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キングダム李信の最後は悲惨?嫁が超大物で子孫が王様になったって本当か

秦の始皇帝につかえた大将軍・李信をご存知でしょうか?

人気漫画キングダムに登場する主人公で、大将軍を目指す少年・信のことです。

李信の最期とは、一体どういうものだったのでしょうか?

そして彼の嫁は、一体どういう人だったのでしょう?

じつは、そんな李信や彼の嫁の間に生まれた子孫には、大物が多いらしいのです。

誉れ高き名将、善政をおこなった王様、史上最高の名君と呼ばれた皇帝、さらには詩の天才まで輩出したとの噂もあります。

もしかすると、史実での李信の嫁は、大物だったのかもしれません。


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歴史専門サイト「レキシル」へようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 李信の最期はハッキリしていないが、紀元前206年の秦国滅亡の前には、すでに亡くなってた
  2. 李信の妻は羌瘣という噂もあるが、おそらく河了貂だろう
  3. 李信は、道教の始祖・老子(太上老君)という名前で知られている李耳(りじ)の子孫らしいが、信ぴょう性に乏しい
  4. 李信の子孫には、前漢の飛将軍・李広、唐の2代皇帝・李世民、詩仙・李白など、歴史に名を刻んだ大人物が多い

李信の生涯と最期とは?

春秋戦国時代(紀元前770~221年)の中国大陸では

秦・趙・魏・韓・燕・楚・斉

この7カ国が、戦国七雄(せんごくしちゆう)と呼ばれて、天下統一をめぐり争っていました。

《戦国七雄》
「引用元ウィキペディアより」

その中でも、秦王・贏政が君臨した秦という帝国が、ほかの六国(りっこく)を圧倒し、全土を支配しようとしていたのです。


人気漫画キングダムでは、秦王・嬴政につかえた猛将・李信を主人公として、壮大なドラマが繰り広げています。

さて、将軍・李信とは、一体どういう人物なのでしょうか


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李信が残した功績とは?

