キングダム李信の最後は悲惨?嫁が超大物で子孫が王様になったって本当か

「秦の始皇帝」につかえた大将軍「李信」

マンガ「キングダム」の主人公として活躍し、大将軍を目指す少年「信」のことです。

その「最期」とは、一体どういうものだったのか?

そして彼の「嫁」は、一体どういう人だったのか?

実は、そんな李信や彼の「嫁」の間に生まれた子孫には、大物が多いらしい。

誉れ高き「名将」、「王様」、「皇帝」、さらには「詩の天才」まで輩出したとの噂も・・・。

もしかして、史実において「李信」の「嫁」は、大物だったのか?


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この記事を短く言うと

・李信の最期はハッキリしていないが、【紀元前206年】の「秦国滅亡」の前には亡くなってた

・妻は「羌瘣」という噂もあるが、おそらく「河了貂」

・李信は、道教の始祖「老子(太上老君)」こと「李耳(りじ)」の子孫らしいが、信ぴょう性に乏しい気がする

・李信の子孫には、前漢の飛将軍「李広」、唐の2代皇帝「李世民」、詩仙「李白」など、大物が多い


『李信』の生涯と最期

春秋戦国時代(紀元前770~221年)、大陸では「秦・趙・魏・韓・燕・楚・斉」の「戦国七雄」と呼ばれた7カ国が争っていました。

《戦国七雄》
「引用元ウィキペディアより」

その中でも「秦」という国が、「秦王・贏政」のもとで、他の「六国」を圧倒し、全土を支配しようとしていたのです。

人気漫画「キングダム」では、その「李信」の若き頃「信」を主人公として、壮大なドラマが繰り広げています。

さて、将軍「李信」とは、一体どういう人物なのか?


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「李信」が遺した「功績」

彼がたてた武功として有名なのは、燕国の太子「丹」の討伐でしょう。

紀元前226年、始皇帝を暗殺しようと目論んだ暗殺者「荊軻(けいか)」。

その「荊軻」を差し向けた燕国の太子(王位継承権1位の王子)である「丹(たん)」を、李信は討ち取ったのです。

他にも、紀元前222年、趙国王族の生き残りである「太子・嘉」が、趙国滅亡後にたてた国「代」に、李信は王賁とともに攻め込んで、その「代王・嘉」をとらえて滅ぼしています。

「太子・嘉」
「キングダム」では李牧が期待をかけて

「彼が王になれば趙国に光がさす」

とまで言った「名君」の片鱗をみせた人物。

彼は李信の手で滅ぼされていたのです。

さらに李信は、紀元前221年、六国最後の一つ「斉」を、王賁とともに攻め滅ぼしてます。

キングダムでは、斉国の王「王建王」が、贏政に降伏するシーンがありましたが・・実際には斉国の内部が秦国の工作員によって支配されてたため、降伏するしかなかった・・というだけの話です。

輝かしい功績ですが・・・・実は李信の最も有名なエピソードは輝かしいものではなく、「大敗北」エピソードなのです。

「覇王の祖父」に大敗北

紀元前225年、「韓」「趙」「魏」を滅ぼし「燕」を滅亡寸前まで追い込んだ秦王・贏政は、六国の中で最も強大だった「楚」の国を攻めることを決定。

そこで、将軍たちに「どれくらいの兵力が必要か?」と尋ねたのです。

すると、老練な名将「王翦」は「60万」と、秦国全軍を要求。

対して若く勇猛な「李信」将軍は、「20万」と応えたのです。

勇敢な李信将軍の言葉に満足した秦王・贏政は、彼に楚征伐を命令しました。

蒙恬将軍とともに出陣した李信は、残念ながら、「楚の虎」こと「項燕」大将軍に大敗北を喫したのです。

その項燕大将軍は、この直後に60万の軍を率いた「王翦」に敗北し、楚国は滅亡。

ちなみにこの「項燕」は、後に秦国を滅ぼし、「西楚の覇王」を自称した「項羽」の祖父。

この「項羽」の父、つまり「項燕」の息子が誰なのかは、はっきりしていません。

漫画「キングダム」には「莫邪の宝剣」を振り回す「項翼」なる将が登場しています。

もしかしたら、この「項翼」が、「項羽」の父という設定なのかもしれません。

 

「李信と項燕の戦い」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『【キングダム】王翦の「鄴攻め・あつよ攻略」と「項燕との戦い」史実での結末は?』の記事はコチラ

