和感を感じました。「孤軍援絶作俘因、、、」と「靡他今日復何言、、、」本当に自作なのであろうか。靡という漢字、なびくと読むらしいが、かなりの知識人でないと書ける文字ではない。

    ②近藤勇の墓の場所はどこ?の10行目ひょんなことが気になって調べました。他の記事には、新政府軍内に新選組時代の同志つまり「顔見知り」とあったが、誰だろうと思い調べました。顔見知りとは、伊藤甲子太郎のグループで、新選組と袂を分かち御陵士となった「加納鷲雄と清原清」という人物であることが分かった。

    ③14行目場合によっては「試し切り」とあるが「試し斬り」の方が良いと思われる。
    「近藤勇」について、「ひとこと」言いたいの2行目に後世まで湾曲は、歪曲(わいきょく)ではないかと思う。

    • こんにちは。
      いつも貴重なお言葉をいただきありがとうございます。
      言い訳なんてなさらないでくださいませ。
      ご指摘いただけるととても助かります。
      心から感謝しております。
      どうぞ遠慮なく間違いを指摘してください。
      一日一回などの制限は無用です。
      いつでも何度でもお願いいたします。
      それよりも、未熟な文章を読ませてしまい、申し訳なく思います。
      また、お返事が遅くなってしまうこともあるかと思いますが、どうかお許しくださいませ。
      いつも本当にありがとうございます。

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