燕国の太子・丹(たん)を討伐したこと。

李信が残した武功・功績のなかで、もっとも有名なものといえば、これでしょう。

紀元前226年、荊軻(けいか)という名前の暗殺者が、秦国の元将軍・樊於期(はんおき)や、燕国の太子・丹の策略により、秦王・嬴政の暗殺をくわだてました。

その暗殺計画は失敗に終わり、荊軻は秦王・嬴政の手で返り討ちとなりました。

暗殺者・荊軻を差し向けた燕国の太子(王位継承権1位の王子)である丹(たん)を、猛将・李信は討ち取っているのです。

李信の功績は他にもあります。

なかでも有名なのは、代国を滅ぼしたことでしょう。

紀元前222年、趙国王族の生き残りである太子・嘉が、趙国滅亡後にたてた代(だい)という国をつくって秦国に抵抗していました。

李信はその代国に王賁将軍とともに攻め込んで、その代王・嘉をとらえ、滅ぼしています。

太子・嘉は、キングダムにも登場していました。

キングダムで、李牧は太子・嘉に期待をかけて

「彼が王になれば趙国に光がさす」

とまで言ったほどの名君の片鱗をみせた人物でした。

その太子・嘉は、李信の手で滅ぼされているのです。

さらに李信は、紀元前221年、六国最後の一つである斉国を、王賁とともに攻め滅ぼしてます。

キングダムでは、斉国の王・王建王が、贏政に降伏するシーンがありました。

しかし実際には、斉国の内部が秦国の工作員によって支配されつくしていたために、降伏する以外に選択肢がかなったというだけの話です。

輝かしい功績を残している李信ですが、じつは李信の名前を歴史に刻んだもっとも有名なエピソードは、輝かしいものではなく、歴史上屈指の大敗北エピソードなのです。

李信は、覇王の祖父に大敗北していた

実は李信は、楚国の大将軍だった項燕という人物に、歴史上でもめずしいほどの大敗北をしているのです

紀元前225年、韓・趙・魏の三カ国を滅ぼし、燕を滅亡寸前まで追い込んだ秦王・贏政は、六国の中でも一番強大だった楚の国を攻めることを決定します。

そこで秦王・嬴政は将軍たちに、

「楚国を滅ぼすためには、どれくらいの兵力が必要か?」

と尋ねたのです。

すると、老練な名将・王翦は、秦国全軍60万が必要であると主張しました。

それに対して若く勇猛な李信将軍は、20万で十分だと応えたのです。

勇敢な李信将軍の言葉に満足した秦王・贏政は、彼に楚の征伐を命令したのです。

蒙恬将軍を副将とし、李信将軍は出陣します。

しかし残念ながら李信と蒙恬は、楚の虎と呼ばれていた項燕大将軍に、とんでもない大敗北をしてしまうのです。

項燕大将軍はというと、李信と蒙恬を倒した直後に、60万の軍をひきいた名将・王翦に敗北して戦死。

≪王翦≫
『引用元ウィキペディアより』

その結果、楚国は滅亡してしまいます。

ちなみにこの項燕大将軍ですが、のちに秦国を滅ぼし、西楚の覇王を自称した軍神・項羽の祖父にあたる人物です。

この項羽の父あたる人物が誰なのか、実はハッキリしていません。

燕大将軍の息子の誰かが、項羽の父親ということになるのですが、史実の上では項燕には、

  • 項梁
  • 項伯

という2人の息子がいることしか判明していません。

漫画キングダムには、莫邪の宝剣を振り回す項翼という武将が登場しています。

もしかしたらこの項翼が、軍神・項羽の父という設定になるのかもしれません。

 

李信と項燕の戦いについては、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。


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謎に包まれた李信の最期とは?

実は、李信がどういう最期をむかえたのかは、ハッキリとはわかっていません。

ただ、六国最後の一カ国である斉国を、李信が滅ぼしているところからして、秦による天下統一時点で生きていたことだけは確実です

紀元前206年、秦国は西楚の覇王を名乗った軍神・項羽の手で滅亡しています。

項羽(項籍)
引用元ウィキペディアより

しかし、秦国が滅亡させられた戦乱において、李信という名前の将軍は、まったく登場してこないのです。

秦国の将軍だった李信が、秦国滅亡の危機にまったく戦わないなんてことは、考えにくいです。

おそらく紀元前206年のこのとき、李信はすでに亡くなっていたのでしょう。

李信が斉国を滅亡させて、秦国の天下統一を実現したのが、紀元前221年。

秦国が項羽の手で滅亡させられたのが紀元前206年。

秦国の天下統一から滅亡までの15年のあいだに、李信は亡くなったということです。

秦国は六国を滅ぼしたあと、南方へ遠征しています。

そして、現在の広州・福建・ベトナムのハノイ方面を侵攻しています。

もしかすると李信は、これらの国を相手にした戦争で、命を落としたのかもしれません。

ちなみに、南方平定のあと、秦国は北のモンゴル方面へ進軍しています。

このモンゴル方面軍の司令官は、李信の盟友であり、ともに項燕大将軍と戦った蒙恬将軍でした。

蒙恬はこの戦いで勝利をおさめ、始皇帝・嬴政から絶大な信頼を勝ち取っているのです。


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李信は宦官・趙高に処刑されたのか?

李信の最期について一つ、気になる噂があります。

それは

李信は、宦官(かんがん)の趙高(ちょうこう)に処刑されたのではないか?

という噂です。

趙高とは、始皇帝・嬴政の秘書をつとめた人物です。

漫画キングダムにも、趙高は登場していましたね。

始皇帝が亡くなると、趙高はとんでもないことをやらかしています。

なんと始皇帝が残した遺言書を偽造し、宰相・李斯と協力して、蒙恬や始皇帝の第一王子・扶蘇(ふそ)を処刑しているのです。

この趙高が秦国をメチャクチャにしたおかげで、絶大な力を誇っていた秦は、あっけなく滅亡してしまうのです。

権力を手に入れた趙高は、自らが擁立した2代皇帝・胡亥(こがい)とともに、始皇帝の子どもたち20数名を次々と処刑。

また、自分に逆らった秦の将軍や文官たちも次々と処刑したといいます。

さて、そんな趙高なのですが、李信も処刑したのではないか、という噂があるのです。

筆者の予想で恐れ入りますが、結論から申し上げますと、李信が趙高に殺害された可能性は、低いと思います

理由は簡単です。

李信の息子・李超が、生きのびて漢という国で大将軍になっているから

趙高は、李信とともに戦った将軍・蒙恬と、その弟・蒙毅を、言いがかりをつけて処刑しています。

もしも李信を処刑したのなら、その息子・李超を処刑しない可能性は低いはず。

なぜなら李信を処刑しておいて、息子の李超を生かしておくということは、趙高にとってはリスクでしかないからです。

父・李信が趙高に殺害されたのだとしたら、李超にとって趙高は、親のカタキです。

当然ですが、李超は父の仇討ちを考えて、趙高の命を狙うはずです。

史実をみてみると、趙高はとてつもなく用心深い性格です。

その用心深い趙高が李信を処刑したのだとしたら、息子の李超を生かしておくとは思えません。

おそらくですが李信は、趙高に処刑されたわけではないのでしょう。

やはり李信は、戦死または病死した、と考えるのが自然な気がします。

 

趙高については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。


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李信の嫁は誰なのか?