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謎に包まれた「李信」の最後

実は、李信がどういう最期をむかえたのかは、はっきりわかっていません。

ただ、六国最後の「斉」を、彼が滅ぼしているところからして、秦の統一時点で生きていたことは確かでしょう。

秦国は【紀元前206年に、さきほどご紹介した「西楚の覇王」こと「項羽」の手で滅亡していますが、そのときの戦乱において李信という名前の将軍は全く登場してきません。

秦の将軍だった李信が、秦国の危機に全く戦わないなんてことは、考えにくいです。

おそらくこの時、李信は既に亡くなっていたのでしょう。

秦国統一から滅亡までの「14年の間」に亡くなった・・・ということです。

秦国は六国を滅ぼした後、南方へ遠征し「広州・福建・ベトナムのハノイ」方面へ侵攻していますので、もしかしたらこれらの戦争で命を落としたのかもしれません。

ちなみに、南方平定の後、秦国は北のモンゴル方面へ進軍。

このモンゴル方面の司令官は、李信の盟友である蒙恬将軍でした。


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「李信」は「超高」に処刑されたのか?

李信の最期について一つ、気になる噂があります。

それは「李信は、宦官『趙高』に処刑されたのではないか?」ということ。

趙高とは、「始皇帝」の秘書をつとめた側近。

始皇帝が亡くなると、その遺言書を偽造し、宰相「李斯」とともに「蒙恬」将軍や王子「扶蘇(ふそ)」を処刑した人物。

結局この「趙高」がむちゃくちゃにやらかしたおかげで、秦帝国は滅亡するのです。

権力を保持した「趙高」は、2代皇帝「胡亥(こがい)」とともに、始皇帝の子どもたち20数名を次々と処刑。

また、自分に逆らった秦の将軍や文官たちも次々と処刑したのだとか。

さて、そんな「趙高」・・・「李信」も処刑したのではないか?という噂があるのです。

筆者の予想で恐れ入りますが、結論から申し上げますと、「李信が趙高に殺害された」という可能性は、低いと思います。

理由は簡単です。

「李信の息子『李超』が、生きのびて「漢」という国で大将軍になっているから」

趙高は、李信とともに戦った将軍「蒙恬」とその弟「蒙毅」を、言いがかりをつけて処刑しています。

もしも李信を処刑したのなら、その息子「李超」を処刑しない可能性は低いはずです。

なぜなら李信を処刑しておいて、息子「李超」を生かしておくということは、趙高にとってはリスクでしかありません。

父「李信」を趙高に殺害されたとしたら、李超にとって趙高は「親のカタキ」なのですから、仇討ちを考えるはず。

史実をみても、趙高はとてつもなく「用心深い性格」です。

その「用心深い」趙高が、「李超」を生かしておくとは思えません。

おそらくですが、「李超」とその父「李信」は、「趙高」に処刑されていないのでしょう。

やはり、李信は「戦死」または「病死」したと考えるのが自然な気がします。

 

趙高」について、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ

「【キングダム】趙高の生涯と最期!史実での『馬鹿』エピソードが怖い」の記事はコチラ

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「嫁」は誰?

李信には数多くの有名な子孫がいることが判明しています。

子孫がいる・・・ということは、子供が当然いた事になりますし、妻もいたことになるでしょう。

では、その妻とは、誰なのか?

マンガ「キングダム」を見てみると、後の「李信」こと「信」の妻となるだろう候補の人物が、何人か登場しています。

軍師(参謀)「河了貂」、女剣士「羌瘣」、特にこの2人が有力候補でしょう。

他に女性キャラといえば、始皇帝仕えの女官「陽」、この人は2ちゃんねるで、「史実上の李信の妻」と言われていましたが、情報元が「2ちゃんねる」なので、信憑性にかけています。

他には「楊端和」などの女性キャラが現れていますが・・・おそらく「山の王」なんて言われている「楊端和」様と「信」が結ばれる展開は考えにくいでしょう。

さて、最も有力な候補としては「信の子供を産む」と宣言していた「羌瘣」と、「キスシーン」を演じた「河了貂」でしょう。

噂によると、「河了貂」は、史実でも「李信」の妻・・・ということになってるそうですが・・・・そうなの?

