幕末をあつかった小説などで、よく「勤王の志士」という言葉が出てきます。その意味を、わかりやすく解説いたします。
「勤王」は「天皇を守ろう」という意味。「志士」は「こころざしある者」のこと。
つまり「勤王志士」とは「天皇を守るこころざしのある者」という意味なのです
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この記事を短く言うと
・「勤王(勤皇)」とは、天皇に尽くし、国に尽くす思想のこと
・「志士」とは「志を遂げるためには、命を惜しまない者たち」のこと
・「夷狄征伐(異民族の討伐)」を目的とする「征夷大将軍」が、諸外国を討伐しないから、天皇をまつりあげて、「征夷大将軍・討伐」運動が盛り上がった
《勤王」の意味を分かりやすく解説》
幕末のドラマ等で、武士を志士と呼ぶシーンを度々目にします
「志士」・・・志ある武士・・・・という意味なのでしょうか?その前「勤王」とは、どういう意味なのでしょうか?
「尊皇攘夷」・・・・幕末の武士たちが掲げたスローガンですが、その意味は「天皇に中性を近い、異国を武力で打ち払う」というもの。勤王とは、「天皇に忠誠を尽くす」ことを意味します。
それまで、武士たちは、「幕府の頂点である将軍」に忠誠を誓っていましたが、ペリー来航から始まった西欧列強の圧力に屈した幕府に愛想をつかし、「天皇中心」の国家運営をするため、古い統治機構だった幕府を倒す「倒幕」を目指すようになったのです。
《「勤王の志士」・・・なぜ「志士」と呼ぶの?》
なぜ「志士」と呼ぶのでしょうか?
志士という言葉は儒教の孔子による書「論語」に登場する言葉です。
「志士仁人(ししじんじん)」・・・・・正しいと信じたことを、命を懸けて成し遂げる者、という意味です。
国を守るため、命を捨てて自らの志を遂げる・・・・。幕末の武士が目指した理想的な侍のあり方が、論語に記された「志士」という言葉にぴったりだったのでしょう。
改革派・・・・つまり、明治維新を目指した者たちは、自らを志士と呼び、奮起したのです。
《「勤王」思想が盛り上がった理由!役立たずの将軍が問題だった》
勤王思想が盛り上がった理由は、征夷大将軍が役立たずだったため。
当時の日本は、ペリー来航で無理やり開国させられたあげく、不平等条約を結ばされ、侵略される危機にありました。
国民は外国人の排斥を望むものの、強力な西欧諸国に震え上がった幕府は、それを実行できず。
元々征夷大将軍とは、夷敵・・・つまり外敵を倒すことが任務の職・・・しかし、諸外国の討伐を行わない征夷大将軍は、職務怠慢と考えられていたのです。
これに起こった志士たちは、日本の象徴「天皇」を中心にしてまとまり、弱腰な「幕府」を倒して新しく強い統治機構を作らなくてはならない・・・と考えました。
それが「明治維新」・・・・江戸幕府を倒すことに成功した西郷隆盛や大久保利通は、明治政府を作り上げ、明治天皇を中心にした、近代国家を誕生させることに成功。
勤王志士たちの勤王思想は、多大な犠牲を払いながらも成功・・・日本の近代化を実現したのです。
『勤王の志士』について、レビュー(評論)!