李信には数多くの有名な子孫がいることがわかっています。

子孫がいるということは、子供が当然いた事になりますし、妻もいたはずです。

では、その妻とは、誰なのか?

おそらくですが漫画キングダムでは、河了貂が李信の妻ということになるのでしょう。

漫画キングダムを読んでみると、李信の妻となるだろう候補の女性が、何人か登場しています。

  1. 軍師(参謀)・河了貂
  2. 女剣士・羌瘣

特にこの2人が有力候補でしょう。

他に女性キャラといえば、始皇帝につかえている女官の陽。

この女性は2ちゃんねるで、史実上の李信の妻と噂されていましたが、情報元が2ちゃんねるなので、信憑性にかけています。

他には楊端和などの女性キャラが現れていますが、山の王なんて呼ばれている楊端和様と李信が結ばれる展開は、かなり考えにくいでしょう。

さて、最も有力な候補としては、やはり

  • 李信の子供を産むと宣言していた羌瘣
  • キスシーンを演じた河了貂

この2人でしょう。

噂によると河了貂は、史実でも李信の妻ということになってるそうですが、本当なのでしょうか。

調査してみたところ、河了貂が李信の妻であるという噂は、確認がまったく取れませんでした。つまり信憑性に欠けます。

そもそも河了貂は、キングダム・オリジナルの創作キャラだという噂です。

史実上の李信将軍の妻は、名前が不明です。

つまり李信の妻が誰だなのか、全然わからないというのが現状です。

もしかすると李信の嫁は、身分の高い女性だったのではないでしょうか。

李信は、始皇帝からかなり信頼されていたことが予想されます。

史実では、おそらく李信は始皇帝からの斡旋で妻をめとったのでしょう。

一方、漫画キングダムの展開を予想すると、おそらく河了貂が妻となるのでしょう。

羌瘣はもしかすると李信の側室・愛人になるのかもしれません。

でもそんな事になったら、飛信隊の主力・羌瘣と、軍師・河了貂が、李信をめぐって敵対することになりかねません・・・。

史実において、李信の妻が何者なのかは定かではありません。

しかしおそらくですが、後宮、つまり秦王・贏政につかえた女官たちのうちの誰かが、李信の妻となったのではないでしょうか。

後宮の女性たちは、日本の江戸時代における大奥のように、巨大な城郭に閉じ込められていました。

しかし、王の許しや一定のルール内であれば、外にでて男性と婚姻することが可能でした。

李信はおそらく秦王によって、後宮の女性の何人かを、正室または側室として与えられていたのではないでしょうか。

この時代、後宮の女性は褒美として与えられることもあったのです。

後宮には、身分の高い貴族出身の女性も多数いました。

本来は王の子供を産むために後宮へ入った彼女たちですが、秦王1人でそれだけの女性を相手にできるはずもないので、よく家来へ褒美として下げ渡し(さげわたし)が行なわれていたのだとか。