調査してみたところ、裏が全く取れませんでした・・信憑性に欠ける気がします。

そもそも「河了貂」は、キングダム・オリジナルの創作キャラだという噂ですしね。

史実上の李信将軍の妻は、名前が不明・・・誰だかわからないというのが現状です。

嫁は身分の高い女性だったのではないでしょうか。

秦の始皇帝からかなり信頼されていたことが予想される「李信」

おそらく始皇帝による斡旋で、妻をめとったのでは?

そして、漫画「キングダム」では、「河了貂」が妻となるのではないでしょうか。

羌瘣は?・・・おそらく側室・・・って感じに・・・・。

でもそんな事になったら、「飛信隊」の主力・羌瘣と、軍師・河了貂が敵対することにならない?なんだか恐ろしいことになりそうな気がしてなりません・・・。

史実において、李信の妻が何者なのかは定かではありません。

しかしおそらくですが、「後宮」、つまり秦王「贏政」につかえた女官たちのうちの誰かが「李信の妻」となったのではないでしょうか。

後宮の女性たちは、日本の「大奥」のように、巨大な城郭に閉じ込められていたわけですが、「王の許し」や「一定のルール内」であれば、外にでて男性と婚姻することが可能でした。

李信はおそらく秦王により、「後宮」の女性を複数名「正室」「側室」として与えられたのではないでしょうか。

この時代、後宮の女性は「褒美」として与えられることもあったのです。

後宮には、身分の高い「貴族」出身の女性も多数いました。

本来は「王の子供を産むため」に後宮へ入ったわけですが、秦王1人でそれだけの女性を相手にできるはずもないので、よく家来へ褒美として「下げ渡し」が行なわれていたのだとか。

もしかすると、李信が「高貴な女性」を与えられたことで、李信の末裔たちは、出世街道をすすめたのかもしれません。

「李信」が後宮の女性を与えられたとしたら、それはおそらく「紀元前226年」。始皇帝を暗殺しようとした「荊軻」を送り込んだ宿敵「燕国の太子・丹」を討ち取るという大手柄をたてたときでしょう。


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「李信」の先祖

李信の先祖について調べてみましょう。

漫画「キングダム」では、李信は「卑属」、つまり「奴隷」階級の出身であるとされていますが、一説によるとかなり高貴な身分だったようです。

李信は、道教の始祖とされる偉人「老子」の子孫であると自称しているみたいです。

「老子」とは、中国で有名な思想家。神としてまつられており「太上老君」という名前で呼ばれている偉人です。「太上老君」は人気小説「封神演義」や「西遊記」にも登場しています。

儒教の「孔子」も、「礼」を学ぶために「老子」に弟子入りしたのだとか。

老子の本名は「李耳(りじ)」。

李信のように「李」という苗字の人物は、ほとんどがこの「李耳」こと「老子」の末裔を名乗っているみたいです。

この「老子」が、本当に「李信」の先祖であるかどうか、定かではありません。

なぜなら李信が「老子」の末裔であるとしている「新唐書」という文献は、「唐」の国の王族たちが、みずからの出自を主張するために記したもの。自分たちの一族が高貴なものであると主張するために、かなりの部分を『でっちあげた』と言われているのです。


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李信の祖父は、秦国の領土である「隴西郡」の長官であり、「南鄭」という称号を持っていた「李崇」、字(あざな)は「伯祐」。

李信の父は、同じく秦国の領土「南郡」の長官。称号は「狄道侯(きどうこう)」。名前は「李瑤」、字は「内徳」。

そして「李信」の字(あざな)は「有成」。ちなみに「字(あざな)」というのは、家庭以外で使用される「仮の名前」のこと。

李信は秦で「大将軍」に任命され、祖父「李崇」と似た「南鄭」という称号を与えられています。

ちなみに「南鄭(なんてい)」とは、現在の「陝西省 漢中市」にある地区のこと。

「南鄭」は歴史が古く、李信が治めたのち、「漢」の皇帝「劉邦」が本拠地を置き、「三国志」の時代には「五斗米道」という宗教の教祖「張魯」が支配。その後「曹操」「劉備」が支配して、「劉備」が「漢中王」を名乗った場所です。

 

キングダム」と「三国志」のつながりについては、以下のリンク記事をお役立てくださいませ

「【キングダム】三国志時代との繋がりを時系列で解説!信の子孫は皇帝?」の記事はコチラ

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子孫は「名将」や「王様」「皇帝」

2200年後の現代にまで、その名を残した名将・李信。

彼の子孫には、高名な人物が多いことで有名です。

大将軍「李超」

マンガ「キングダム」では「李信」は「天下の大将軍」になることを夢見て奮闘しています。

そんな李信の息子「李超」は、秦滅亡後、覇王「項羽」に勝利して天下統一を成し遂げた国「漢」で、父と同じく大将軍となっています。

「李超」、あざなは「仁高」。

大将軍となって「漁陽郡」の太守となっています。「漁陽郡」とは、現在の中国の首都「北京」のあたりです。

それにしても、なぜ秦国滅亡のきっかけにもなった「漢」の大将軍に、なぜ秦国大将軍「李信」の息子が就任できたのか?