勤王志士・・・無位無官、つまり国の要職や公職にはつかず、民間で政治的な活動をしていた人たち・・・「志士」と呼ばれていた人々は、「民間人」が多かったみたいですね。
「志士」と言われると、刀を差したお侍さんのことを思い浮かべてしまいがちですが、「百姓」「町人」「商人」などにも、「志士」と呼ばれる人々はたくさんいます。
例えば長州藩の商人「白石正一郎」も、志士と呼べる人物なのではないでしょうか。
つまり明治維新は、民間・・・権利を持たない人間たちが起こした革命だったということです。
「デモ」「維新」「若者が世の中を変える」・・・・現在の日本でも、「明治維新」を成し遂げた「志士」に憧れているのか、マイク片手にデモを先導している姿がテレビに時々映っています。
しかし・・・・志士たちが「力づくで世を変えよう」と立ち上がった最大の理由は、幕末の日本には「若者が世を変える手段」がなかったためです。当時は「投票」制度などなく、下級武士も農民町民商人は、政治介入などできませんでした。そのため、「武力行使」や「違法行為」を繰り返し、力で世の中を変える「明治維新」を実行したのです。
現在の日本は違います。投票で世の中を変えることが可能であり、政治的発信も「インターネット」を使えば容易に可能。世界の裏側にある情報収集も、スマホ片手にものの数秒でできます。
正しい知識を得る努力を怠り、真実を掘り下げる労苦を惜しみ、マイク片手にデモを先導し、安易に現政権を批判しているのだとしたら・・・果たしてそれは「明治維新」を成し遂げた「志士」たちに倣(なら)う行為なのか・・・。
彼ら「若者が世を変える」という思想に憧れた方々は、「勤王志士」の真実をどれほど知っているのか・・・・。ちょっと疑問に思ってしまいます。
《まとめ》
本日の記事をまとめますと
・勤王とは、天皇に忠誠を尽くすことを意味する
・志士とは、論語の「志士仁人」が基となった言葉で「志のためには命も惜しまない人物」のこと
・もともと征夷大将軍は「外国勢力」を討伐することが仕事であったのに、それをしなかったため、天皇を担いだ反対派に討伐された
以上となります。
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コメント
コメント一覧 (2件)
ありがとうございました。参考になりました。
一点、質問があります。
>改革派・・・・つまり、明治維新を目指した者たちは、自らを志士と呼び
これは文献または出典がおありでしょうか?
小説やTV時代劇のように、彼らは当時から実際に〝志士〟と称したり、親派からそのように呼称されたりしていたのでしょうか?
志士という言葉は当時の文献では見かけないという話しもあり、困惑しています。一般には勤王の徒や浪士と呼ばれていただろうとは思いますが•••。
こんばんは
この度は当サイトをご利用いただきありがとうございます。
お返事が遅くなり申し訳ありません。
「明治維新を目指した者達が、自分たちを志士と呼んでいた出典」とのことなのですが、これはもっとも有名な「坂本龍馬」を志士と呼んでいた人たちの文献が、もっともわかりやすいかと思います。
例えば大隈重信が、【長崎新聞・開港史に輝く幕末頃の長崎 未公表の秘話と志士の活躍を古賀十二郎氏に聞く(大隈重信侯より直聞き)】という記事において、坂本龍馬について、こんなことを言っています。
「伊藤博文に負けた事など問題ではないが、阪本(坂本龍馬のこと)は偉かった。維新の志士等のうちで偉いと思う者は大していなかったが、阪本だけには頭が下がったよ」
また、政治家・関義臣が残した【関義臣回顧談・海援隊の回顧】には、関が坂本龍馬について語った一文がありますが、そこに【志士】という言葉が残っています。
「坂本は単に志士論客をもって見るべき人物ではない。また頗る経済的手腕に富み、百方金策に従事し、資本を募集して汽船帆船を買い求め、航海術を実地に演習のかたわら、他の商人の荷物を運搬し、その資金によって、ほぼ同志の生活費を産出することが出来た。全く龍馬は才物である」
もっともこちらの関義臣回顧談においては、「坂本龍馬は志士論客としてみるべきではない」と書かれているので、関自身は坂本龍馬を志士と思っていなかったと思いますが。
これらは正確にいえば、幕末当時から、志士と自分たちを呼んでいたわけではないのですが、明治維新後に自分たちと志を同じくするものたちを志士と呼んでいたことを表すものになるかと思います。
板垣退助・後藤象二郎とならぶ土佐三伯の1人【佐々木高行】という政治家が、坂本龍馬の発言として、こんなことを言っていた旨を証言しています。
【坂本また言いし事あり。『我々は今国事に奔走して幕府の指目する所となり居れば、何日何時縛につくやも測られず。もし萬一我々が、芸妓風情と相携えて撮影することありて、之により其踪跡を物色せらるるあらば、志士の面目として大いに恥づべき業なれば、我々じゃ断じて此の如き卑猥の行為あるべからず』と。】
つまり坂本龍馬が「私たちは幕府にいつ逮捕されるかわからない。だから芸妓と撮影するなんて志士として大いに恥じるべきことだから、そんな行為はすべきじゃない」と言ったというのです。これは龍馬自身が、自らを志士と自称していたことになるのではないかなと思います。
質問の答えになっているかどうか、少し心配ですが、これらの文献(特に関義臣回顧談)は、比較的簡単に目にすることができるものだと思います。
この度は当サイトへお越しくださいましてありがとうございました。
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ありがとうございました。失礼致します。