もしかすると、李信が高貴な女性を与えられたことで、李信の末裔たちは、出世街道をすすめたのかもしれません。

李信が後宮の女性を与えられたとしたら、それはおそらく紀元前226年です。

始皇帝を暗殺しようとした荊軻を送り込んだ宿敵の燕国太子・丹を討ち取るという大手柄をたてたときでしょう。


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李信の先祖は、封神演義に登場した有名人だった

李信の先祖は、老子という人物だといわれています。

老子は別名・太上老君(だいじょうろうくん)ともよばれています。

漫画キングダムでは、李信は卑属、つまり奴隷階級の出身であるとされています。

しかし一説によると、かなり高貴な身分だったようです。

李信は、道教の始祖とされる偉人・老子の子孫を自称していたみたいです。

老子とは、中国で有名な思想家のことです。

老子は中国各地で神としてまつられており、太上老君という名前でも呼ばれている偉人です。

太上老君は、人気小説・封神演義や西遊記にも登場しています。

儒教の孔子も、礼を学ぶために、老子に弟子入りしたといわれています。

老子の本名は、李耳(りじ)といいます。

李信のように、李という苗字の人物は、ほとんどがこの李耳つまり老子の末裔を名乗っているようです。

この老子が、本当に李信の先祖であるかどうか、定かではありません。

なぜなら李信が老子の末裔であると解説している新唐書という文献は、唐の国の王族たちが、みずからの出自を主張するために記したものなのです。

自分たちの一族が高貴なものであると主張するために、この新唐書の内容をでっちあげたといわれています。


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李信の祖父は、李崇(りすう)という人です。

字(あざな)は、伯祐(はくゆう)。伯という字をつかっていることから、李崇は長男であったことがわかります。

彼は秦国の領土である隴西郡(ろうせいぐん)の長官であり、南鄭公(なんていこう)という称号を持っていました。

李信の父は、同じく秦国の領土・南郡(なんぐん)の長官でした。

李信の父親の称号は狄道侯(きどうこう)。

名前は李瑤(りよう)で、字は内徳といいました。

そして李信の字(あざな)は有成というそうです。

ちなみに字(あざな)というのは、家庭以外で使用される通称、つまりは仮の名前のことです。

李信は秦で大将軍に任命され、祖父・李崇と似た南鄭侯という称号を与えられています。

ちなみに南鄭(なんてい)とは、現在の陝西省 漢中市にある地区のことです。

南鄭は歴史が古く、李信が治めたのち、漢の皇帝・劉邦が本拠地を置いた場所です。

三国志の時代には、五斗米道(ごとべいどう)という宗教の教祖・張魯(ちょうろ)が支配していた地域です。

その後は曹操や劉備が、この南鄭を支配して、劉備が漢中王を名乗ることとなる、歴史上とても重要な地となるのです。

 

キングダム三国志のつながりについては、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。


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李信の子孫は、名将や皇帝など有名人だらけ

2200年後の現代にまで、その名を残した名将・李信。

彼の子孫には、高名な人物が多いことで有名です。

大将軍・李超(りちょう)

キングダムにおいて、李信は天下の大将軍となることを夢見て奮闘しています。

そんな李信の息子・李超(りちょう)は、秦が滅亡したあと、覇王・項羽に勝利して天下統一を成し遂げた漢という国で、父と同じく大将軍になっています。

李超、あざなは仁高といいます。

この李超は、大将軍となって漁陽郡の太守となっています。

漁陽郡とは、現在の中国の首都・北京のあたりです。

それにしても、秦国の大将軍・李信の息子だった李超が、なぜ秦国滅亡のきっかけにもなった漢の国の大将軍になれたのでしょうか?

おそらくですが李超は、秦国滅亡の際に、漢の初代皇帝・劉邦に協力して、秦国を見捨てたのでしょう。

李超は、機を見るに敏だったのかもしれません。

悲劇の名将・李広(りこう)

前漢の最盛期を築きあげた名君・漢の武帝・劉徹(りゅうてつ)に仕えた名将・李広(りこう)もまた、李信の子孫です

李広は匈奴(きょうど)、つまりモンゴルの騎馬民族との戦いで戦功をあげ、飛将軍(ひしょうぐん)とまで呼ばれた名将です。

この李広という将軍は、非常に有能な将軍でした。

しかしモンゴル軍との戦いである日、李広の部隊は道に迷い戦場に到着できなかった事件が起こります。

それを恥じた李広は、憤死(自害)しています。

三国志に登場する最強の猛将・呂布は、その強さを名将・李広になぞらえて、飛将軍と呼ばれています。

李という姓の由来について

人気漫画キングダムにおいて、李信が自らの姓を李(すもも)という字にしたのは、名将・李広の逸話をもとにしたものだと考えられます。

キングダムで、主人公・信は、趙国三大天のひとりである龐煖(ほうけん)を討ち取った功績により、将軍に出世します。

しかしそのとき、信には姓がないということが問題になりました。

そこで親友・漂(ひょう)が、李(すもも)から発想を得て、李漂と名乗っていたことを知り、信も李信と名乗ることを決めていました。

現実の史実では、李信は先祖代々李の姓を名乗っていたため、すももを姓としたというのは創作(フィクション)です。

なぜキングダム作者は、信が李(すもも)という一文字を姓にしたというストーリーを採用したのでしょうか?

実はさきほど紹介した李信の末裔・李広に、すももにまつわるエピソードがあるのです。

李広は、非常に清廉潔白な人で有名でした。

彼は非常にたくさんの人から慕われ、いつも部下が彼のもとに集ったことから

「桃李(とうり)言わざれども下、自(おの)ずから蹊を成す」

という「ことわざ」が出来たほど。

「桃や李(すもも)の木は、口をきかないが、それでもその下には自然と人が集まり、蹊(みち)が成(な)る、できあがる」

という意味です。

俳優の松坂桃李さんの名前は、このことわざが基となっていると考えられます。

また、東京・吉祥寺にある成蹊(せいけい)大学も、このことわざから命名された大学です。

李広将軍の人柄は、日本にも影響を及ぼすほどだったというですね。

このことわざは、李広将軍の姓が李、つまり李(すもも)という字であったため、李という姓とすももをかけたことわざなのでしょう。

おそらくキングダムの作者は、この李信の末裔である李広の逸話・エピソードを、李信命名のストーリーに採用したのだと思います。

李(すもも)。

くわしくは後述しますが、この姓はのちに、中国史上最高の名君と呼ばれた唐帝国の皇帝達が代々名乗る、由緒正しき姓となるのです。

ちなみに李広は、岩に矢を突き立てることができるほどの弓の名人だったといわれています。

李氏一族は代々、弓の名人だったといわれています。

もしかすると李信も、弓の名人だったかもしれません。


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武昭王・李暠(りこう)