おそらくですが、李超は秦国滅亡の際に、漢の初代皇帝「劉邦」に協力して、秦国を見放したのでしょう。

李超は、機を見るに敏だったのかもしれませんね。

悲劇の名将「李広」

更には、前漢の最盛期を築き上げた名君「漢の武帝・劉徹」に仕えた名将・李広もまた「李信」の子孫です。

李広は、匈奴(きょうど)、つまりモンゴルの騎馬民族との戦いで戦功を上げ、「飛将軍(ひしょうぐん)」とまで呼ばれた名将。

この李広という将軍は、非常に有能な将軍でした。

しかしモンゴル軍との戦いで、彼の部隊は道に迷って戦場に到着できなかったため、それを恥じて憤死(自決)しています。

「三国志」に登場する最強の猛将『呂布』は、その強さを「李広」になぞらえて「飛将軍」と呼ばれています。

キングダムにおける「李」という姓の由来について

人気漫画「キングダム」で、主人公「信」は、「趙国三大天」の一人「龐煖(ほうけん)」を討ち取った功績により、将軍に出世。

しかしそのとき、「姓がない」ということが問題になりました。

そこで、親友「漂(ひょう)」が、「李(すもも)」から一字をもらい、「李漂」と名乗っていたことを知り、信も「李信」と名乗ることを決めました。

現実の史実では、「李信」は先祖代々「李」の姓を名乗っていたため、「すもも」を姓としたというのは創作(フィクション)です。

なぜ、キングダム作者は「李(すもも)」という一文字を、信が名乗ったストーリーを描いたのでしょうか?