西暦400年、五胡十六国時代に、西涼という国を成立させて、王に即位したのが、この李暠です

李暠は417年に病死するまで、王を続けた人物です。

貿易や商業、農業を奨励し、安定した国造りを成し遂げた、とても優秀な王様だったようです。

詩仙・李白(りはく)

李暠の9代目子孫を自称し、詩聖とよばれた杜甫(とほ)と並んで有名な唐代の詩人・李白(りはく)。

彼もまた、李信の子孫を自称していました。

李白といえば、日本から来た遣唐使・阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)の友人だったことでも有名な人です。

李白が生きた時代は、楊貴妃で有名な唐の玄宗皇帝が君臨していた時代です。

この玄宗皇帝も李白も、ともに李信の末裔にあたります。

ただ、最近の日本の研究者のあいだでは、李白はそもそも漢民族ではないという説もあるようです。

だとしたら、李信の子孫を自称していた李白ですが、そもそも李信の子孫ではないということになってしまいます。

真相ははっきりしていませんが、李白が李信の子孫ではない可能性もあるようです。

唐の初代皇帝・李淵(りえん)

大国・隋のあとに天下を支配した唐の初代皇帝・李淵(りえん)。

中国における歴代王国の中でも、最も栄華を極めたとされる唐を建国した人物です。

日本でもおなじみ隋の皇帝・煬帝(ようだい)のいとこにあたる人物が、この李淵です。

煬帝は、日本でも有名です。

聖徳太子(廐戸皇子)が送った小野妹子たち遣隋使の手紙に激怒した皇帝です。

「日出処の天子より、日没する処の天子へ」

この一文に、煬帝は激怒したといわれています。

彼は武昭王・李暠の子孫を自称していたみたいですが、経歴を捏造したとの噂もあります。

経歴詐称は、徳川家康もやっていたそうですから、昔の人からすれば珍しいことではなかったのでしょうね。

子孫に名将と王様がいるとは、李信は大将軍どころで終わらなかった大物だったんですね。

ちなみに先程も少し紹介いたしましたが、李淵の子孫には、楊貴妃におぼれて国を危うくした玄宗皇帝がいます。


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史上最高の名君・李世民(りせいみん)

貞観の治(じょうかんのち)と呼ばれる政治をおこなった名君・李世民(りせいみん)も、李信の末裔に当たる人物です。

さきほどご紹介いたしました唐の初代皇帝・李淵の次男が、この李世民です。

貞観の治は、中国5000年の歴史の中で、最も国が平和に治められていた時代といわれています。

「あまりにも平和で戸締まりの必要がなく、食料が豊富だったため、旅人は食料を持たなくなった」

というほどでした。

その政治手法は、貞観政要(じょうかんせいよう)という本にまとめられ、日本の鎌倉幕府室町幕府・江戸幕府などの臨時政府でも参考とされました。

徳川家康が愛読していたことでも有名です。

この貞観政要は、現代の企業経営にも応用されています。

特に、ライフネット生命の創業者・出口治明(でぐち はるあき)さんは、この貞観政要を読み込んで企業経営に役立て、自らも貞観政要についての解説本を出版しています。

李世民は、中国史上唯一の女帝・武則天(またの名を則天武后)を寵愛したことでも有名です。

ところが賢かった李世民は、武則天の聡明さを危険視して遠ざけたといわれています。

その武則天は、李世民の死後、李世民の息子である三代皇帝・高宗皇帝に愛され、690年に皇帝に即位しています。

そして705年の退位まで、女帝として君臨しています。


ここまで、唐王朝の歴代皇帝が、李信の末裔であるということを解説してまいりました。

しかし、西涼の王・李暠の末裔を名乗っていた唐王朝・李氏は、実際のところは北方民族の鮮卑族を起源に持つ一族なのだそうです。

つまり唐王朝は、李暠の末裔ではないということになります。

そうなると、やはり唐王朝は、系図を詐称したということになるのでしょう。

となると唐王朝は、正式には李信の末裔でもなんでもないということになります。

一応、唐王朝は老子こと李耳の末裔を名乗っていたため、ここに李信とのつながりも解説いたしましたが、現在の通説では、唐王朝と李信に繋がりはないことになっているようです。