実は「李信」の末裔に、「すもも」にまつわる逸話を持つ名将がいるのです。

それが、さきほどご紹介した飛将軍「李広」です。


李広は、非常に清廉潔白な人で有名でした。

彼は非常にたくさんの人から慕われ、いつも部下が彼のもとに集ったことから

「桃李(とうり)言わざれども下、自(おの)ずから蹊を成す」

という「ことわざ」が出来たほど。

「桃や李(すもも)の木は、口をきかないが、それでもその下には自然と人が集まり、蹊(みち)が成(な)る、できあがる」

という意味です。

俳優の【松坂桃李】さんの名前は、この「ことわざ」が基となっています。

東京・吉祥寺にある「成蹊(せいけい)大学」も、このことわざから命名された大学です。

李広将軍の人柄は、日本にも影響を及ぼすほどだったというですね。

この「ことわざ」は、「李広」将軍の姓が「李」、つまり「李(すもも)」という字であったため、「李」という姓と「すもも」をかけた「ことわざ」なのでしょう。

おそらく「キングダム」の作者は、この「李信」の末裔である「李広」の逸話・エピソードを、「李信」命名のストーリーに採用したのだと思います。

「李(すもも)」。

詳しくは後述しますが、この姓はのちに、「中国史上最高の名君」と呼ばれた「唐」帝国の皇帝達が代々名乗る、由緒正しき姓となるのです。

ちなみに李広は、岩に矢を突き立てることができるほどの「弓」の名人だったのです。

李氏一族は、代々「弓」の名人だったと言われています。もしかすると「李信」も弓の名人だったかもしれませんね。


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武昭王「李暠」

西暦400年
五胡十六国時代に「西涼」を成立させて、王に即位。

417年に病死するまで、王で居続けた人物。

貿易や商業、農業を奨励し、安定した国造りを成し遂げた王様だったようです。

詩仙「李白」

李暠の9代目子孫を自称し、詩聖「杜甫」と並んで有名な唐代の詩人「李白」、彼もまた「李信」の子孫を自称していました。

李白といえば、阿倍仲麻呂の友人だったことでも有名な人ですね。

「李白」と「玄宗皇帝」は、ともに「李信」の末裔であるということです。

ただ、最近の日本の研究者の間では「李白」が漢民族ではなかったという説もあるようです。

だとしたら、李信の子孫ではないということになりますが・・・・真相ははっきりしていません。捏造の可能性が高いということですが・・・。

唐の初代皇帝「李淵」

「史上最高の名君」と呼ばれた「李世民(太宗)」の父「李淵」。

中国における歴代王国の中でも、最も栄華を極めたとされる「唐」を建国した人物・・・。

日本でもおなじみですが、隋という国の皇帝「煬帝(ようだい)」の「いとこ」にあたる人物です。

「煬帝」とは、「聖徳太子(廐戸皇子)」が送った「小野妹子」たち日本からの「遣隋使」が持ってきた手紙に激怒した皇帝として有名です。

「日出処の天子より、日没する処の天子へ」

この一文に、煬帝は激怒したといわれています。

彼は「武昭王・李暠」の子孫を自称していたみたいですが、経歴を捏造したとの噂もあります。

経歴詐称は、徳川家康もやっていたそうですから、昔の人からすれば珍しいことではなかったのでしょうね。

子孫に「名将」と「王様」がいるとは・・・李信・・・大将軍どころで終わらなかった大物だったんですね。

ちなみに、李淵の子孫には、「楊貴妃」におぼれて国を危うくした「玄宗皇帝」がいます。


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史上最高の名君「李世民」

「貞観の治(じょうかんのち)」と呼ばれる政治をおこなった名君「李世民(りせいみん)」。

唐の初代皇帝「李淵」の次男。

「貞観の治」は、中国5000年の歴史の中で、最も国が平和に治められていた時代。

「あまりにも平和で戸締まりの必要がなく、食料が豊富だったため、旅人は食料を持たなくなった」

というほどでした。

その政治手法は「貞観政要(じょうかんせいよう)」という本にまとめられ、日本の「鎌倉幕府」「室町幕府」「江戸幕府」などでも参考とされましたし、「徳川家康」の愛読書であったとも言われています。

この「貞観政要」は、現代の企業経営にも応用されています。

特に、「ライフネット生命」の創業者「出口治明(でぐち はるあき)」さんは、この「貞観政要」を読み込んで企業経営に役立て、自らも「貞観政要」についての書籍を出版しています。

 

中国史上唯一の女帝「武則天(またの名を則天武后)」を寵愛したが、武則天の聡明さを危険視して遠ざけたとか。

その「武則天」は「李世民」の死後、李世民の息子である三代皇帝「高宗皇帝」に愛され、690年に皇帝に即位。705年の退位まで女帝として君臨しています。


ここまで、「唐王朝」の歴代皇帝が「李信」の末裔であると申しました。

しかし「西涼の王・李暠」の末裔を名乗っていた「唐王朝・李氏」は、実際のところは「北方民族」の「鮮卑族」を起源に持つ一族なのだそうです。

つまり「唐王朝」は「李暠」の末裔ではないということになります。

やはり「唐王朝」は、系図を詐称したということになるのでしょうね・・・。

となると、「唐王朝」は正式には「李信」の末裔でもないということになります。

一応「唐王朝」は「李耳」の末裔を名乗っていたため、ここに李信とのつながりも解説いたしましたが、現在の通説では、「唐王朝」と「李信」に繋がりはないとなっているようです。

また、この場を借りて、貴重なご意見をいただきましたことに御礼を申しあげます。ありがとうございました。


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「キングダム」の歴史を「年表」で解説

漫画「キングダム」について、ザッとですが「年表」で解説いたしました。


紀元前260年 

《長平の戦い》。秦将「白起」が趙将「趙括」と趙軍45万を撃破。

趙国の宰相「藺相如(りんしょうじょ)」死去・・・(死去したのは翌年の259年という説もあり)

 

紀元前259年

のちの始皇帝「贏政(えいせい)」誕生

 

紀元前251年

秦の「昭王(昭襄王)」が死去

 

紀元前250年

秦の「孝文王」が死去

秦の「荘襄王」が即位、「呂不韋」が丞相に就任

 

紀元前247年

魏国の「信陵君」が合従軍をひきいて「蒙驁(もうごう)」を撃破。函谷関を攻撃するが敗北

秦の「荘襄王」が死去

「贏政」が秦王に即位・・・同時に「王騎」「ヒョウ公」「蒙驁」が将軍に就任。

 

紀元前245年

趙将「廉頗」が趙将「楽乗」を撃破。趙国から魏国へ亡命

 