また、この場を借りて、貴重なご意見をいただきましたお方に、深く御礼を申しあげます。ありがとうございました。


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キングダムの歴史を年表でカンタン解説

漫画キングダムについて、ザッとですが年表で解説いたしました。


  • 紀元前260年 
    長平の戦い。秦将・白起が趙将・趙括と趙軍45万を撃破。
    趙国の宰相・藺相如(りんしょうじょ)死去(死去したのは翌年の259年という説もあり)
  • 紀元前259年
    のちの始皇帝・贏政(えいせい)が、趙国の首都・邯鄲で誕生
  • 紀元前251年
    秦の昭王(昭襄王)が死去
  • 紀元前250年
    秦の孝文王が死去
    秦の荘襄王が即位し、呂不韋が丞相に就任
  • 紀元前247年
    魏国の信陵君が合従軍をひきいて蒙驁(もうごう)を撃破し、函谷関を攻撃するが敗北。
    秦の荘襄王が死去し、13歳の贏政が秦王に即位。同時に王騎・ヒョウ公・蒙驁の3名が将軍に就任。
  • 紀元前245年
    趙将・廉頗が趙将・楽乗を撃破し、趙国から魏国へ亡命
  • 紀元前244年
    秦将・蒙驁が韓を攻撃。13城を奪取。
    秦将・王騎死去
  • 紀元前242年
    趙将・李牧が、燕国の武遂と方城の2城を奪取。
    趙将・龐煖が、燕国の将・劇辛を討ち取る。
    秦将・蒙驁が、魏国を攻撃。20城を奪取
  • 紀元前241年
    楚の春申君が合従軍(趙・楚・韓・魏・燕)をひきいて秦国の防御拠点・函谷関を攻撃。
    趙将・龐煖が合従軍の別働隊(趙・楚・魏・燕)をひきいて秦国の『さい』という地を攻撃。
  • 紀元前240年
    秦将・蒙驁死去。
  • 紀元前239年
    秦王・贏政の弟・成蟜が反乱をおこして戦死。
  • 紀元前238年
    秦王・贏政が22歳で加冠の儀(元服)をおこなう。
    ろうあいの乱が勃発するが、即座に鎮圧され、ろうあい処刑。
    戦国四君最後のひとりだった楚の春申君が李園に暗殺される。
  • 紀元前236年
    秦将・王翦が、楊端和桓騎とともに趙国を攻撃し、重要拠点の閼与(あつよ)と鄴(ぎょう)を制圧。


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  • 紀元前235年
    秦の丞相だった呂不韋が服毒自殺
  • 紀元前234年
    秦将・桓騎が趙国を攻撃し、趙将・コチョウを討ち取り、趙軍10万人を斬首。
  • 紀元前233年
    秦将・桓騎が平陽と武城の地を攻略するも、ギ安という地で趙国大将軍・李牧に大敗し、戦死または庶民へ降格されて燕国へ亡命
  • 紀元前230年
    秦国の内使・の攻撃で、韓滅亡
  • 紀元前229年
    秦将・王翦が、楊端和・羌瘣とともに趙国を攻撃。
    李牧が趙国王に処刑される。
    趙将・司馬尚は逃亡。
  • 紀元前228年
    趙滅亡。このとき李信は趙国の太原・雲中方面を攻略。
  • 紀元前226年
    暗殺者・荊軻により、始皇帝暗殺未遂が起こる
    暗殺未遂の報復として、李信が燕の太子・丹を打ち取る


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  • 紀元前225年
    魏滅亡
    秦将・李信と蒙恬が、楚将・項燕に大敗
  • 紀元前224年
    秦将・王翦が楚を攻撃し、楚王負芻(ふすう)を捕縛
  • 紀元前223年
    秦将・王翦と蒙武が楚を攻撃し、楚王・昌平君と項燕が戦死。
    楚滅亡。
  • 紀元前222年
    秦将・李信と王賁により、燕・代(趙国の亡命政権)滅亡。
  • 紀元前221年
    秦将・李信、王賁、蒙恬により、斉滅亡
    秦国が天下統一を達成
  • 紀元前220年
    贏政が皇帝に即位。始皇帝を名乗る
  • 紀元前210年
    始皇帝死去
    趙高と李斯の画策により、始皇帝の末子・胡亥(こがい)が二世皇帝に即位
    始皇帝の長子・扶蘇(ふそ)と蒙恬が処刑される


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  • 紀元前209年
    秦将・蒙恬の弟・蒙毅が趙高に処刑される
    陳勝・呉広の乱が勃発
  • 紀元前207年
    丞相・李斯が、宦官・趙高に処刑される
    二世皇帝・胡亥が趙高に殺される
    始皇帝の孫・子嬰(しえい)が、皇帝の位を廃して王の位を復活させる。子嬰が秦王に即位
    趙高が秦王・子嬰に殺される。
  • 紀元前206年
    秦国滅亡。秦の首都・咸陽が、楚将・項燕の孫・項羽と、沛の劉邦によって陥落。
    項羽によって秦王・子嬰が処刑される
    秦国が滅亡した直後、楚の項羽と、漢の劉邦の間で、楚漢戦争(そかんせんそう)勃発
  • 紀元前202年
    垓下(がいか)の戦いで、項羽が戦死し、楚漢戦争終結
    劉邦が皇帝に即位し、漢が天下統一を成し遂げる

 

キングダムと三国志の関係を、以下のリンク記事で、わかりやすく解説いたしました。


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李信は大将軍になれたのか?