紀元前244年

「蒙驁」が韓を攻撃。13城を奪取

王騎」死去

 

紀元前242年

趙将「李牧」が燕国の『武遂』と『方城』の2城を奪取。

趙将「龐煖」が燕国の将「劇辛」を討ち取る

「蒙驁」が魏国を攻撃。20城を奪取

 

紀元前241年

楚の「春申君」がひきいた合従軍(趙・楚・韓・魏・燕)が秦国の函谷関を攻撃

「龐煖」が合従軍の別働隊(趙・楚・魏・燕)をひきいて秦国の『さい』を攻撃

 

紀元前240年

「蒙驁」死去

 

紀元前239年

秦王「贏政」の弟「成蟜」が反乱をおこして戦死

 

紀元前238年

秦王「贏政」が22歳で「加冠の儀(元服)」をおこなう

「ろうあいの乱」勃発。即座に鎮圧。「ろうあい」処刑。

楚の「春申君」が「李園」に暗殺される

 

紀元前236年

王翦」が「楊端和」「桓騎」とともに、趙国を攻撃。『閼与(あつよ)』『鄴(ぎょう)』を攻略


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紀元前235年

「呂不韋」が服毒自殺

 

紀元前234年

「桓騎」が趙国を攻撃。趙将「こちょう」を討ち取り、趙軍10万人を斬首

 

紀元前233年

「桓騎」が『平陽』と『武城』を攻略。『ギ安』で大将軍「李牧」に大敗。戦死または庶民へ降格し「燕国」へ亡命

 

紀元前230年

内使「」の攻撃で、韓滅亡

 

紀元前229年

「王翦」「楊端和」「羌瘣」が趙国を攻撃。

「李牧」が趙国王に処刑される。

趙将「司馬尚」は逃亡。

 

紀元前228年

趙滅亡。このとき「李信」は趙国の『太原』『雲中』方面を攻略。

 

紀元前226年

暗殺者「荊軻」により、「始皇帝暗殺未遂」が勃発

「李信」が燕の太子「丹」を打ち取る


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紀元前225年 

魏滅亡

「李信」「蒙恬」が楚将「項燕」に大敗

 

紀元前224年

「王翦」が楚を攻撃、楚王「ふすう」を捕縛

 

紀元前223年

「王翦」と「蒙武」が楚を攻撃。

昌平君」「項燕」が戦死。

楚滅亡

 

紀元前222年

「李信」「王賁」により、燕・代(趙国の亡命政権)滅亡

 

紀元前221年

「李信」「王賁」「蒙恬」により、斉滅亡。秦国が天下統一を達成

 

紀元前220年

「贏政」が「皇帝」に即位。「始皇帝」を名乗る

 

紀元前210年

「始皇帝」死去

始皇帝の末子「胡亥(こがい)」が二世皇帝に即位

始皇帝の長子「扶蘇(ふそ)」と将軍「蒙恬」が処刑される


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紀元前209年

「蒙恬」の弟「蒙毅」が趙高に処刑される

《陳勝・呉広の乱》が勃発

 

紀元前207年

丞相「李斯」が宦官「趙高」に処刑される

二世皇帝「胡亥」が「趙高」に殺される

始皇帝の孫「子嬰(しえい)」が皇帝の位を廃して「王」の位を復活させる。「子嬰」が秦王に即位

趙高が秦王「子嬰」に殺される。

 

紀元前206年

秦国滅亡。秦の首都「咸陽」が、楚国の将「項燕」の孫「項羽」と「劉邦」によって陥落。

項羽によって秦王「子嬰」が処刑される

秦国が滅亡した直後、楚の「項羽」と、漢の「劉邦」の間で《楚漢戦争(そかんせんそう)》勃発

 

紀元前202年

「垓下(がいか)の戦い」で「項羽」が戦死。

《楚漢戦争》終結

「劉邦」が皇帝に即位。

『漢』が天下統一

 

ちなみに、「【キングダム】から【三国志】までの年表」もご用意いたしました。よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。

『【キングダム】三国志時代との繋がりを時系列と年表で解説!信の子孫は皇帝?』の記事はコチラ

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史実の「李信」は「大将軍」になれたのか?

そもそも史実の「李信」は「大将軍」になれたのでしょうか?

結論から言いますと、「李信」は「大将軍」になれました。

「李信」は「秦」で、「大将軍・南鄭侯」という位を与えられています。

「南鄭(なんてい)」というのは、彼が支配していた領地の名前。

現在の「陝西省・漢中市」にある「南鄭」のことです。

「劉邦」や「劉備」の拠点として有名ですね。

では、李信はいつ「大将軍」となったのでしょうか?

実は「李信がいつ大将軍になったのか」については、史実に記録がないため、定かではありません。

これは筆者の推測ですが、「紀元前225年」に、李信は大将軍となったのではないでしょうか。

紀元前225年」とは、すなわち「李信」が楚の大将軍「項燕」に大敗北を喫したときです。


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「大将軍」とは、すなわち「軍事のトップ」のこと。

のちの「漢」という国では「韓信」「衛青」などの武将が「大将軍」に任命され、各方面軍の司令官として戦っていました。

秦王「贏政」のもと、秦国は「六国」を相手に交戦。

以下に、「韓・趙・魏・楚・燕・斉」が滅びた「年」と「滅ぼした将軍」の名前を一覧でまとめてみました。

以下のまとめをみると、「六国」はおもに「王翦・王賁」親子によって滅亡させられていることがわかります。

「韓」が「騰」に滅ぼされたことを除けば、残りの「五カ国」は全て「王翦・王賁」が滅ぼしているのです。

(さらに趙国の亡命政権「代」を王賁が、南の「越国」を王翦が滅ぼしています)

紀元前230年 

「韓」滅亡

内史騰

 

紀元前228年

「趙」滅亡

王翦・羌瘣

 

紀元前226年

「燕」の首都陥落

王翦・『李信

 

紀元前225年

「魏」滅亡

王賁

 

紀元前225年

「楚」に大敗

李信・蒙恬

 

紀元前224年

「楚」の将軍・項燕を撃破

王翦

 

紀元前223年

「楚」滅亡

王翦・蒙武

 

紀元前222年

「燕」滅亡

王賁

 

紀元前221年

「斉」滅亡

王賁


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この中で、李信が活躍しているのは

・趙国滅亡の際、首都「邯鄲」とは別方面を攻略していたこと。

・「燕国」の首都を陥落させた戦いで、始皇帝を暗殺しようとした燕国の太子「丹」を討ち取ったこと。

の2つ。

しかしこれらの活躍は、「王翦」の副将としての活躍でしょう。

「趙」「燕」を攻略した大将軍(最高司令官)は、明らかに「王翦」です。

 

燕国の太子「丹」を「李信」が討ち取った翌年の「紀元前225年」、李信は20万の軍団をひきいて、「蒙恬」を副将にして楚を攻撃。

「20万」の軍団を預けられたときに、李信は「大将軍」に任命されたのでしょう。

おそらく「大将軍」への抜擢は「燕国」の太子「丹」を討ち取った褒美の「昇進」だったのだと考えられます。

この「楚攻略戦」が、「李信」が一国を滅ぼすための方面軍・司令官として出陣した唯一の戦いなのですから。

この時の秦軍の数は、全軍で「60万」。

李信はその3分の1を預けられたわけですから、立派に「大将軍」と言って良いはずです。

しかし結果はご存知の通り、李信は項燕にありえないほどの大敗北を喫してしまうのです。

李信の敗北後、「楚」は「王翦」「蒙武」という老練な武将が攻略。

最期の敵「斉」は、すでに40年も戦争をしておらず、「秦国の同盟国」という扱いはされていたものの、実質的に秦の属国でした。

「王賁」が斉を攻めたときに、斉王は戦わずに降伏したといいますので、「李信」の活躍の場はなかったことでしょう。

おそらく「李信」は、「楚」に敗北した直後に「大将軍」の位を剥奪。

その後、目立った活躍をすることなく亡くなったのではないでしょうか。

「蒙恬」は天下統一のあと、「北方の異民族」討伐で活躍していますが、「李信」の名前は出てきません。

李信は、失意のうちに亡くなってしまったのかもしれません。

 

ちなみに、キングダムのラスボスは、「王翦」によって滅ぼされると予想されます。

「キングダムのラスボス」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

キングダム・ラスボスはあの男!王翦・李牧をも上回る戦神・昭王の孫」の記事はコチラ

 

余談ですが、キングダムで「李信」は「奴隷」階級の出身。

当時の秦国は、戦神「昭王」の祖父である名君「孝公」と名宰相「商鞅(しょうおう)」によって、「20段階」の「爵位」が定められ、明確な「身分制度」が確立されていました。