そもそも史実において、李信は大将軍になれたのでしょうか?

結論から申し上げますと、李信は大将軍になれました。

先程もすこしだけ解説いたしましたが、李信は秦国で、大将軍・南鄭侯という位を与えられています。

南鄭(なんてい)というのは、彼が支配していた領地の名前です。

劉邦や劉備の拠点として有名です。

では、李信はいつ大将軍となったのでしょうか?

実は、李信がいつ大将軍になったのかについては、史実に記録がないため、定かではありません。

これは筆者の推測ですが、紀元前225年に、李信は大将軍となったのではないでしょうか。

紀元前225年とは、すなわち李信が楚の大将軍・項燕に大敗北を喫したときです。


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大将軍とは、すなわち軍事のトップのことです。

のちの漢という国では韓信や衛青などの名将が、大将軍」に任命されて、各方面軍の司令官として戦っていました。

秦王・贏政のもと、秦国は六国を相手に交戦していました。

以下に、韓・趙・魏・楚・燕・斉の六カ国が滅びた年代と、滅ぼした将軍の名前を一覧でまとめてみました。

以下のまとめをみると、六国を滅ぼしたのは、おもに王翦・王賁親子によるものだということがわかります。

最弱国の韓が、騰に滅ぼされたことを除けば、残りの5カ国はすべて王翦と王賁の親子が滅ぼしているのです。(さらに趙国の亡命政権・代を王賁が、南の越国を王翦が滅ぼしています)

  • 紀元前230年
    韓滅亡
    内史騰
  • 紀元前228年
    趙滅亡
    王翦・羌瘣
  • 紀元前226年
    燕の首都陥落
    王翦・李信
  • 紀元前225年
    魏滅亡
    王賁
  • 紀元前225年
    楚に大敗
    李信・蒙恬
  • 紀元前224年
    楚の将軍・項燕を撃破
    王翦
  • 紀元前223年
    楚滅亡
    王翦・蒙武
  • 紀元前222年
    燕滅亡
    王賁
  • 紀元前221年
    斉滅亡
    王賁


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この中で、李信が活躍しているのは

  1. 趙国滅亡の際、首都・邯鄲とは別方面を攻略していたこと
  2. 燕国の首都を陥落させた戦いで、始皇帝を暗殺しようとした燕国の太子・丹を討ち取ったこと

この2つです。

しかしこれら李信の活躍は、名将・王翦の副将としての活躍です。

趙・燕を攻略した大将軍(最高司令官)は、明らかに王翦です。

燕国の太子・丹を李信が討ち取った翌年の紀元前225年、李信は蒙恬を副将として20万の軍団をひきいて、楚を攻撃しています。

20万の軍団を預けられたときに、李信は大将軍に任命されたのでしょう。

おそらく大将軍への抜擢は、燕国の太子・丹を討ち取った褒美としての昇進だったと考えられます。

なぜならこの楚攻略戦が、李信が一国を滅ぼすための方面軍司令官として、出陣した唯一の戦いなのですから。

このときの秦軍の数は、全軍あわせれば約60万。

李信はその3分の1を預けられたわけですから、立派に大将軍と呼んで良いはずです。

しかし結果はご存知の通りです。

李信は項燕を相手に、ありえないほどの大敗北を喫してしまうのです。

李信の敗北後、楚は王翦と蒙武という、老練な武将によって滅ぼされます。

最後の敵・斉国は、すでに40年も戦争をしておらず、秦国の同盟国という扱いはされていたものの、実質的に秦の属国でした。

王賁が斉国を攻めたとき、斉王は戦わずに降伏したといいますので、このとき李信の活躍の場はなかったはずです。

おそらく李信は、楚に敗北した直後に、大将軍の位を剥奪されたのでしょう。

その後、目立った活躍をすることもなく、李信は亡くなったのではないでしょうか。

秦国が天下統一のあと、蒙恬は北方の異民族討伐で活躍していますが、そこに李信の名前はまったく出てきません。

李信は、大敗北したその汚名を挽回する機会もないままに天下統一が達成されたあと、失意のうちに亡くなってしまったのかもしれません。

 

キングダムのラスボスについては、以下のリンク記事でくわしく解説いたしました。

 