市民は全員が「20の爵位」の内、どれかを必ず与えられていたのです。

しかし、「キングダム」の「信」や「漂」は、この「20階級」よりも下の「奴隷階級」。

彼らは貴族などの所有物となっていました。(「呂不韋」は、信や漂のような奴隷を1万人以上かかえていた)


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,李信の最後ははっきりしておらず、おそらく「秦国の滅亡」以前に亡くなっていたのだろう

 

2,史実上、李信の妻ははっきりしていないが、「キングダム」では、おそらく「河了貂」が妻となる

 

3,子孫には「飛将軍・李広」や「武昭王・李暠」など、大物が多数いる

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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コメント

    • おかめ
    • 2018年 2月 18日

    陽が史実で嫁てのは掲示板のデマ、河了貂はエイプリルフールネタで一時期ネットを出回った話。
    李信の嫁は史実に記載が無いのが正解。
    故に誰がなってもおかしくはない、作者次第。
    その作者のコメントを読み解き、予想するのが最も確率が高い。
    作者はナタリーのインタビューや公式ガイドブックで、信の相手は貂か羌瘣か一人にすでに絞っており、ハーレムにはしないという内容のコメントをしている。
    その後、情熱大陸では羌瘣とのロマンスの構想があることをネタばしており、また、以後の漫画の描写から見るにそれは羌瘣であることがおおよそ読み取れる。
    おそらく彼女が史実の舞台から消えるタイミングで信の妻、子の母という役割にチェンジさせると自分は読んでいる。

    • 世界史教員
    • 2020年 5月 05日

    長恨歌は李白ではありません。白居易の作品です。
    唐の皇帝である李氏が子孫という話は、明らかに作り話でしょう。
    なぜなら、唐の皇帝の家系は北方民族のルーツを持っているからです。
    これは現在の研究では明らかです。
    現行高校世界史教科書にも記載があります。

      • rekishiru
      • 2020年 5月 05日

      いつもお世話になっております!
      貴重なコメントをいただきまして誠にありがとうございます。
      また、素晴らしい情報もいただきましたことにも、重ねて御礼申し上げます。
      お教えを基にして調査を深め、さらに記事の精度を上げて参りたいと思います。
      本当にありがとうございます。

    • ウッチー
    • 2020年 6月 11日

    信は始皇帝が亡くなった後 漢に亡命したのでは?

    息子が漢の大将軍になってるし 趙高に嫌気もしているだろう

    始皇帝には義理があっても 趙高にはないだろうからね

    どちらかと言うと バイアンの乱の時の恨みもあるだろうし

      • rekishiru
      • 2020年 6月 11日

      貴重なコメントを頂きましてありがとうございます。
      おっしゃる通りかもしれません。
      李信は他国へ亡命し、生きながらえたのかもしれませんね。
      この度は当サイトへお越しくださいましてありがとうございました
      またぜひぜひ、お越し下さいませ

    • 2020年 6月 23日

    唐の皇室が鮮卑にルーツを持つという説は少し前から流行っており(最近の反中国・反漢民族的な風潮も関係あるのかな?)、事実唐は北魏という鮮卑族王朝と関係があります
    ここまで言うと、なんだじゃあ唐は北方系民族じゃないかとなりそうですかちょっと立ち止まって考えてみてください
    見落としがちですが大切なのは北魏は漢化政策というのをやったことです。ですのでその後北魏の鮮卑系貴族はどんな血が混ざっているか不明です。また、北魏には漢人官僚も大量にいました
    鮮卑という民族自体もこの前後の時代に消滅します
    要するに、本当はどうなのかわからないんです。時代が時代ですからあくまで説の領域を出ません
    また、一説には北魏が李氏(李信の子孫と呼ばれる一族です)をかくまっていたという説もあるくらいです
    もしかしたら李信の子孫が本当に唐皇室に繋がっているかもしれませんよ
    要するにわかんないんですよ。例の高校の教科書もあくまで1社しか掲載していませんしあくまで説扱いです。これから決定的な証拠が出たら変わるかもしれませんね
    現時点で明確に分かっている情報でフェアに考えると、唐という国は漢民族化した鮮卑系貴族と土着漢民族豪族のハイブリッド王朝と考えるのが自然でしょう

      • rekishiru
      • 2020年 6月 26日

      貴重なコメントを頂きましてありがとうございます。
      おっしゃる通りかもしれません。
      この度は当サイトへお越しくださいましてありがとうございました
      またぜひぜひ、お越し下さいませ

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