余談ですが、キングダムで李信は奴隷階級の出身となっています。

秦国は戦神・昭王の祖父にあたる名君・孝公の時代に、名宰相・商鞅(しょうおう)による大改革がおこなわれていました。

その改革で、秦国は20段階の爵位が定められ、明確な身分制度が確立されていたのです。

秦国の国民は全員が、その20の爵位のうち、どれかを必ず与えられていたのです。

しかし、キングダムの信や漂は、この20階級よりも下の奴隷階級に位置していました。

彼らは貴族などの所有物となっていたのです。(呂不韋は、信や漂のような奴隷を1万人以上かかえていた)


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 李信の最後ははっきりしておらず、おそらく秦国の滅亡以前に亡くなっていたのだろう
  2. 史実上、李信の妻ははっきりしていないが、キングダムでは、おそらく河了貂が妻となる
  3. 李信の子孫には、飛将軍・李広や武昭王・李暠など、大物が多数いる

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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コメント

コメント一覧 (8件)

  • 陽が史実で嫁てのは掲示板のデマ、河了貂はエイプリルフールネタで一時期ネットを出回った話。
    李信の嫁は史実に記載が無いのが正解。
    故に誰がなってもおかしくはない、作者次第。
    その作者のコメントを読み解き、予想するのが最も確率が高い。
    作者はナタリーのインタビューや公式ガイドブックで、信の相手は貂か羌瘣か一人にすでに絞っており、ハーレムにはしないという内容のコメントをしている。
    その後、情熱大陸では羌瘣とのロマンスの構想があることをネタばしており、また、以後の漫画の描写から見るにそれは羌瘣であることがおおよそ読み取れる。
    おそらく彼女が史実の舞台から消えるタイミングで信の妻、子の母という役割にチェンジさせると自分は読んでいる。

  • 長恨歌は李白ではありません。白居易の作品です。
    唐の皇帝である李氏が子孫という話は、明らかに作り話でしょう。
    なぜなら、唐の皇帝の家系は北方民族のルーツを持っているからです。
    これは現在の研究では明らかです。
    現行高校世界史教科書にも記載があります。

    • いつもお世話になっております!
      貴重なコメントをいただきまして誠にありがとうございます。
      また、素晴らしい情報もいただきましたことにも、重ねて御礼申し上げます。
      お教えを基にして調査を深め、さらに記事の精度を上げて参りたいと思います。
      本当にありがとうございます。

  • 信は始皇帝が亡くなった後 漢に亡命したのでは?

    息子が漢の大将軍になってるし 趙高に嫌気もしているだろう

    始皇帝には義理があっても 趙高にはないだろうからね

    どちらかと言うと バイアンの乱の時の恨みもあるだろうし

    • 貴重なコメントを頂きましてありがとうございます。
      おっしゃる通りかもしれません。
      李信は他国へ亡命し、生きながらえたのかもしれませんね。
      この度は当サイトへお越しくださいましてありがとうございました
      またぜひぜひ、お越し下さいませ

  • 唐の皇室が鮮卑にルーツを持つという説は少し前から流行っており(最近の反中国・反漢民族的な風潮も関係あるのかな?)、事実唐は北魏という鮮卑族王朝と関係があります
    ここまで言うと、なんだじゃあ唐は北方系民族じゃないかとなりそうですかちょっと立ち止まって考えてみてください
    見落としがちですが大切なのは北魏は漢化政策というのをやったことです。ですのでその後北魏の鮮卑系貴族はどんな血が混ざっているか不明です。また、北魏には漢人官僚も大量にいました
    鮮卑という民族自体もこの前後の時代に消滅します
    要するに、本当はどうなのかわからないんです。時代が時代ですからあくまで説の領域を出ません
    また、一説には北魏が李氏(李信の子孫と呼ばれる一族です)をかくまっていたという説もあるくらいです
    もしかしたら李信の子孫が本当に唐皇室に繋がっているかもしれませんよ
    要するにわかんないんですよ。例の高校の教科書もあくまで1社しか掲載していませんしあくまで説扱いです。これから決定的な証拠が出たら変わるかもしれませんね
    現時点で明確に分かっている情報でフェアに考えると、唐という国は漢民族化した鮮卑系貴族と土着漢民族豪族のハイブリッド王朝と考えるのが自然でしょう

    • 貴重なコメントを頂きましてありがとうございます。
      おっしゃる通りかもしれません。
      この度は当サイトへお越しくださいましてありがとうございました
      またぜひぜひ、お越し下さいませ

  • すっごく勉強になりました!
    ちなみに、李白の詩で三国志をよんだ有名なやつが、
    「赤壁の楼船 地を掃って空し」(赤壁歌送別より一部分)
    ですね!

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